2005年12月24日

法王の赤い帽子

ローマ法王が赤のベルベット帽と緋色のケープで一般謁見に現れた話は、F2などでも「サンタのよう」といって紹介されていたが、このカマウロ(camauro)という帽子、今ではとても珍しいものなのだとか。普通、法王が被っているのは、カロッタという帽子で(イタリア語ではzuchetto)、法王は白、枢機卿は赤、司教が紫、一般の聖職者が黒ということになっている。で、この枢機卿の赤色は、おそらくかつてのガレーロという帽子(galero)から来るもの?ガレーロ帽について「SPAZIO」というサイトに面白い記事が載っている。これによると、ガレーロ帽の制度は、各種の制度設立者として有名なインノケンティウス4世(13世紀)からのものだそうで、20世紀半ばまで使われていた。赤の色はローマ教会への犠牲、身を捧げることを表すのだという。今回のカマウロ着用もまた法王の伝統回帰指向の現れ、なのだろうか?

そういえば、この時期に読むにとてもいいお手頃な一冊が竹下節子『ローマ法王』(中公文庫)。98年のちくま新書を改訂したもの。ヴァチカン市国の概要などが簡潔にまとめられている。著者はヴァチカンをヴァーチャル国家と見なしているのだけれど、このヴァーチャル国家という考え方はひょっとして国家論的に敷衍できないものかな、なんてことを思ったり。巻末には歴代の法王一覧がリストアップされている。

写真は12月上旬の東京・初台。
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投稿者 Masaki : 16:14

2005年12月21日

歴史への介入

少し前にここでも触れた、アルジェリア戦争の引き揚げ者の扱い問題。これいわばフランス版の「教科書問題」なのだけれど(学校教育のカリキュラムで彼らの功績をたたえるべし、と2005年2月23日付の法律が明文化しているという問題)、今月13日には、これを含むより広範な「議会による歴史への介入」に反対する声明を、著名な歴史家たちが共同で出している(文面はherodote.netに採録されている)。ここには歴史学の原則が5項目にまとめられていて(歴史は宗教ではない、道徳でもない、時事問題に隷属するのでもない、単なる記憶でもない、司法の対象になるものでもない)、それに反する動きが様々な法令でなされているとしてそれらを糾弾している(日本の場合、こうした歴史の原則そのものが最初から歪んでいるような印象も受けるよなあ)。

新自由主義の政体がすこぶる歴史介入主義的なのはとても示唆的だ。そこで前面に押し出されるのは「国家」の概念。なんだか、経済ぐらい自由放任にできないと、強国と見なされないぜ、という発想が根底にあるように見える。モデルは当然アメリカだ。アメリカは確かに、経済がグローバル化するほどに、政治権力が強まるという逆説を見事に構造化してみせているような気もする。けれども、ヨーロッパや日本など、追従・真似っこに走っている諸国は、それ以前の計画経済的なもののタガがはずれていくだけで、むしろ政治権力はその力を失う危機にさらされていきそうだ……で、比較的経済が順調なうちに政体に都合のよい国威の高揚を果たしてしまおうと焦っている感じがするのだけれど……。

投稿者 Masaki : 23:11

2005年12月20日

イスター

昨日は、ベルナール・スティグレール来日公演の一環として日仏会館で行われた映画『イスター』の上映に。うん、これは見応えがある。イスターはドナウ河の古名で、ヘルダーリンが詠んだその賛歌をハイデガーが1942年に解釈したことをめぐって、映画はドナウ河を遡る形で、スティグレールの技術哲学を下流とし、ジャン=リュック・ナンシーの政治哲学、ラクー=ラバルトのハイデガー解釈を経て、ヒトラーをテーマに映画を撮ったジーバーベルクの「詩と歴史の問題」という上流にまでいたる、ある種壮大な叙事詩をなそうとしている。スティグレールの話は、主著『技術と時間』第1巻の(を中心とした)エッセンスの要約になっている。また、フッサールと決別したハイデガーが、ヘルダーリンへと向かった根底には、個人に限定されない「歴史的過去」の認識があり、そしてそれは技術によって可能な過去なのだとスティグレールはいう。なるほど、技術哲学から詩的へ、ね。そういえば、ドイツ語では技術的なものはみなGe-という接頭辞がつく、という話が、加藤尚武編『ハイデガーの技術論』(理想社)なんかにも載っているけれど、ドイツ語で詩はGedichtというのだった。けれどもその川にはもう詩的な力がない、と最後の方でジーバーベルクが嘆いてみせるのが印象的だ。

