〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.270 2014/09/20 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の運動論(その5) ブラッドワーディン『数比論』から、続いて第二章を見ていきましょう。 ここからが本論になります。第二章は四つの節に分かれ、それぞれで一つ ずつ、誤りとされるテーゼが取り上げられ反論が加えられていきます。今 回はまず第一節です。そこでは「運動の速度の比は、動因の潜勢力が動体 の潜勢力をどれほど上回るかに従う」というテーゼが斥けられます。この テーゼは、運動の速度は、動因の「駆動力」と動体の「抵抗力」の差分に 比例する、というふうに読めそうですね。仏語訳の訳注では、次のように 定式化されています。仮に二つの動因があり、それが作用しうる力をそれ ぞれP1とP2とします。一方でそれらが働きかける動体の抵抗力をR1と R2とします。また、それぞれの運動の速度V1とV2とします。すると、 V1 : V2 = (P1 - R1) : (P2 - R2)になる、というわけです。 このテーゼは、アリストテレス『自然学』へのアヴェロエスによる注解 (第四巻への注解七一、第七巻への注解三五および三九など)から導かれ るとされているものですが、ブラッドワーディンはこれに全部で七つほど の反論を挙げています。反論はいずれも、そのテーゼから導かれる帰結 が、アリストテレスの述べることと齟齬をきたす、という観点でなされて います。一つめは、この説で言うと半分の駆動力の動因が半分の抵抗力の 動体を動かすとき、力の差分も半分になり、速度(同一時間での移動距 離)も半分になる、という帰結です。しかしながらアリストテレスは、 「半分の動因は半分の動体を、同じ時間で同じ距離だけ動かす」(『自然 学』第七巻)と述べているというのですね。速度は同じになるというわけ です。 二つめは、そのテーゼに従うなら、同じ二つの動因が一緒に合わさって、 同じく合わさった同じ二つの動体を動かす場合、一つずつの場合に比べて 速度は倍になる、という帰結です。実際にはそうはならない、というわけ なのですが、これについてもアリストテレスが引き合いに出され、斥けら れています。「二つの合わさった動因が二つの合わさった動体を動かすと きも、一つずつの場合と同じ速度になる」とアリストテレスは述べている のですね。三つめは、力の差分が類似的な比(幾何学的な比と称していま す)をなすような動因と動体のペアが二組がある場合、たとえば一方が 2 : 1で、他方が6 : 3であれば、差分は異なるので、二組のそれぞれの運 動速度は異なる、という帰結です。ブラッドワーディンはここでもまた、 実際には速度は同じになるとし、動因と動体との力が比例関係にあり、そ の比が同じであれば速度も同じである、というアリストテレス(およびア ヴェロエス)の説明を引いています。 四つめとして挙げられているのは、「動因と動体が混淆して、駆動力とと もに内的な抵抗力をもっている物体、密度のある環境でのほうが真空にお けるよりも速度は大きい」という帰結です。これはちょっとわかりにくい ですね。なにやら思考実験のような様相なのですが、後で示されているよ うに、主に土塊などがなんらかの環境(傾斜のある場所とか)を落下する ような場面を考えているようです。とにかく動因と動体が一つになってい て、動かす力が勝っているために自走できる実体があるとします。周りが 真空であるような環境でなら、しかるべき速度で自走することになりま す。ではその環境に密度があり一定の抵抗力があったらどうでしょうか。 普通に考えれば、その抵抗力により自走する実体は遅くなります。しかし ながら上のテーゼによれば、次のようになるというのです。 自走する実体Aがあるとします。そして密度を調整できる環境Bがあると します。さらに、Aよりも駆動力と内的な抵抗力の差が小さいCを仮定 し、Aが真空内で動くのと同じ速度でB内をCが動くよう、Bの密度を調整 するとします。ここでAをもとのBの環境に置いてCと一緒に動かしたら どうなるでしょうか。前提から、CよりもAのほうが力の差分は大きいの で、Aの速度が勝るということになる、というのです……。ですがこれも 変な話です。Aと同じ速度になるようにBを調整する(密度を減らす)と いうことは、Bは真空の場合と同等になるはずです。ならばもとのBの密 度でならば、AはCよりも遅いということになります。 思考実験的な話が続きます。五つめとして、力の差分が小さければ速度は 遅くなるなら、大量の土塊と少量の土塊を(おらくは斜面などで)落とす 場合に、差分が小さくなる少量のほうが落ちる速度は遅い、とされます。 