τὰ καθ᾿ αὐτὰ ἀσώματα αὐτῷ, ᾧ κρείττονα παντός ἐστι σώματος καὶ τόπου, πανταχῆ ἐστιν, οὐ διαστατῶς ἀλλ᾿ ἀμερῶς.
そうした非物体的なものはそれ自体、物体的で場所を取るあらゆるものの上位にあるものによって遍在するのだが、広がりをもってではなく、分割しえない形でである。
τὰ καθ᾿ αὐτὰ ἀσώματα αὐτῷ, ᾧ κρείττονα παντός ἐστι σώματος καὶ τόπου, πανταχῆ ἐστιν, οὐ διαστατῶς ἀλλ᾿ ἀμερῶς.
そうした非物体的なものはそれ自体、物体的で場所を取るあらゆるものの上位にあるものによって遍在するのだが、広がりをもってではなく、分割しえない形でである。
ウンベルト・エーコの新しい邦訳が出たというので、オンラインで注文した。『セレンディピティ−−言語と愚行』(谷口伊兵衛訳、而立書房)。で、到着したものを見て、あれあれ既視感が……(笑)。第二章の「楽園の言語」は、夏にここでも取り上げた『ツリーから迷宮へ(Dall’albero al labirinto)』所収の「様式主義者とカバリストの狭間のダンテ」のいわば「焼き直し」。さらに第四章の「アウルトラル国の言語」、第五章「ジョゼフ・ド・メートルの言語学」(えーと、些細なことだけれど、メーストルですよね)は同所収の論考の邦訳。英訳からの重訳ということだけれども、なるほど英語圏ではこういう別様のアンソロジー本が出ているわけか。確かにそれは一つの手。出版不況の中、長大な論集を全訳では出せないなら、こういう抄訳的な形で出すというのもアリかもしれないなあ、と。ま、それはともかく。
これまた先に取り上げたクルティーヌの『存在の諸カテゴリー(Les catégories de l’être)』の最後の章は「ライプニッツとアダムの言語」。17世紀の普遍言語探求(とそれに連関するアダムが話していた言語の再構築)熱の中で、ライプニッツは原初の言語の再構成を求めるのではなく、原初の神的な「名指し」を人為的に「反復」することを求めていたのだ、というのがその論考の核心部分だ。これはまさに、ダンテの『俗語論』についてエーコが導き出したのと相似的な立場ではないの!ダンテもまた、原初の言語は構造的に生きていると考えて(そういう言い方ではないけれど)、それを俗語の詩的言語で「反復」しようとしていたとされていたのだから。クルティーヌによればライプニッツも同じような立場で人為的な言語の構築を目指していたという次第。ちなみにエーコはライプニッツの言語観をどう捉えていたのだっけ、と思って『完全言語の探求』(上村忠男ほか訳、平凡社)を見直してみたら、「他の著者たちが除去しようとしてきた言語の混乱を反対に肯定的なものとしてたたえている」(p.385)とある。なぜかエーコはライプニッツにダンテのような言語観を認めていない……。うーむ。
工人舎マシン(SA1F00A)に入れたMandriva。scim-m17nパッケージなどを入れて、これもギリシア語入力を気分よくできるようにしたりしていたのだけれど、ここへきて問題が。上部のバーに通知アイコンが出て「2009.0 winterが出ました〜」というお誘い。うんうん、そりゃ良さそうだと思ってアップグレード(ネットワーク経由なので数時間かかる)したところ、なんと外付けの無線LANもイーモバイルのモデムも認識しなくなった!カーネルも当然バージョンアップしているわけだけど、どうもドライバ周りが違ってしまったようだ。そんなわけで翌日、再び数時間かけて2008.1 springをインストールし直し、現状復帰。うーん、アップグレード=改良になっていないのはWindowsと一緒ではないの(苦笑)。Linuxも気軽にアップグレードしてはいけなかいかも、という教訓。 また、この数日、思うところあって、MovableTypeの3.37をローカル(自宅LAN)のMacOS Xで動かすという作業をやっていた。これがまた結構面倒。全体的手順は「R-STYLES.NET」というサイトを参考にさせていただいた。mySQLとphpMyAdminは少し前に別の用途で入れたあったので(「MacOSXでサーバ稼業」というサイトに、手順やらツールやらがあって重宝した)、DBIのインストールから。基本的にコンパイル作業ということで、まあ、configure、make、make install一発という感じではあるけれど、いくらUNIX系も使い良くなったとはいえ、このあたりの手作業感覚はやっぱりなくならないのね、としみじみ。今回初めてFinkというオープンソースソフトの自動コンパイルツールを使ってみたわけだけれど、確かに楽になったとはいえ、コンパイルに要する時間は結構半端ではなく、こういうのを見ると、生のUNIX系の普及は結局難しいか、というようなことを改めて思ったりもする。FinkCommanderが、「Xcodeが古すぎる」とか言ってきて、それも更新したりと面倒が続く。Appleの開発者のサイトからダウンロード(すっごい久々にアクセスした(笑)登録したのって何年前だろう?)。結局FinkでのImageMagicのインストールはちょっとコケた。そもそも、一個のパッケージをインストールしたいだけなのに、依存関係にあるライブラリをすべてコンパイルしてインストールしようとするところは厄介。なにせ、使わないXウィンドウシステムまでコンパイルされてしまう(!)。ま、ImageMagic自体はMTの中では画像のサムネイル操作ツール扱いなので、別になくても構わないかなというわけでパスした。MTはどうやら無事にローカルで動く。