それにしても映画の中で語られる個々の議論は、なるほど大局的にみると面白い図式だったりもするけれど、よく考えると問題をはらんでいそうな文言だったりもする。たとえばスティグレールは、エピステーメーとテクネーの分離・対立をプラトン以来とし、その再統合が19世紀の産業時代を特徴づけているとしているけれど、それはあくまで表面の島嶼の話で、たとえば中世以降に魔術的なものとして現れる動きは、島嶼を取り巻く統合的な流れの一端、という気がする。西欧がそういう流れもひっくるめて過去を継承しているという意味では、「技術の申し子という意味で、西欧人も日本人ももとをただせばギリシア人なのだ」(笑)というような放言は、やはりそう簡単にはいえないよなあ、と(哲学者に限らず、フランス人の放言はえてしてとても図式的・捨象的なので注意しないと)。同じような過剰な図式化は、ナンシーの「前12世紀から前8世紀に、ミュトスにロゴスが取って代わった」という文言にも感じられたり。

上映後に行われた討論会は、少し散漫な感じ。パネリストをそんなに多くしなくても(身内の関係者にひととおり声をかけないと失礼だ、みたいなのが彼ら「インテレクチュアル=大学人」の間にはあるらしいけど(笑))、ダイアローグぐらいの方がもっと面白かったのでは、という気がしたし、あるいはフランス語プロパーじゃないパネリストなら(ギリシア哲学の関係者とか)さらに面白い議論になりそうな気も(それはちょっと無理か)。

投稿者 Masaki : 11:17

2005年12月17日

イアンブリコス

メルマガの方でプロクロスの『神学提要』を拾い読みしたほかに、ちょっとそちらのアーティクルでは取り上げなかったものの『プラトン神学』にも目を通して(4巻目まで)きたのだけれど、何度か出てくるのがイアンブリコスの名前。プロティノスの一者・知性・魂の三層構造をより細かな位階に区切る嚆矢はイアンブリコスだというような話なのだ。そんなわけで、手始めに『魂について』(J.F. Finamore & J,M.Dillon, "Iambricus, De anima", Brill, 2002)というテキストを読んでみたのだけれど、これ、どちらかというと魂をめぐる諸説(ストア派、逍遙学派、そしてプラトンの立場)を批判的にまとめたもの、という感じ。力点は当然プラトンに置かれているのだけれど、なんだか総覧のような感じがしなくもない(それはそれで資料としては面白いけれど)。うーん、プロクロスが高く評価しているようなイアンブリコス像というのはどのあたりにあるのだろう?やはり主著『エジプト人の秘儀について』あたり?こちらも見てみないとなあ……。

イアンブリコスは3世紀後半から4世紀初めにかけて生きた人物で、もとはシリアのカルキス生まれなのだとか。シリアといえば、後のアラブ世界にギリシア思想を伝える橋渡し役になった場所でもあったっけ(多くの作品がいったんシリア語に翻訳されて、それからアラビア語に翻訳された)。それもそのはずで、ヘレニズム・ローマ時代以来、シリアはギリシアと密接な関係にあり、さらに4世紀にはビザンチン帝国に支配され、そののちにウマイヤ朝の支配によって繁栄する。なるほど、まさに民族や文化が交錯する地だったわけね。

Webcamめぐり:今日は12月上旬のチューリヒ。パノラマだねえ。
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投稿者 Masaki : 18:23

