「アルシ・エクリチュール論」タグアーカイブ

ポロック論メモ

ある種の抽象画というのは、アナログ時代のジェネラティブアートと言えるかもしれない。アナクロニズムではあるけれども、そんなことを思わせるものとして、ジャクソン・ポロック(1912 – 1956)の絵画がある。ポロックはアクション・ペインティングの一躍を担う存在で、塗料を滴らせるドロッピングなどの技法で知られるアメリカの画家。交通事故で56年に亡くなっているが、アルコール中毒でユング派の精神分析を受けた一時期があり、ある種、描く対象として無意識を措定していたともいわれたりする……。と、そんなわけで、筧菜奈子『ジャクソン・ポロック研究–その作品における形象と装飾性』(月曜社、2019)を読んでみた。前半は主に制作過程論で、オールオーヴァー絵画(地も図もすべて均質になった、塗料が明滅するかのような迫力ある絵画群)の製作の内実を実証的に明らかにしようとする。

興味深いのは後半の第二部。帯に示唆されているが、ポロックの作品が装飾でなく、絵画作品として評価されてきた背景について考察している。どうやらそれには批評家たちとの共犯関係が関係しているらしく、たとえばクレメント・グリーンバーグなどは、カントに依拠し(!)、物語性や量感の表現を放棄して絵画そのものの本質を極めるところにモダニズム絵画の存在基盤を見出しているらしいが(p.110)、そのグリーンバーグにとっては装飾は本質に与らない下位のものとされるというのだ。それに続く世代だというロザリンド・クラウスもまた、装飾は「主題のない単なる造形」で、「高度な精神性」をもつ抽象絵画とは対照的だと言う。面白いのは、その一方で、当のグリーンバーグやポロック本人までもが、なんらかの機会に、装飾模様が絵画のある種の性質を強調するためのものであるとコメントしていることだろう。ポロックはあるインタビューで、クラウスが考えるような主題の付与を否定し、絵画を音楽的に楽しむことすら推奨しているのだという(p.134)。装飾の否定(と「本質」の称揚)は、絵画をめぐるある種の政治性、画家と批評家の共存のための戦略を支えるものだということが明らかになる。

同書の延長として、ロザリンド・クラウスの著書も読んでみた。クラウス『視覚的無意識』(谷川渥・小西信之訳、月曜社、2019)。とくにポロックを扱う後半。こちらは少しトーンが違っていて、画家と批評家、さらには画家に追従する他の画家たちなどが、共犯・共存というよりも、ある種の共生を果たしているかのような印象を与える。基本的に肯定的な、底までとどくような明るさを湛えた記述なのだ。ポロックがグリーンバーグのほか、様々な批評家たち、その他同時代の画家たちと、どのような批評的関係性を切り結んできたのかを振り返りながら、そこにジラール的な模倣への欲望(なつかしい欲望の三角形!)などを読み込んでいく。まるですべてが昇華のための運動であるかのように。それはまさしくクラウス自身の欲望でもあるかのようでもある。視覚の純化へと絵画作品を昇華させようとする詩的なこの美術批評が示すのは、そうしたある種の欲望の残滓だという気がする。誤読であってもかまわない、これがわれわれの欲望の対象なのだ、と言わんばかりに。

イメージ学に(再び)出会う

イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ秋はやはりちょっと厚い本に挑む季節でもある(笑)。というわけで、個人的に今年はまず、春先ごろに出ていたこれ。坂本泰宏・田中純・竹峰義和編『イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』(東京大学出版会、2019)。ドイツ発の先進的な学際的ムーブメント、イメージ学をめぐる一冊。シンポジウムがもとになった論集ということだが、5部構成の全体のうち、まだ2部のみをざっと眺めただけだけれど、多彩な論考から立ち現れてくるのは、広がりをもった「イメージの現象学」にほかならない。なんといってもこの冒頭部分のうちで目を引くのは、そのイメージ学の中心人物、ブレーデカンプへのインタビューだ。

美術史が取り上げてきた芸術の造形的中心主義から、少しばかり視点をずらしたアプローチをかけることによって、それまでの学知が取りこぼしてきたようなモチーフであったり隠されたテーマであったりというものを拾い上げ、さらに隣接領域の学知を着想源として、それを見えなくしている力学までをも解き明かそうとする。芸術作品が働きかけてくるその様々な動線を見極めること。ブレーデカンプ自身の言葉遣いなら「非媒介的な身振り」なのだそうだが、それは「イメージが表現と表現されたものとの間に入り込む固有の自然力(ピュシス)を示している、という意識を喚起すること」(p.85)だという。そもそも絵画などの作品を見ること自体が、身体そのものの微動(眼球運動など)を伴っているのであって、絶対的な静止状態にはない。ならば、そうした複合的な知覚体験、身体機構の研究もまたテーマにしないわけにはいかない、などなど……。

