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連続創造説の起源?

一般に、連続創造説といえばデカルトだけれど、当然これにも前史がないわけではないだろうとの推測のもと、ファビアン・ルヴォル『西欧思想史における連続創造説の概念』(Fabien Revol, Le concept de creation continuée dans l’histoire de la pensée occidentale, Institut Interdisciplinaire d’Etudes Epistémologiques, 2017)を読み始めた。同書は三つの時代区分で連続創造説を取り上げるという趣向(スコラ学の時代、デカルトの時代、近代)で、各時代の連続創造説にはそれぞれ「創造の温存」「創造行為の作用の維持」「恒常的再創造」という概念が相当するとされる。さしあたり個人的に注目するのはこの最初の部分。創造の温存という意味での連続創造説だ。もともとはトマス・アクィナスに端を発するなどと言われていたのだそうだけれど、テキストとして「連続創造」などという文言は見当たらず、どの部分がそれにあたるかというのは曖昧に示されているにすぎないのだという。というか、それをトマスに帰しているのは実は16世紀のフランシスコ・スアレスなのだという。

スアレスはある意味でスコラ学の集大成と位置づけられ、中世と近代の橋渡し役とも見なされている。自然学的には作用因を中心に考えるスタンスを取り(そのこと自体にはスコトゥス的な存在の一義性が大きく関与しているようなのだが)、その考え方はデカルトにも影響を及ぼしているらしいという。スアレスのそのスタンスは創造説にも波及しており、創造とはそもそも創造行為の時間において対象(被造物)に存在を付与する行為だとされる。ひとたび創造された対象物は、まずは偶有的に、実体を破壊しうる作用に抵抗する形でみずからを維持する。二つめとしては、みずからがもつ複数の要因を協働させて、間接的な形でみずからを維持する。三つめとしては、創造主の創造行為の継続として、直接的に維持される。この三つめの文脈で、スアレスはトマスが、被造物の温存はいわば連続的創造だと主張していることを示し、さらにその連続性というのは、わくまで人間の理解における連続性、連綿たる継続を通じた共存(複数の要因の)による連続のことをいう、と述べているのだそうだ。少しわかりにくいが、被造物の側からすれば、自分たちが存在し続けるのは、創造の際に与えられた性質や、神の直接的な介入の結果とも見なされうる諸処の作用因が複合的に作用しているから、と見なされるのだけれども、神の側からすれば、創造行為とは永劫的な時間の中でなされる永劫的な行為なのであって、創造そのものと被造物の温存は一体でしかない、ということのよう。宗教改革期に神学と哲学が互いに分離する中で、連続創造説は哲学サイドの創造概念として生まれている、という指摘が印象に残る。

スアレスとデカルトの永遠真理論

積ん読(というかハードディスクの肥やし)のPDFからスアレスとデカルトの永遠真理の問題に関する論考を掘り出す(笑)。アミ・カロフスキ「デカルトの永遠真理理論へのスアレスの影響」(Amy Karofsky, Suárez’s Influence on Descartes’s Theory of Eternal Truths, Medieval Philosophy and Theology, vol. 10, 2001)というもの。表題はちょっとミスリーディングで、スアレスの影響というよりも、スアレスの議論に応答するデカルトの立場が、あざやかな対比をなすということを詳述した一本。先に読んだ大西克智『意志と自由―一つの系譜学 アウグスティヌス‐モリナ&スアレス‐デカルト』(知泉書館)にも共鳴する内容だ。ここでの永遠真理論とは、(1)現実化されていない可能態としての本質は無であるとされるのなら(2)その場合、そうした本質をめぐる命題の永遠かつ必然的な真理の根拠は何になるのか、という問題を扱うものを言う。つまり世界が創造される以前の段階で、「人間とは理性的な動物である」という真理命題は何をもって真理となるのか、という問題。同論考によると(1)に関してはスアレスもデカルトも、可能態である限り(実在しないので)そのような本質は無であると認めているという。違いが生じるのは(2)をめぐってだ。スアレスは、真理命題の理拠となるのは、命題の項が表す「本質」の、「諸属性」の関係性だという。「人間であること」という属性は「動物であること」という属性を含み持つのであり、その関係性ゆえに「人間は動物である」という命題が真となる、というわけだ。諸属性の関係は、それ自体として創造されてはいないとされる(独立して存在するのではないから)。またそれら諸属性は、プラトン主義のように神から独立して存在するのでも、創造に先行するのでもない。これはちょっとわかりにくいのだけれど、スアレスによれば、本質を構成する属性とは、神の本質そのものを表しているとされ、したがってその意味で属性はリアルなものであり(神がリアルであるとされるのだから)、しかも(神の本質を表すのだから)必然的なものでもある、とされる。どうやらそれは、プラトン主義的な素朴論(真理命題は神とは独立に存在するとの立場)と、主意主義的な観念論(真理命題は神に全面的に依存するとの立場)との折衷案であるらしい。