2005年12月13日

スピノザと脳科学

このところ風邪気味のぼーっとした状態でつらつら読んでいたのが、アントニオ・R・ダマシオ『感じる脳』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)。副題の「よみがえるスピノザ」という部分に惹かれて購入したもの。中身は基本的に脳科学の普及書のようで、メインストリームは情動やそれに導かれる感情といった部分が、代謝など生命の基本的な調整作用の延長線上に出来ているという話。そこに、話の節々でスピノザが絡んでくる。その絡み方は、脳科学から振り返ってみた場合の先駆的思想の参照という感じで、いくぶんアナクロな感じもないではないのだけれど、6章などはまるごとスピノザの評伝に当てられていたりして、なかなか面白い構成になっている。脳科学の最前線で改めて確認される、心と身体が同根で分離不可能であることを、スピノザは独自の仕方で表現しているのだという。様相の二元論は維持しつつも、実体としての二元論を否定し、「両者を単一の実体に結びつけ」るという形で、心身問題を超克してしまうのだ。スピノザの透徹した合一的なスタンス、その孤高の知性はある種の理想だ。同書によるとアインシュタインは、最高の宗教的感情で満たされた時代の異端者として、デモクリトス、アッシジの聖フランチェスコ、スピノザを挙げているそうだけれど、妙に納得。常人には真似できないし、著者自身、スピノザ的な禁欲主義の極北よりはアリストテレスが説く「満たされた人生」の方がよいみたいなことを言っているけれど、スピノザのもとにはまさに究極の個人、「人間がどうのこうの」といった世間的なクリシェが遠く及ばない「人間」がいるのかもしれない……。

投稿者 Masaki : 23:10

2005年12月09日

ダーウィンの悪夢

Le Monde diplomatiqueなどでも何度か目にする「ダーウィンの悪夢」という表現。そのもとになっているフーベルト・ザウパー監督作品『ダーウィンの悪夢』(2004)はすでにフランスなどではDVDになっている。早速ゲットし視てみた(日本でもこの秋に外語大とかで上映会があったそうだし、山形ドキュメンタリー映画祭でも審査員特別賞を受けている)。いや〜、話には聞いていたけれど、ここに描かれるタンザニアはものすごいことになっている。生態系の破壊、貧困、戦争がもつれあった悪夢のようなその空間(しかも本当の悪夢はまだ少し先の将来にまっているという暗示付きだ)。そしてその上空には、まるで異世界から来るかのような飛行機が象徴的に舞っている……。

ちょうど今月号の岩波『世界』に、ザウパー監督のインタビューが掲載されている(外語での上映を組織した西谷修氏らによるもの)。「産業化社会では責任の分断が見られ、誰が何の責任を取らなければならないかわからなくなっている。システムそのものが問題なのだ」というような話に続けて、ザウパー氏は、資本主義のあとには「焼け野原しか残らない」ことを強く懸念すると述べている。無責任さは個人の問題ではなくて、システム全体に組み込まれている、ということなのだが(それは日本の耐震偽造問題などを見ていてもわかるけれど)、システムそのものの作り替えを模索しよう、みたいな話が徐々に出にくくなっているのも気にかかる。この映画からは、ローカルなシステムが、当事者には見えないより大きなシステムに組み込まれて成立してしまっていて、その内部からは壊せそうにない、という感触が伝わってくる。なんらかのカタストロフが起きるまで、そういう全体的システムからの離脱といったモチベーションは出てきそうにない。そのカタストロフは、存外に近いところにあるかもしれないというのに……。映画で描かれるタンザニアも、はるかに豊かな日本なんかも、一種の「臨界社会」みたいになっている点で、構造的にはそれほど違いはないのかも……ということを改めて思う。

投稿者 Masaki : 10:42

2005年12月06日

多神教的世界

この間ひさびさに会食の席での通訳仕事があった。フランスから来た客人を日本側がもてなすわけなのだが、懐石料理の素材について、あらためてこちらの語彙の貧困さを思い知る(苦笑)。ま、それはともかく。その客人はオフの日程を利用して浅草界隈に行ってきたとかいう話で、寺でお香をたぐりよせる仕草や、神社で鐘をならして手を打つ仕草、さらにはおみくじなどを面白いと感じたのだという。あまりに日本人は信心深いみたいな感想を言うので、「信じていなくても、その場にいったらそういう身振りをするという人は結構多い」みたいなことを言ったら、えらく怪訝そうな顔をしていた。一方で公の場にクリスマスツリーが飾られているのも、解せないのだという。「日本は何でもあり」みたいなことをホスト側が言うものだから、相手は苦笑するばかり。うーん、文化的なものを説明するのはムズカシイ。