これは抵抗力が一定だという前提で考えているわけですが、大量の土塊は 駆動力(重さ)も大きい分、密度が高くなって抵抗力も大きくなるわけ で、その前提は妥当ではないとうことになります。六つめは環境が異なる 場合を問題にしています。ある環境がもつ抵抗力と動因の駆動力の差分 が、同じ動因の別の環境での差分に対して倍(2 : 1)の関係であるよう な場合、速度は倍になると帰結されるわけですが、実際にはそうはならな いとブラッドワーディンは言います。密度の調整によって速度は変えられ るとしても、いくらでも変えられるというわけではないことを指摘してい ます。七つめも同様の議論で、動因の駆動力が(別の動因に対して)大き いほど速度も速くなるという議論を否定しています。 そもそも力の種類が違う場合に、その力の比をもとに速度の関係を示すこ とはできない、というのがブラッドワーディンの基本的な理解なのです ね。これは比そのものの考え方から導かれています(すでに第一章で見ま した)。また、三つめの帰結について議論する際に、ブラッドワーディン は次のことを指摘しています。アリストテレス(およびアヴェロエス)が 比例関係の話をする場合、それは算術的な比や、上のテーゼのような駆動 力と抵抗力の差分といったことを意味してはいないというのです。駆動力 なら同じ物体の駆動力同士、抵抗力なら同じ物体の抵抗力同士が比を構成 できるけれども、駆動力と抵抗力が異種であるなら、まずは両者の間に比 の関係が生じうること自体が論証されなくてはならない、というわけで す。ブラッドワーディンが問題にしているのはまさにそうした点です。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その3) 『スンマ』の第一章第一問を読んでいます。「人間は何かを知ることがで きるか」という問いについて、まず否定的な議論を列挙していました。今 回はその残りと、それに続く異論、つまり肯定的な議論の列挙に入りま す。言わずもがなですが、「したがって……以下略」というところも、肯 定の議論では「したがって人間は何かを知ることができる」と読み替えな くてはなりません。 # # # Quinto ex parte scientis, et est argumentum Menonis quo negabat scientiam in principio Posteriorum, ut dicit Commentator super IX Metaphysicae, sic, "Nemo addiscit nisi qui aliquid novit", secundum Augustinum III De Academicis et Philosophum IX Metaphysicae. Qui autem aliquid novit non addiscit, quia "discere est motus ad sciendum". Nemo ergo est qui aliquid addiscit. "Nemo autem potest habere disciplinam qui nihil didicit", secundum Augustinum ibidem. Ergo etc. Sexto arguitur ex eodem medio aliter formando argumentum sic. "Nihil addiscit qui nihil novit. Non potest autem habere disciplinam qui nihil addiscit". Ergo "non potest habere disciplinam qui nihil novit". Homo quilibet ab initio nihil novit, quia intellectus humanus, antequam recipiat species, est "sicut tabla nuda in qua nihil depictum est", ut dicitur in III De anima. Ergo etc. 五つめとして、学知を得る側からの議論がある。それはメノンの議論で、 『分析論後書』の冒頭で学知を否定してみせた際の拠り所となっているも のだ。『形而上学』第九巻について注釈者(アヴェロエス)はそのように 述べている。アウグスティヌスの『アカデメイア派について』第三巻と、 哲学者の『形而上学』第九巻によれば、「誰も、知っている以外のことを 修得することはない」。だが、何かを知っている者はそれを修得せずとも よい。なぜなら「学ぶことは、学知の対象へと向かう運動である」から だ。ゆえに誰も、何かを修得したりはしない。