しかしながらデカルトは、スアレスのこの議論を批判する。スアレスのように必然的な属性のリアリティを認めてしまうと、属性の先行性が前提とされることになり、神の創造はそうした属性から現実態にする本質を「選択」するだけとなって、神の意志の自由が制限されてしまうことになる。デカルトは、属性の先行性を否定し、そうした属性をも含めて神の創造の産物でなければならないと考える。つまり神を本質の作用因と見なし、神の存在こそが永遠真理を保証している、と考えるのだ。神は選択するのではなく、あくまですべてを無から創造するのだ、と。その意味でデカルトは「観念論者」(ここでの意味は、神の知性の中にあることをもって永遠真理の理拠とする議論)ではない、と同論考は論じている。このあたりの読みは、通説と逆行していてとても興味深い。いずれにせよ、こうして見ると、スアレスの議論は捻りの利いたアクロバティックなもの(属性が創造に先行するも、それもまた神の本質を反映しているという、二段構えで応答する)、対するデカルトの議論はきわめてストレートなものに見える。けれどもこのデカルトの議論もまたアポリアを含んでいる、と同論考は示唆する。なるほど、その立場では、神の創造以前における本質の「様相」(可能性としての状態)とはどんなものなのか、という問題が相変わらず残ってしまうわけか。で、デカルトはそれを「神のことは人間知性には計り知れないのだ」として斥けるが(アウグスティヌスがそれを神の「無時間性」で斥けたように)、逆にそのあたりの反応から、神の意志の自由が再びある種の必然(たとえば最善の世界の創造など)によって制限される事態を招いているのではないか、というのだ。結局、スアレスにしてもデカルトにしても、「必然的な永遠真理」と神の自由とが完全に相容れるような議論を展開してはいない、ということが明らかに……。というわけで、これはなかなか読ませる一篇だ。

無矛盾律から選択的自由へ

間が空いてしまったけれど大西克智『意志と自由』の続きをゆっくりと堪能中。少しばかりメモ。前回取り上げたグルヤール論文には、初老の女性による反応の事例としてこんな話が出てくる。まずビュリダンは「食べることと食べないことは同時に可能か」と相手の女性たちに尋ねる。当然「可能ではない」という答えが返ってくる。すると今度は「神は全能で世界を無に帰すこともできる。ならば食べることと食べないことが同時に可能であるようにすることもできると思うか」と問う。女性たちは一様に「わからない」と答える。実際には、当時の神学的な考え方からすると、神の全能性といえど無矛盾律の制約だけは受けるとされていたわけだけれど、一般信徒はさすがにそこまで知ることはなく、判断が保留にされてしまう。そんなわけで、謬論により認知・同意が弱められる例としてビュリダンはこれを挙げているのだけれど、改めて重要なのは、その無矛盾律の尊重が一四世紀当時においてきわめて一般的だったという点。

wikipediaから、ルイス・デ・モリナ
wikipediaから、ルイス・デ・モリナ
で、ここで再び前々回の大西本に戻るわけなのだけれど、16世紀のイエズス会の神学者ルイス・デ・モリナにあっては(同書第二章)、意志に関する限りこの無矛盾律は回避される、というか一種脱臼させられてしまうようだ。もちろん行為それ自体としては、一つの行為が選択されてなされる瞬間に、別の行為がなされることはありえない。けれどもその瞬間にも<潜勢態として>「反対の行為を選ぶ力能」が意志のうちに伏在するという議論を、モリナは継承しているのだという。この議論はドゥンス・スコトゥスに端を発するものだといい、行為の遂行の瞬間はその行為によって制約されて自由ではない、とするオッカムと対照をなしているとされる。で、モリナはというと、ただそれを継承するだけではなく、議論への修正を加えていくらしい。つまりスコトゥスを継承する一方で、スコトゥスが全体の構図において神の側のイニシアティブを重視する点(確かにスコトゥスの意志論は、神の意志に重点を置いている印象が強い)をモリナは「決定論だ」批判し、イニシアティブを人間の意志の側に大きくずらそうとするのだという。神は「無関心」へと中立化されて、意志の発端は人間の側に置かれる。無矛盾律という観点から見るなら、人間の意志においては潜勢態・現実態の区別でもって無矛盾律も回避され、そればかりか神の意志における無矛盾律などもはやまったく歯牙にもかけらなくなる、というわけか。

