Οὐ πᾶν τὸ ποιοῦν εἰς ἄλλο πελάσει καὶ ἁφῇ ποιεῖ ἃ ποιεῖ, ἀλλὰ καὶ τὰ πελάσει καὶ ἁφῇ τι ποιοῦντα κατὰ συμβεβηλπὸς τῇ πελάσει χρῆται.
他に働きかけるものすべて、(みずからが)為すものを、近接と接触によって為すわけではない。逆に、近接や接近により働きかけるものであっても、近接を用いるのは偶然によるのである。
Οὐ πᾶν τὸ ποιοῦν εἰς ἄλλο πελάσει καὶ ἁφῇ ποιεῖ ἃ ποιεῖ, ἀλλὰ καὶ τὰ πελάσει καὶ ἁφῇ τι ποιοῦντα κατὰ συμβεβηλπὸς τῇ πελάσει χρῆται.
他に働きかけるものすべて、(みずからが)為すものを、近接と接触によって為すわけではない。逆に、近接や接近により働きかけるものであっても、近接を用いるのは偶然によるのである。
明けて2009年。今年もどうぞよろしく。というわけで昨年末もそうだったけれど、年末年始のような節目は個人的にリュート曲を聴いて過ごしたい。今年はとりあえず、毎年出ているロバート・バルトによる全曲録音を目指すシリーズから最新の『リュート・ソナタ第9集』(Naxos、8.570551)(Weiss: Lute Sonatas Vol.9 / Robert Barto)。少し前に購入していたものの「積ん聴」になっていた。今回はソナタ52番ハ短調、32番ヘ長調、94番ホ短調の構成。相変わらず、バルトの円熟味というかなんというか、ヴァイスの曲と濃密な時間を過ごしていることが窺える一枚。リスナー側もそのお裾分けをもらっている感じ。充実した約1時間を味わえる。
今回のジャケット絵はアントニオ・ドメニコ・ガッビアーニ(1652 – 1726)による『リュート奏者の肖像』の一部。フィレンツェの楽器博物館所蔵なのだとか。全体は次のような感じ。

これまた年越し本になる、先に挙げた『実体を補完するもの』からさらなるメモ。メソッド的に正攻法を取る論考も確かにあって、たとえばリチャード・クロスの論考は、トマスの「作用は基体に属する(actiones sunt suppositorum)」というテーゼ(力が外部から付与されるというもの)について、ガンのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスの異論(形相に力が内在する)を対比的にまとめたりしているのだけれど、それよりもひときわ目立つ(悪い意味で?)感じがするのは、とてもアナクロな対比論だったりする。それはつまり、現代的な分析哲学系の議論で論じられる「トロープ」概念との対比で、中世の唯名論を見ようというもの。うーん、これはちょっと面食らうというか。ちなみにトロープというのはドナルド・ウィリアムズが提唱したもので、世界の構成要素となる具体的な属性のこと。
ジョン・マレンボンの論考「アベラールはトロープ理論家だったか」は、アベラールが用いる属性概念をトロープの見地から検証しようというもの。それによると、アベラールの場合、偶有や種差の考え方が現代的な弱く推移可能なトロープと考え方とほぼ等しく、その存在論的カテゴリーは、内的に個体化されている基体と、基体に付随する形でのみ存在しうる、やはり個体化されている形相とに分かれるのではないか、という。だからアベラールはトロープ理論に近いものを考えていた可能性がある、という議論だ。うーん、それはどうかしらねえ……どうやらこれは、トロープ理論で中世を括る懐疑的なアラン・ド・リベラの立場への反論らしいのだが……。
クロード・パナッチョの「オッカムの存在論とトロープの理論」は、上のウィリアムズともまた違うらしいケイス・キャンペルのトロープ論と、オッカム思想の対比とを試みるというものなのだけれど、キャンベルの思想は、基体などというものはなくトロープのみが存在するという極端な立場(トロープ一元論)で、オッカムはというと当然本質的部分と偶有的部分を分ける二元論に立脚していて、この点が大きな違いなのだけれども他の方向性は大体一致しているのだという。これってひどく凡庸な論調……とか思っていたら、最後のほうで、オッカムの立場からの逆照射でトロープ論の問題を再考しようみたいな話になっていて、なんだオッカムはダシに使われただけか、ということがわかり思いっきり脱力する(苦笑)。こういうのを読むと、対比論的な議論のもっていき方の注意点が改めてわかるというもの。ま、それはともかく、トロープ論との対比論が出てきたきっかけはやはりド・リベラにあるらしいので、ちょっとそのあたりも見ておきたいところではある。