収録された各論文にも、そうした別様の視点、取りこぼされてきた領域やテーマがそれぞれに息づいている。取り上げられるのは、原寸大写真であったり(橋本一径)、アニメに描かれる身体の不気味さだったり(石岡良治)、甲冑の表象史だったり(イェーガー)、原理主義的なイスラム派により破壊された像の現象学的作用だったりする(ブレーデカンプ)。こうした多彩な着目点と、そこから導かれる学知的広がりは、ある意味とても壮麗だ。そんなわけでこれは、読みかけながら、すでにして個人的に何度も見かえして楽しめそうな論集になっている。

文字と生きもの

文字渦今年の年越し本は、このところ普段あまり読んでいないフィクションものから円城塔『文字渦』(新潮社、2018)。文字、とくに漢字にまつわる短編集なのだけれど、これが良い意味で人を食ったような、外連味たっぷりの異色短編の連作になっている。古代中国とSF的な未来世界とを行きつ戻りつしながら、生命になぞらえた漢字たちの諸相が描かれるという寸法。どこか小気味よい、壮大な法螺話(失礼)。

作品全体を貫いているのは、その「文字と生きもの」のアナロジー的な重ね合わせ。これはなかなか興味深い問題系でもある。そのアナロジーはいつ頃からあるのか、どのようにして成立してきたのか、などなど。書画を見るときに、どこかゲシュタルト崩壊的な操作を意図的に適用して、描かれた字の止めや跳ねのダイナミズムを見るというのはよく言われることだけれど、漢字というものがそもそも本来的にそうしたダイナミズムを内に含んでいるものだと捉えるなら、そのまま書字は生命の躍動へと直接的に接合できるかもしれない……というあたりが、おそらくはそのアイデアの基幹になっているのだろう。したがってそれは決して新しいものではなさそうだ。ただ、それをなんらかの物語に落とし込むのはなかなか容易ではないように思われる。この作品では、古代中国の書字の成立史や、より現代的・未来的な情報処理の話などが複合的に絡み合い、かなり錯綜感のあるアウトプットになっている。書字を扱うフィクションだけに、音読できないような字や、意味すらも連想できないような字が出てくるのも当然か。ページの字面は漢字で黒っぽくなり(現代の出版の世界では結構嫌われる作りだが、反面それはとても贅沢と言えるかもしれない)、ときおり可読性の限界のようなところにまで突き進んでもいく……。というわけで、これは刺激的な仕掛けに満ちた、読み手に挑みかける巧妙なフィクション、というところ。

アナロジーの照応の渦巻き?

ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学今週もあまり空き時間がない一週間だったが、息抜きとしてティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学』(筧菜奈子、島村幸忠、宇佐美達朗訳、フィルムアート社、2018)をときおり眺めている。前作『ラインズ 線の文化史』(ブログ記事も参照)に続く本作は、広義のエクリチュール論みたいな部分をさらに大きく超えて、気象・大気といった、哲学的にあまり顧みられない事象の考察へと足を踏み入れいれている。ライン(曲線をも含む)概念がそれらにどう繋がるのかといえば、ラインがなんらかの存在論的な資格を得るとすれば、そこにはラインを紡ぎ出すおおもとで、ラインと相補的な関係をもなす、これまた広義のブロブ(塊)がなくてはならず、そうした集積をなすアナロジーとして引き合いに出されるのが、たとえば気象現象としての台風のような渦巻く結節点だったりするのだ。そうした「渦巻き」は、ベルクソンが言うように(「生ある存在は生の流れの中に放り込まれた渦巻きのようなものである」)生物全般に見いだされる有機体の「渦巻き」とも照応する、とされる。それは大気にも、海洋生物にも、さらには人間集団の行動にも、同じように見いだすことができるのだ、とインゴルドは言う。アナロジーとしての相互の照応の連鎖。それこそが、インゴルドの「ライン学」を支える枠組みだといえそうだ。すべての事象を、ある意味「気象学」として、ラインと渦巻きの変成作用のごとくに読み解くこと。けれどもそれは、吹き荒れるアナロジーの暴風をみずから創り出して、その中に飛び込んでいくかのような、通常の論証などとは別筋・別次元の、どこか危うくもある企て、という気がしないでもない……(?)。

nyx 第5号とりあえず、まだ読了はしていないし、インゴルドの向かう先も今一つ掴めていないので、そうした判断は保留にしておくれけれども、それとは別に、このところなにやらデュルケムとモースの系譜の話を個人的にはよく目にするように思う。たとえば、夏頃に刊行されたnyx 第5号』(堀之内出版、2018)の第一特集「聖なるもの」でも、デュルケム=モースの系譜(それもまたラインだが(笑))が、「聖なるもの」が孕む諸問題の発出点として重要視されていたように思う。インゴルドにおいても、着想源の一つが両者の系譜にあるのはほぼ確かなようで、繰り返し何度か言及されていたりして、なにやらとても印象的だ。デュルケム=モースに少しばかり立ち返ってみるのも、有益かもしれないと思い始めているところ。

