〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.269 2014/09/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の運動論(その4) トマス・ブラッドワーディンの『数比論』から第一章第三節を見ていま す。数比の基本として、いくつかの前提と、それから導かれる帰結を列挙 しているところでした。前回に引き続き、残りの帰結を挙げておきましょ う。第六の帰結は「第一項が第二項の倍で、第二項が第三項の倍より小さ い場合、第一項から第三項への比は第二項から第三項への比の倍(二乗) よりも大きくなる」というもので、これも前回のものと同じような証明が 記されています。 続く第七の帰結は、文面だけ見るとちょっと面食らいます。どういう意味 なのかがあまり釈然としないのです。「いかなる比であろうと、等比に対 してはより大きいともより小さいとも言えない」。比の大小というのは、 ここでは比を構成する数値の格差が大きいか小さいかを言うようです。表 記における開きの大きさということで、4 : 1は2 : 1よりも大きいとうこ とでしょう。ですが、そうした任意の比は、等比(1 : 1)に対しては比 を構成しない、というのですね。どういうことでしょうか。 その論証を見てみると、こんな感じです(意訳・要約しています)。「も し等比ではないなんらかの比が、等比に対してより大きいか小さいかをな すとするなら、その比を任意に掛け合わせた場合に、等比を越えて大きく (または小さく)なることが考えられる。一方で、その比を任意の比と比 べる場合にも、掛け合わせによってその任意の比を越えて大きく(または 小さく)なる。ならばその任意の比と等比は同等ということになってしま う。これは矛盾である。したがって第一の前提は誤りとなり、なんらかの 比が等比に対して大きいか小さいかをなすことはできない」。うーん、こ れでもなんだか腑に落ちませんね。 論証としてほかにもいくつかの議論が示されていますが、その一つはこう いうふうに記されています。「(比を設けることができるなら)とある比 が等比よりも小さい場合、その比を何倍かすれば等比に等しくなるはず だ。けれども実際には等比よりも小さい比は、何倍にしようが等比よりも 小さいままである。ゆえに、ある比と等比の間で比を取ることはできな い」。 底本の冒頭を飾るサビーヌ・ロムヴォーによる解説(p. XXVIII)を見て みましょう。それによると、そもそも二つの異なる数値(ここでは比では なく数値であることが重要です)の間に比が生じるためには、小さい方の 数値の倍数が大きい方の数値よりも大きくなる場合がある、という関係性 がなければなりません(A < Bで、nA > Bとなる場合に、AとBの間には 比が設定できるということです)。これはエウクレイデス(ユークリッ ド)の『概論』第五書に見られる定義なのですね。ところが数比の場合に は、たとえば1 : 2の比はn倍してもn(1 : 2)にしかなりません。仮にこ れをAとし、1 : 1の等比をBとすると、A < Bですが、n倍したところで nA < Bにしかなりません。等比になることも、等比を越えることもない わけです。したがって上のエウクレイデスの定義から、両者の間には比の 関係は成り立たないということになります。 というか、これは言葉を変えれば、要するに次のことを言っているにすぎ ないと思われます。任意の比が1 : 1という比に対してどういう比を取る かというのは、そもそも意味がないし冗長でしかありません。1 : 1に対 しての1 : 2の比は1 : 2にしかなりません。比同士を比較する場合、等比 ではない数比同士を比較してこそ、比としての意味があるわけです。この こと自体は至極当然のことですが、文章上の表現のせいで多少とも汲み取 りにくくなっているのだと思われます。 とはいえ、相手が等比でない場合、つまり4 : 1に対する2 : 1を比で表す ことはできるのに(この場合は1 : 2ですね)、相手が等比だとそうでき ないというのはどこか逆説的です。この逆説性についてはブラッドワーデ ィン自身も意識していたらしく(ロムヴォーいわく)、上の帰結に対して いくつかの異論を想定し、それらに反論してみせています。ここではその 詳細には立ち入りませんが、いずれにしても、ロムヴォーの解説に従うな ら、ブラッドワーディンはここで、数比の適用範囲を狭く限定しているの だといいます。 第八の帰結もあります。「差の大きい比はいかなるものであれ、差の小さ い比よりも大きいとも小さいとも言えない」。これも要するに、表記に惑 わされるなということだと思われます。4 : 2は2 : 1よりも、表記(見か け)の上では大きいですが、内実は比として同一ですよね。比は通常の数 値の比較よりも、抽象度を一段高めたものであるだけに、通常の数値の比 較とは操作的な振る舞いが異なるわけです。そのことをブラッドワーディ ンはこうしてまとめてみせているということなのでしょう。同書で数比に ついての基本とされているのは以上です。で、ここから先がいよいよ本論 となります。次回からゆっっくり見ていくことにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その2) さて、今回から『スンマ』第一章の問一を読んでいくことにします。形式 はスコラ哲学の文章によくある、肯定と否定の両論をそれぞれいくつか提 示して、最終的に解決案を講じるというものです。今回はまず、問いに対 する否定的見解の列挙を途中まで見てみます。 # # # Articulus 1 De possibilitate sciendi (...) Quaestio I Utrum contingat hominem aliquid scire Circa primum istorum arguitur quod non contingat hominem scire quidquid. Primo ex parte modi sciendi sic. Quidquid scit homo scit ex priori et notiori sibi, I Posteriorum et I Physicorum. Sic autem non contingat eum scire aliquid nisi sciendo illud per prius et notius eo, et eadem ratione illud per aliud prius et notius illo, et sic infinitum. Sic autem procedendo ad scientiam nihil contingit scire omnio, secundum Philosophum II Metaphysicae. Ergo etc. Secundo ex parte medii quo scitur sic. Omnis humana cognitatio intellectiva ortum habet a sensu, I Metaphysicae et II Posteriorum. Sed "a sensibus corporis sincera veritas non est expetenda" secundum Augustinum 83 Quaestionum q9. Ergo cognitione intellectiva non potest homo scire sinceram veritatem. Sed non contingit hominem scire nisi sciendo sinceram veritatem, quia nihil scitur nisi verum, I Posteriorum, et non est veritas nisi sit sincera, id est pura a falsitate secundum Augustinum 83 Quaestionum q1. Ergo etc. 第一章 学知の可能性について (中略) 問一 人間は何かを知ることがありうるか それら(設問)のうち最初のものについて、何であれ人間が知ることはあ りえないという議論を示す。 第一に、知の在り方からの次のような議論がある。『分析論後書』第一巻 および『自然学』第一巻によれば、人間は、おのれが知るいかなるもの も、以前に知っていたこと、また慣れ親しんだことから知るのである。だ が、人間が何かを知るには、以前に知っていたこと、慣れ親しんだことに よって対象を知る以外になく、同じ理拠により、その[以前の]対象も、 以前に知っていたこと、慣れ親しんだ別の対象によって知るのであり、そ れは無限にまで至ることになる。ただし、『形而上学』第二巻での哲学者 によれば、そのように学知に向けて進んでいこうとも、すべてを知ること にはまったくならない。したがって……以下略。 第二に、知るための手段からの次のような議論がある。『形而上学』第一 巻および『分析論後書』第二巻によれば、人間のあらゆる知的認識は感覚 において生じる。だがアウグスティヌスの『八三の問題集』第九問によれ ば、「肉体の感覚からでは、純粋な真理は望めない」。したがって知的な 認識からは、人間は純粋な真理を知ることはできない。だが、人間が知る とは、純粋な真理を知ることによって以外にない。なぜなら、『分析論後 書』第一巻によれば、真理以外には何も知られることはないからであり、 また、真理は純粋なもの以外にはないからだ。すなわち、アウグスティヌ スの『八三の問題』第一問によるなら、真理は誤謬を免れているのであ る。したがって……以下略。 Tertio ex eodem medio arguebant negantes scientiam, sicut habetur IV Metaphysicae, sic. Sensus nihil certi apprehendit de re, quia si aliquid apparet uni de re aliqua, contrarium eius apparet alteri de eadem, et quod apparet uni in uno tempore et in una dispositione, contrarium eius apparet eidem in alio temprore et in alia dispositione. Quare cum intellectus nihil apprehendit nisi a sensu, intellectus nihil certi potest apprehendere de re quacumque. Non potest autem esse scientia nisi apprehendendo aliquid certum et determinatum secundum Philosophum VI Metaphysicae. Ergo etc. Quarto ex parte scibilis, et est similiter argumentum eorum IV Metaphysicae, sic. Scientia non est nisi de fixo et permanenti secundum Boethium I Arithmeticae. In rebus autem sensibilibus, ex quibus habetur omnis humana cognitio mediante sensu, non est aliquid fixum aut permanens secundum Augustinum, qui dicit 83 Quaestionum q9, "Quod sensibile dicitur sine ulla intermissione temporis commutatur". Ergo etc. 