しかしながら、アウグステ ィヌスの同書によれば、「何も修得していない者は、学識を修めることは できない」。したがって……以下略。 六つめとして、同じ方途から別様にしつらえた次のような議論がある。 「何も知らない者は何も修得することはない。だが、何も修得しない者は 学識を修めることはできない」。ゆえに「何も知らない者は学識を修める ことはできない」。いかなる人間も最初は何も知らない。なぜなら、像を 受け取る以前の人間知性は、『霊魂論』第三巻で言われているように、 「何も描かれていないむき出しの板のようなもの」だからだ。したがっ て……以下略。 Septimo ex parte obiecti sic. Ille non potest scire rem qui non percipit essentiam et quidditatem rei, sed solum idolum eius, quia non novit Herculem qui solum vidit picturam eius. Homo autem nihil percipit de re nisi solum idolum eius ut speciem receptam per sensus, quae idolum rei est, non ipsa res. "Lapis enim non est in anima, sed species lapidis". Ergo etc. In contrarium arguitur primo argumento Commentatoris super principium II Metaphysicae sic. "Desiderium naturale non est frustra". "Homo", secundum Philosophum in principio Metaphysicae, "natura scire desiderat". Ergo desiderium hominis ad scire non est frustra. Esset autem frustra, nisi contingeret eum scire. Ergo etc. 七つめとして、対象からの次のような議論がある。事物の本性ならびに 「何性」[それが何であるか]を認識せず、ただその像のみを認識する者 は、その事物を知ることはできない。ヘラクレスの絵のみを目にする者 は、ヘラクレスを知ることはないからだ。一方で人間は、感覚によって受 け取る像として、事物の偶像を知覚する以外に、事物について何も知覚す ることはない。それは事物の偶像であり、事物そのものではない。「魂の 中にあるのは石ではなく、石の像でしかない」。したがって……以下略。 続いて異論を挙げよう。まずは『形而上学』第二巻の冒頭についての注釈 者による議論がある。「自然な望みは無益ではない」。『形而上学』冒頭 における哲学者によれば、「人間は本性として、知ることを望む」。ゆえ に人間の知に対する望みは無益ではない。だが、知ることがありえるので なければ、それは無益なものになるであろう。したがって……以下略。 Secundo ex eodem medio aliter formando argumentum sic. Quod homo naturaliter desiderat possibile est ei contigere. Secundum enim quod dicit Augustinus IV Contra Judianum, "Neque omnes homines naturali instinctu beati esse vellemus nisi esse possemus". "Homo naturaliter scire desiderat". Ergo etc. Tertio adhuc quasi ex eodem medio sic. Unumquodque potest attingere suam perfectionem ad quam naturaliter ordinatur, quia aliter esset frustra. Scire est hominis perfectio ad quam naturaliter ordinatur, quia "in scientia speculativa consistit eius felicitas", secundum Philosophum X Ethicorum. Ergo etc. 二つめとして、同じ方途から別様にしつらえた次のような議論がある。人 間が本性として望むことは、その者に生じうるものである。