レクトン、イデア、コーラ再考(アガンベン本)

哲学とはなにかこれは想像以上に重要な一冊だ。ジョルジョ・アガンベン『哲学とはなにか』(上村忠男訳、みすず書房、2017)。タイトルからすると入門書のような感じに思われるかもしれないが、中味はまったくそのようなものではない。一言で言うなら、言語表現と意味論、言語と哲学的思考のあわい(狭間)を、古典的テキストへの参照を駆使して根底から再考しようというもの、というところか。前半後半のそれぞれにハイライトがあり、まず前半の第一章「音声の経験」は、かつてデリダが批判を試みた西欧の音声中心主義の再検討を行っている。そこで明らかになるのは、デリダによるプラトンの読み・形而上学批判が必ずしも正確ではないかもしれず、実は西欧の形而上学の伝統の根源には、はじめから音声ではなく文字が置かれていたという可能性(!)だ。このあたりの議論はとても興味深いもの。いずれにしても、個人的にも対話篇『ピレボス』などはちゃんと読みたいところ(というか、同書が参照している各テキストを網羅的に読んでいきたいところだ)。

そしてまた、特筆されるべきは後半のハイライト。第三章「言い表しうるものとイデアについて」は、ストア派の言う「レクトン」(言い表しうるもの)の再検討から始まる。そこで提示される仮説はなんとも興味深い。つまり、ストア派の「レクトン」とプラトンの言う「イデア」が実は重なり合うのではないか、というのである。例のプラトンの第七書簡には、「円」を例に、認識の五つのステップが示されている。まずは「えん」という音声、その定義、像。ここまでは可感的なものなのだが、これに四つめとして「魂のなかにあるもの」としての知識が加わり、最後にはイデアが想定される。ストア派の言うレクトンは、可感的なものはもとより、「思考の運動」たる知的なものとの符合性も排除されている。したがってそれは五つめとされるイデアに重なる以外にない……。ただ、ストア派のレクトンは、思考・言語活動との密接な関係をそのまま維持しているために(上の四つめと五つめにまたがっている)、後代の人々はレクトンを思考もしくは言語活動と混同してきたのではないか、よってプラトンのイデアも、概念と同一視されてしまったのではないか、と。

イデアの言語的表現の分析からは、「アリストテレスの解釈の不適切さ」と「プラトンの理解のより正確な理解に向けて接近していくこと」とが明らかになる、とアガンベンは主張する。プラトンはイデアを、後代の人々が考えるような実体的なものとして考えていたのではなく、「事柄それ自体」として捉えていたのではないか、というのだ。イデアは可感的な対象物と、いわば同名異義性をもっているし、可感的事物はイデアに与ることによって名前を受け取る。その意味で、イデアは名づけの原理のようでもある。プラトンは「それ自体」(αὐτός)という前方照応的代名詞でもってイデアの性質を表現し、ひいてはそれが前提のない、存在の彼方にあるような原理・始原を召喚することをも可能にしているのではないか、というのだ。ところが一方のアリストテレスは、これを「なにかこのもの」(τόδε τι)のような指呼的代名詞でもって表されているものと見なす。それはアリストテレスによるイデア批判の端緒であるとともに、イデアをまさに「普遍的」(τὰ καθόλου:アガンベンはこれを「全体にしたがって言われるもの」と字義的に訳すことを提唱している)なもの、と実体的に見なす解釈の発端にもなる。ここから、古代末期(ポルピュリオスやボエティウス)から中世を通じて継承されていくような、一般的なものを「普遍的なもの」として実体化し切り離すような考え方が展開していく(アガンベンはそれを、最悪の誤解と評している)。

さらには、イデアと場所の問題も取り上げられる。これは当然ながらプラトンの「コーラ」(場所・空間)の解釈に繋がっていく。イデアは場所(トポス)のうちには存在しないとされ(アリストテレス、シンプリキオス)、端的に知覚されないもの(άναίσθητον)だが、それが厳密には知覚の不在を知覚するという意味であるとするならば、同じくコーラもまた「感覚作用の不在にともなわれた雑多なものが混ざり合った推論によって触知しうる」とされ、イデアとコーラは「感覚作用の不在を通じて交通しあっている」ということになる、と。ここから、コーラは質料と同一視すべきではない、むしろイデアと結びつく(!)という驚くべき帰結が導かれるのだ。きわめて強烈な印象を残す、アガンベンの新たな境地、と言えるかもしれない。