第三に、『形而上学』第四巻にあるように、知を否定する人々が同じ手段 をもとに議論していた点もある。感覚は事物について確かなことを把握で きない。なぜなら、仮にある人にとって、何らかの事物について何かが現 れるとしたら、別の人にはその同じ事物について、まったく別の何かが現 れたりもするからだ。また、ある人に、ある時間と空間において何かが現 れるなら、他の時間や空間では、その同じ事物についてまったく別の何か 現れたりもするからだ。知性が把握するのは感覚による以外にない以上、 このことゆえに、知性はいかなる事物についても確かなことは何一つ把握 できない。一方で『形而上学』第六巻での哲学者によれば、確かで限定さ れた何らかのものを把握する以外に、学知というものはありえない。した がって……以下略。 第四に、知の対象からの議論もある。それはまた、『形而上学』第四巻の 議論に類似するものでもある。ボエティウスの『算術論』第一巻によれ ば、学知とは不動かつ不変のものについての学知である以外にない。だ が、感覚を手段とする人間の認識のいっさいが拠り所とする、感覚的な事 物においては、アウグスティヌスが『八三の問い』第九問で「感覚的対象 と言われるものは、不断に変化する」と述べているように、不動かつ不変 なものなどない。したがって……以下略。 # # # 各節の「以下略」は当然ながら「人間が知ることはありえない」というも との帰結を省いているわけですね。また、冒頭の「中略」とした部分に は、実は第一章で扱われる問い(見出し)が列挙されています。目下の文 献購読では問一とおそらく問三あたりしか読まないと思うので、割愛しま したが、やはり簡単に紹介しておきましょう。第一章では一二個の問いが 検討されます。まず最初の三つで、人間は知ることができるか、神の照明 なしにできるか、神の光そのものを知ることはできるかという問題が検討 されます。 続く三つは、人間はもとより知をもつのか、それとも知を獲得するのか、 人間は学知をおのずと獲得できるのか、知の獲得は他の人間からの教えで できのるか、といった問題です。さらに次の三つはより神学的です。知の 獲得は神の教えでなされるのか、知の獲得は天使を通じてなされうるか、 人間は独力で知を獲得できるのか。そして最後の三つは、人間は予備知識 なしに学知を獲得できるか、学知の獲得に必要な予備知識は人間にもとよ り備わっているのか、学知の獲得はその都度、それがはじめてであるかの ようになされるのか、となっています。 前回触れたように、ここにすでにヘンリクスの書きっぷりの一端が見られ るようにも思います。分析によって細かくテーマを細分化して章立てると いうよりも、問題から別の類似の問題へと次々にスライドしていく感じで すね。このあたりの特徴については折に触れてまたその都度確認していき たいと思います。 さて、中身のほうですが、たびたび言及されているアウグスティヌスの 『八三の問題集』(De diversis quaestionibus octoginta tribus)は、 ネットではたとえばsant' Agonistoのサイトなどにテキストがあります (http://www.augustinus.it/latino/ottantatre_questioni/ index2.htm)。それで見ると、第九問は「真理は肉体的感覚によって知 覚されうるか」というものです。ヘンリクスが引用している部分ですが、 ほぼ忠実ながら、字面などは若干異なってもいます。たとえば、アウグス ティヌスのテキストで「Non est igitur exspectanda sinceritas veritatis a sensibus corporis」となっているところは、ヘンリクスの引 用では「a sensibus corporis sincera veritas non est expetenda」と なっています。意味としては同じですが、これは実際のテキストを参照す るというよりも、記憶にもとづいて書いている可能性が高いように思われ ます。 この文献購読シリーズでは、とくにコメントすべきことが限り、煩雑にな ってしまうので著作のどの部分が引用されているのかを枚挙することはし ないでおきたいと思いますが、いずれにしてもアウグスティヌスがアリス トテレスとともに引用されているのも興味深い点です。同じ議論の裏付け として両者が併用されたりしているのですね。邦語で読めるヘンリクスの 研究書、加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』(創文社、1998)の序章 に、そのあたりについてのコメントがあります。それによると、ヘンリク スの生涯における思想的な発展がどのようなものだったかについては諸説 混淆の状態にあり、アリストテレス的立場からアウグスティヌス的立場に 移り変わったという説もあれば、逆にアウグスティヌス的立場(プラトン 主義的立場)からアリストテレス的な立場に移ったという説もあったりす るといいます。アリストテレス的立場というのも一様ではなく、アヴェロ エス的な立場から移行したとか、アヴィセンナ的な立場に移行したとか、 様々に言われているようです(p.13)。で、説得的な研究はまただない とされています。うーん、悩ましいところですね。 この『ガンのヘンリクスの哲学』は多少古めの参考書になってきてはいま すが、今なお大変有益です。でも、より新しい見地がどうなっているのか も気になるところです。少しそのあたりも探ってみたいと思います。とり あえずは、ブリル社から出ているゴードン・ウィルソン編の『ゲントのヘ ンリクス必携』あたりを見ていくことにしたいと思います。これも次回か ら。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------