初夏くらいに出て、ちょっと気になっていた浜本隆志ほか編『ヨーロッパ人相学−−顔が語る西洋文化史』(白水社、2008)をやっと読む。良い意味で期待を裏切られた感じ。アリストテレス以来の観想学の歴史が細かく語られていくのかと思いきや、それは第一章(ルネサンスまで)と第二章(近世以降)でさらっと手堅くまとめ、あとの4つの章はテーマで切っていくという趣向。メドゥーサ、グリーンマン、ガーゴイルの話が出るかと思えば、アルチンボルドーや鏡像、仮面の話、パーツの意味作用の歴史(ヒゲ、赤毛、邪視などなど)と、実に広範な話題で飽きさせない。
まず、アリストテレス観想学からルネサンスの占星術的要素の取り込みへの推移、さらにその魔術的要素の後退というあたりはとても興味深く、もっと詳しいものを読みたいところ。17世紀にかけて生じたという、固定的な性格や気質の読み取りから、瞬間的な「表情」と感情の結びつきの定式化へのシフトといった問題は、なかなか気になるところ。演劇やオペラでも、17世紀から18世紀にかけて、人物描写がそういう感じでシフトするという話があったけれど(とりわけその完成形としてのモーツァルトとか)、そのあたりとパラレルな動きということにもなりそう。
グリーンマン(中世の教会建築の装飾に見られる、植物と一体化した顔の彫刻)の話もとても気になる。その部分の担当著者はこれまでの様々な解釈を開陳してみせるけれど、決定打はいまだにないようで。先の『芸術新潮』ノルウェー特集で登場した実証的な研究者からすれば、「すべて装飾で意味はない」と一蹴されるのかしら……。これまた先のパストゥローなどに倣うなら、あるいはグリーンマンを指すなんらかの言葉(中世でそれがどう呼ばれていたかは不明だが)があって、それとの類推で成立した図案なのかも、といった素人考えも浮かんできたり(笑)。うーん、実際のところ、何かそれを指す名称があったはず……なんてことを考えるのは無上に楽しい(笑)。
年越し本の一つとして、ジャン=リュック・マリオンの新著『自己の場所に–聖アウグスティヌスのアプローチ』(Jean-Luc Marion, “Au lieu de soi – L’approche de Saint Augustin”, Presses Universitaires de France, 2008)を読み始める。まだ一章までだけなのだけれど、すでにしてとても面白い。序章で、アウグスティヌスの立ち位置はいったいどこにあるのかと問い始める。思想史的に見て、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義が以前ほど決定的ではなく(それが解釈する側の時代状況でしかない可能性が指摘される)、そもそもアウグスティヌスは哲学的なアプローチを取っているわけでもなく、一方で後世的な意味での「神学的」アプローチともいえない、とされる(このあたり、ややマリオン的なとんがった問題機制な感じもするけれど)。哲学と神学のはっきりとした区別すらないかもしれない。そしてその立ち位置を探るべく、テキストに入り込んでいくわけだけれど、それは続く第一章の、『告白録』の不可思議さへとつながっていく。
『告白録』は哲学書ではないし、厳密な意味での神学書でもない。ではそれは一体何か?そもそも何を告白しているのか?マリオンはそこでの罪の告白が、賛美(神の)の告白と表裏一体になっていることを見、そこからそれが、神についての書ではなく、神に「呼びかける」書であると規定する(しかもそれは、聖書からの引用という言葉の反復によってなされる)。『告白録』の構成自体が(自己の生涯を振り返る前半と、創世記解釈へといたる後半)二重の告白という構造をもち、さらに読者を呼び込んで告白を促すという機能をもっているとし、(アウグスティヌスの)自己、神、他者(読者)の一種独特な関係性を築いていて、「自省録」というよりは「他省録」といった様相を呈するのだという。他者との関係性は、神を身近なものとして介する形でしか結ばれない、と。モンテーニュやルソーの後世の自省録とは決定的に異なるのが、そうした関係性にあるのだ、と。
二章以降は自己、真理、愛、時間といったテーマが扱われるようで、これらもなかなか楽しみ。やや強引な括りがないわけでもないけれど、アウグスティヌスへの現象学的アプローチがどこまで深く潜っていけるのか、ちょっと期待しているところ(笑)。