今年の春先にちくま学芸文庫で出たネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(菅野盾樹訳)。現代の唯名論者ということで、ざっとだけれど読んでみた。個物だけが実在し抽象概念などが表すものの実在は認めないというのが中世の唯名論だけれど、現代世界でのそれは、抽象概念は構築されるものなのだから、いくつものバージョンがあって構わないということになるらしい。構築論・相対論ということか。これは多元宇宙論ではなくて、現実世界は個物の集積としてあるものの、それを人が認識する網目は多様なのだということを、グッドマン本人が述べている。そもそも人間の言語や知覚自体が、そういう開かれたものとしてあるではないか、とグッドマンは言う。その知覚についての一節である実験が紹介されていて、光の点灯で図形を描く装置で、継起的にたとえば小さな丸と四角が一定の条件下で明滅すると、人はそれを連続して変化したもののように感じたりするが、結局それはあくまで思いなしであって、人はその「あいだ」を補って理解するのだということが論じられている。なるほど人は実はデジタル的なのに、一方でそれは補完的にアナログ化するというわけか。外部世界を切り取る知覚それ自体はきわめてデジタルなものでしかないのに、それを認識の次元でアナログ化するということ。よくテレビのバラエティーで、「じっと見ていると一部だけが変化しますよ、それはどこでしょう?」とか言って、部分的なモーフィング映像を流したりするけれど、これがなかなか難しいクイズなのは、知覚がかくもデジタル的な処理だからなのかもね。補う「あいだ」が見つからないと、意外にも人は落ち着かなくなる?というか、そういう「あいだ」を無理にでも見つけようとするとか?
そういえばレベルは全然違うけれども(笑)、先週の大統領選についての海外メディアのフィーバーぶりもまったく「思いなし」の産物という気も。ル・モンド紙の校正係がやっているブログ「Langue sauce piquante」の11月6日のエントリでは、オバマに対する賞賛の念は「latrie」(神にのみ捧げられる表敬の意)にまで達したと、やや皮肉な調子で述べている。黒人大統領の誕生は確かに歴史的だとはいえ、その前後の騒ぎっぷりは金融バブルと同じような肥大した期待かも、と。
前に『アナロギアの考案』(”Inventio analogiae”)が面白かったジャン=フランソワ・クルティーヌを、久々に読んでいるところ。『存在の諸カテゴリー』(J.-F. Courtine, “Les catégories de l’être – Études de philosophie ancienne et médiéval”, PUF, 2003)。『アナロギア……』に先立つ論集。ここでもまた、οὐσίαの意味論的変遷とか、「存在のアナロギア」が導かれる前提条件としてのネオプラトニストの注解とか、言語的アプローチから哲学的な意味を引き出すという方法論が見事に冴えわたる。ウーシアに関してはボエティウスの翻訳と、さらに先立つクィンティリアヌス、アウグスティヌスの場合の意味の変遷が問題になっているし、「存在のアナロギア」説では、アップストリームに位置する初期注解者たちの偏向が問われる。アフロディシアスのアレクサンドロスやアスクレピオスらは、συνώνυμοςとὁμώνυμοςの関係性の解釈の中で、プラトンを批判するというアリストテレスの意向を文字通り反転させてしまうのだという。このあたり、なかなかに味わい深い分析が展開する。
で、とりわけ興味深いのが、アリストテレスのカテゴリー論の受容でのヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの立ち位置。10のカテゴリーに対して神はどこに位置づけられるのかという中世的な問題に、エウリゲナは否定神学的な立場からむしろそのカテゴリーの組み替えを提唱し、しかもそれに際して、これまた長い思想的伝統のある「場所と時間」の特異性をはっきりと打ち出していくのだという。そういえば、先々月記したヴァジリウ『透明なるもの』でも、エリウゲナがディオニュシオス・アレオパギテスをベースに、真にアリストテレス思想的な知覚論を展開していたとされていたのだっけね。うーん、エリウゲナは気になるなあ。ちゃんと読んでみようか。