というのも、 アウグスティヌスが『ユリアヌス反駁』第四巻で述べていることによる と、「そうありうるのでなかったなら、私たちは、あらゆる人間が本性に よって祝福に駆り立てられることを望みはしなかっただろう」。だが「人 間は本性的に知ることを望む」のである。ゆえに……以下略。 三つめとして、これまた同じ方途からであるような、次のような議論があ る。いかなるものであろうと、おのれの完成へと至ることができる。それ は本性的に秩序づけられているものだ。なぜなら、そうでなければ、無益 であろうからだ。ところで、知ることとは、本性的に秩序づけられている 人間の完成そのものである。なぜなら、哲学者の『(ニコマコス)倫理 学』第一〇巻によば、「人間の幸福は思弁的な学知にこそある」からであ る。したがって……以下略。 # # # 仏語訳の訳注によれば、最初の段落に出てくるメノンの議論というのは、 『分析論後書』の第一巻、71a29-30にあるメノンのジレンマのことのよ うです。そこでは、人は何も学ばないか、あるいはすでに知っていること だけを学ぶかのいずれかだとされています。そのさらなる出典を指摘する なら、プラトンの『メノン』80D-Eです。 ここでアヴェロエスの注釈が言及されている点が目を惹きますね。という わけで、前回ちらっと触れたブリル版『ゲントのヘンリクス必携』から、 第四章をなしているユレス・ヤンセンスという研究者の論考「ゲントのヘ ンリクスとアヴェロエス」(pp.85-99)を見ておきましょう。アヴィセ ンナ化したアウグスティヌス主義を奉じていたとされるヘンリクスです が、一方ではアヴェロエスについての言及も多用しており、一部の思想内 容には明らかな賛同を示しているとさえいいます。ヘンリクスは1277年 のタンピエの禁令に関わっていた人物だけに、それはちょっと意外な事実 です。 しかも、アヴィセンナについては後期の著作である『治癒の書』の形而上 学部分しか引用されないのに対して、アヴェロエスについては4つの大注 解を始め、様々な著作からの引用があるというのですね。実際、ヘンリク スがアヴェロエスの著作のラテン語訳に直接アクセスできていた形跡さえ あるといいます。ルナのグイレルムス訳の『範疇論中注解』といった比較 的新しい訳を引用していたりするのですね(p.86)。 面白いのは、ヘンリクスがそうした引用をあくまでアリストテレスの思想 として示している点です。というか、アヴェロエスはアリストテレス思想 の忠実な解説者として引かれているのですね(p.87)。たとえば今回の 箇所の後半部分からは肯定の議論に入っていますが、ここでの一連の議論 を支えているのはアリストテレスの『形而上学』冒頭の、人間は本性とし て知ることを望むという一節です。それ自体はよく知られた一節ですが、 ここでは「それは無益ではない」という形で示されています。この部分は アヴェロエスによる追記なのですが、アヴェロエス自身もこれをアリスト テレスの別の箇所から拾ってきています。「自然は何も無益にはしない」 というこれまた有名な一節です。どちらもアリストテレスに準拠している のですから、それらが組み合わされても問題はないということなのでしょ うか……。 また、アヴェロエス独自の思想に属する部分についても、ヘンリクスは自 説に取り込んでいたりもするようです。さしあたり細かい点は省略します が、「ens(存在者、有)」の区分(絶対的な存在者と、知的理解の対象 としての存在者)や、知性の区分(質料的知性、作動的知性、思弁的知 性)などが代表的な独自部分です。ヤンセンスによれば、総じてヘンリク スは、アヴェロエスを形而上学よりも自然学における権威であると見なし ていたようだといいます。たとえばそうした自然学のトピックの一つとし て時間概念についての議論があります。アリストテレスに見られるアポリ ア(時間を純粋な心理的概念と見るか、物理的な実体をもつものと見る か)についてヘンリクスは、アヴェロエスの形相・質料の議論を援用し、 時間とは形相的には心的なもの、質料的には心理外のものという議論を示 しているといいます(p.91)。 もちろんアヴェロエスの議論が否定される局面も多々あるといいます。ヤ ンセンスは、とりわけアヴィセンナに対するアヴェロエスの批判を斥けて いる点に注目し、そうした箇所をいくつか詳しく取り上げています(pp. 95-98)。詳細については割愛しますが、いずれにせよ、ヤンセンスのこ の論考を読む限り、ヘンリクスのアヴェロエス観は従来言われていた以上 に両義的な印象を強くします。ヤンセンス自身が論考の冒頭で示唆してい るように、アヴェロエスに対するヘンリクスの関係はまだまだ未解明の部 分が多いということのようです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------