でも考えてみると、日本の土着信仰や、その上に立っているオフィシャルな宗教とのつきあい方というのは、案外古代ギリシア世界あたりの「信仰」状況とパラレルなのかもしれない。ヨーロッパも根っ子をたどれば多神教的なものに行き着くわけで。そんなことを改めて思わせてくれるのが、木村凌二『多神教と一神教』(岩波新書)。地中海文化圏の神々を広範にたどっていくという入門書で、とても好感がもてる。多神教から一神教への移行に絡んでくるとされる文字の成立や民族の記憶などは、ちょっとドブレのメディオロジーっぽい話でもあるし。いずれにしても、日本文化をエキゾチックに見る好奇の目には、こういう話を返してあげるのがよいのかもね。

写真はWebcamではなく携帯のもの。11月某日の代々木公園
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投稿者 Masaki : 19:35

2005年12月04日

アレイオス・ポテール

もうすぐ4作目も映画が公開されるハリー・ポッター。ずいぶん前に、「ラテン語版が出たら買うかな」なんて記したことがあったけど、第1作に関しては今やラテン語版(『ハリウス・ポテル』)のほか、古典ギリシア語版まで出ている("ΑΡΕΙΟΣ ΠΟΤΗΡ καὶ ἠ τοῦ φιλοσόφου λίθος")。いや〜これいいなあ。読本として使えるじゃないの。これを使った「ハリポタで学ぶ古典ギリシア語」なんていいかもね。メルマガとかでやろうかしら(笑)。

このところCGを多用したファンタジー映画が隆盛で、来年にはC.S.ルイスの『ナルニア国物語』も映画になるという話。『ロード・オブ・ザ・リング』もそうだし『ハリポ』のシリーズもそうだけれど、欧米のファンタジーってどこか暗いというか、小さい子どもがみたらかなり怖い感じというか。日本の童話的な「ファンタジー」とはだいぶ違うことがわかる。けれども日本のような、くさいものには蓋みたいな生ぬるさよりも、残酷さや圧倒的に怖いものを描いて、ヒーロー・ヒロインがそれに立ち向かうという方が、教育的という意味でははるかに健全な気がする。ビルドゥングス・ロマンってそういうものよね。ずいぶん前だけれど、あるローカルなパソコン通信のネット(そんな時代があったよね)で、日本に長く住んでいたアメリカ出身の某翻訳家が「日本のファンタジーって特殊。欧米のファンタジーは別物としてファンテシーとか呼んだ方がいいんじゃない?」みたいなことを書き込んだことがあったっけ。こうしてファンタジーものが映像化されてみると、あらためてそのあたりの隔たりの大きさを感じさせられる。『指輪物語』の「中つ国」なんて童話っぽい地名だけれど、あの映画で見る限り、ミドル・アースってすんごく現実的で広い土地だよなあ。

Webcamは11月22日のアララト山。

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投稿者 Masaki : 18:41

2005年12月01日

移民規制……

先の暴動を受けて、移民法の強化に乗り出したフランス。うーん、移民問題が表面化してしまったために、これに乗じて与党は様々な規制策に出てきたなあ、と。暴動は一種の口実を与えてしまった形になっている。一夫多妻(polygamie)が悪い、みたいな話も出されていたみたいだし。先に創刊された雑誌『クーリエ・ジャポン』(Courier Internationalの日本版。オルタナティブな報道姿勢は面白いけれど、創刊号なんか予想より軽い感じなのがちょっと気になったり)なんかにも紹介されていたけれど、今回の暴動について最初の頃、確かに一部のメディアに「5月革命の再来か」みたいな論評が出ていた。けれどもこれって、かなり的を外したものだったような気がする。実際、暴動の中心にいた少年たちは、ほとんどお祭り騒ぎという感じで暴れていただけだったような……。飛幡祐規氏の「先見日記」によると、実際に白人の少年なんかが加わり、処罰を受けているのだという。いずれにしても、やはり問題は与党などがやろうとしている規制強化の方だ。

さらにそのCourrier Internationalのサイトの記事には、与党の議員たちが「植民地政策賛美条項の撤廃案を退けた」した話が大きく載っている。当然アルジェリアの報道各紙が批判を展開。うーん、一方で人道的配慮を口にしながら、規制強化によるいっそうの統制と過去の虚栄(だよね、やっぱ)擁護の路線をひた走るなんて、なんだかどこぞの国に似ていなくもない。

投稿者 Masaki : 00:14