iPod Touchで古典を読みたい

iPod Touchのアプリケーションを有料・無料といろいろダウンロードしているのだけれど、少しずつながらラテン語やギリシア語のツールも出てきている(まだまだ圧倒的に数が足りないけれど)。まずラテン語は、少々値段は張るけれど、UltralinguaのLatin-English Translation Dictionary(こちら→Latin-English Translation Dictionary by Ultralinguaが、双方向で検索できてなかなか良い感じ。語数も結構入っている。格言集みたいなのはあるけれど、残念ながらラテン語の電子書籍は見あたらない(?)。

ギリシア語は、今度はオフラインで使える辞書がなくみたいで、テキストとしてはギリシア語版の入った新約聖書などがある(こちら→Holy Bible)。ただしギリシア語表記は気息記号やアクセントはなし。あと、これも同じく聖書からの単語をパラパラやって確認できる練習帳GreekFlashというのもある(入門向きかな→GreekFlash)。聖書のギリシア語の音声教材はオーディオブックがある。Readings in the Greek New Testamentというもの(こちら→Readings In the Greek New Testament (Unabridged))。電子書籍などでプラトンとかアリストテレスとかあるといいのにねえ。

あと番外編的なのだけれど、ダンテの『神曲』が電子書籍になっている。これは嬉しい。La Divina Commedia(こちら→La Divina Commedia)。全体として英訳ものはいろいろと出回っているけれど、ばっかりじゃなく、原典ものもいろいろと出てきてほしいところだ。

パストゥローの邦訳新作

最近出たミシェル・パストゥロー『ヨーロッパ中世象徴史』(篠田勝英訳、白水社)を読み始める。とりあえず約三分の一。歴史研究の基本姿勢を説く序章から飛ばしている感じ。イシドルスとか中世の文献に出てくる語源や言葉の解説はかなり独特なもの。民間語源といって割り切れるものではない。パストゥローいわく、「歴史家はそのような「偽の」語源論を決して揶揄してはならない」「中世の象徴体系の研究はつねに語彙の研究から始めなければならない」。例として挙げられているのが、騎士道物語で騎馬試合の勝者への賞品にカワカマスが選ばれるのは、名前ゆえなのであって、精神分析的なアプローチなどとは無縁の産物なのだ、という話など。名前のアプローチがあればそういう誤謬は避けられる、と。そういえば先のクルティーヌにしても、中世を論じる時のアガンベンにしても、言葉の検証から始めている。やはりそれは王道。

それにしてもこの本、パストゥローのこれまでの著作とか研究とかのエッセンスをまとめ上げたような感じで、総覧できる。ある意味でお買い得かも(笑)。豚の裁判、ライオンの象徴史、イノシシ狩り、マチエールとしての木、百合形文様の概論、色彩論などなど。とりわけ第4章の「木の力」が、個人的には一種の物質論・配置(dispositio)論という感じで興味深い。技術史と素材論と象徴的変容との錯綜を垣間見る思いだ。これはもっと深めたものを読みたい。

[古楽] カンタータ集2種

久々にバッハのカンタータ集を、立て続けに2種類ほど聴く。一つはある意味で定番のヘレベッヘ+コレギウム・ヴォカーレの新しい録音。『わが命なるキリスト』(J.S.Bach: Cantatas / Philippe Herreweghe, Collegium Vocale Gent, Dorothee Mields, Matthew White, etc)。これはなかなかに渋い一枚。ヘレベッヘはこのところ、再び古楽方面に返り咲いてきたみたいだけれど、以前にも増して精神性豊かな、静謐感の漂う演奏。曲はBWV27「わが終わりの近きをだれぞ知らん」、BWV84「われはわが幸いに心満ちたり」、表題作のBWV95、そしてBWV161「来たれ、汝、甘き死よ」。もうすぐアドベントだけれど、これはその辺りにぴったりな感じがしなくもない……曲想はちょっと暗めか。

もう一枚は一種の企画盤。『モン・サン・ミッシェルでの音楽−−バッハ』(Musique au Mont-Saint-Michel -J.S.Bach Concert 2007 / Emmanuel Olivier, Ensemble Galuppi)。フランス北部のモン・サン・ミッシェル修道院での2007年のライブ録音らしいのだが、ちょっと場の臨場感は感じられない。とはいえ、曲はどれも華々しい感じで盛り上がる(笑)。なかなかご機嫌だ。上のヘレベッヘのものとはまさに対照的。エマニュエル・オリヴィエ指揮、BWV149「人は喜びもて勝利の歌を歌う」、BWV19「いさかいは起これり」、BWV130「主なる神よ、われらはみな汝を讃えん」。どれも聖ミカエルの竜退治を語ったものということで、なるほどその繋がりでモン・サン・ミッシェルでの演奏となったということか。

さて、ヘレベッヘ盤のジャケット絵は、ルーカス・クラナッハ(父)による「キリストとサマリア女」(1540年、ライプチヒ美術館所蔵)。この様式美がまたなんとも言えない……。

断章2

sarcofago_di_plotinoτὰ καθ᾿ αὐτὰ ἀσώματα αὐτῷ, ᾧ κρείττονα παντός ἐστι σώματος καὶ τόπου, πανταχῆ ἐστιν, οὐ διαστατῶς ἀλλ᾿ ἀμερῶς.

そうした非物体的なものはそれ自体、物体的で場所を取るあらゆるものの上位にあるものによって遍在するのだが、広がりをもってではなく、分割しえない形でである。

ダンテとライプニッツ……

ウンベルト・エーコの新しい邦訳が出たというので、オンラインで注文した。『セレンディピティ−−言語と愚行』(谷口伊兵衛訳、而立書房)。で、到着したものを見て、あれあれ既視感が……(笑)。第二章の「楽園の言語」は、夏にここでも取り上げた『ツリーから迷宮へ(Dall’albero al labirinto)』所収の「様式主義者とカバリストの狭間のダンテ」のいわば「焼き直し」。さらに第四章の「アウルトラル国の言語」、第五章「ジョゼフ・ド・メートルの言語学」(えーと、些細なことだけれど、メーストルですよね)は同所収の論考の邦訳。英訳からの重訳ということだけれども、なるほど英語圏ではこういう別様のアンソロジー本が出ているわけか。確かにそれは一つの手。出版不況の中、長大な論集を全訳では出せないなら、こういう抄訳的な形で出すというのもアリかもしれないなあ、と。ま、それはともかく。

これまた先に取り上げたクルティーヌの『存在の諸カテゴリー(Les catégories de l’être)』の最後の章は「ライプニッツとアダムの言語」。17世紀の普遍言語探求(とそれに連関するアダムが話していた言語の再構築)熱の中で、ライプニッツは原初の言語の再構成を求めるのではなく、原初の神的な「名指し」を人為的に「反復」することを求めていたのだ、というのがその論考の核心部分だ。これはまさに、ダンテの『俗語論』についてエーコが導き出したのと相似的な立場ではないの!ダンテもまた、原初の言語は構造的に生きていると考えて(そういう言い方ではないけれど)、それを俗語の詩的言語で「反復」しようとしていたとされていたのだから。クルティーヌによればライプニッツも同じような立場で人為的な言語の構築を目指していたという次第。ちなみにエーコはライプニッツの言語観をどう捉えていたのだっけ、と思って『完全言語の探求』(上村忠男ほか訳、平凡社)を見直してみたら、「他の著者たちが除去しようとしてきた言語の混乱を反対に肯定的なものとしてたたえている」(p.385)とある。なぜかエーコはライプニッツにダンテのような言語観を認めていない……。うーむ。