反対の行為を選ぶ潜勢的力能、あるいは潜在的な選択性は、続くスアレス(第三章)においてはさらに汎用的に拡張されるらしい。知性がもたらす判断に対して意志の同意を先行させることにより、意志の自由が担保されるという図式が、スアレスにあってはいっそう精緻化されるらしいのだけれど、その場合の意志の同意は、基本的に潜勢的な選択肢を<潜在的に比較する>ことから成り立っている。しかもそれは、あくまで回顧的に、後から「そういえば、これこれはあれとの比較で選んだのだな」とわかるような、というか再構成されるような比較であり、そうした比較があればこそ、別の選択もあったという意味で「事前に決定されてはいなかった、自由だった」ということが確信できるという類のプロセスなのだという。なるほどスアレスにおいて自由は、常に回顧的に見出されるものでしかないというわけだ。けれども実際の行動に際しては、比較の意識などまるでないような場面も多々ある。で、スアレスはそのような場合があることも認めつつも、そうした方向には議論を進めてはいかないのだという。それがスアレス、ひいてはイエズス会全体のある種の思想的限界(?)なのかもしれない、と。彼らにおいて抑圧されるもの(同書ではそれを選択という外挿によらない、内在的な「自己決定」だとされる)を救い出すには、どうやらデカルトを待たなくてはならないらしい。

スアレス『形而上学討論集』から 7 (1)

またしても少し間が開いてしまったけれど、先に進もう。II.1.7の前半部分。例によって段落分けは訳出上適宜に行っている。今風にいえば、ある概念に明示的意味と共示的意味(今風に言うならばだが)が混在しているというような議論は、名前と概念との違いを踏まえていないのであり、概念が混淆的に理解されるのはむしろ、その概念が一義的に表すはずの第一のアナロギアに、認識がいまだ到達していないからなのだ、といった話になる……のだろうか(?)

7 <他の人々の議論は是認されない>−−。これに対し、部分的に混淆し部分的に区別されるような別種の概念があるとする議論は、今説明されるべき事象にとっては無用のものである。まず第一に、実体の概念が暗示的・混淆的な意味で偶有的な概念だと言うのは不適切な言い方であり、第一のアナロギアに固有の概念が第二のアナロギアとなる他のアナロギアの混淆的な概念であるというのは、たとえ多くの場合にそのように言われるにしても、一般的にこの上なく不適切だからだ。その多くの場合、同じ名前が、直接には第一のアナロギアを意味し、二義的に別のアナロギアを意味するかのように言われる。第一のアナロギアの形相的概念が混淆的に他のものを、それらが第一のアナロギアに類似もしくは類比の関係にある限りにおいて表すかのように、である。というのも、何かを明確に表すものは結果的に、ともかくも混淆的に類似する他のものをも表すと考えられるからだ。

だがこのことは、たとえわずかな重要性しかなく、言い方のせいなのだとしても、私には論証されたようには思われない。というのも、そのような概念、第一のアナロギアの適切かつ明確な概念は一つなのであり、それが形相的に表すのは第一アナロギアそのもの以外にないからだ。そのような場合、名前で比較するのでは正しくない。というのも、名前は命名のみによって意味するのであり、したがって一義的かつ適切に一つのものを意味する同じ名前は、転義によって別の二義的な意味対象を命名することができるからだ。

これに対し、事物の概念はごく自然にその事物それ自体を表す。したがって、第一のアナロギアの概念が、固有の理拠にもとづく固有かつ適切な概念であるならば、それが他のものを表すことはできないのである。よって、その認識はおのずとなされるものではなく、原初もしくは時宜に適う場合のように、その極限へと達しうるようなものとなる。かくして、第一のアナロギアへの類比、あるいは慣習の関係にもとづき、他のアナロギアが理解され名づけられることにもなるのである。このことから、第一のアナロギアの個別的かつ固有の概念は暗示的もしくは混淆的な概念である、と言うだけでは十分ではないのだ。[この節、続く]

スアレス『形而上学討論集』から 6

(第二討論第一部から)前回の続き。存在者の形相的概念について、想定される異論への反駁を記している箇所。とりわけ問題となっているのは、「存在者」という形相的概念が単純なものを指し示すとする異論。スアレスは、その形相的概念は、あくまで一定の意味の幅とあいまいさをもった一般概念であって、個別者を捉えるには適していないとしている。

* * *

6. あなたがこう言うとしよう。「実体、生物、あるいは同様の名称は、これやそれといった、実体や生物の自然本性を直接的に意味するのではなく、実体や生物についての思惟を意味するのだ。したがって、かかる言葉の意味に対応する区別された概念を形成するために、個別の自然本性に降りていく必要はない。存在者はまさに別なのだ。その言葉が直接意味するのは実体性なのであり、いずれにしても単一のもの、すなわち共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体ではないということだからだ」と。しかしながら、続く第二部でより広範に示すように、実際にはこれは誤りである。ここでは簡単に述べるが、そのことは概念理解の共通の様態から明らかだ。

神がこの上なく単純で、共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体ではないからといって、存在者は直接に神そのものを意味するなどと、一体誰が言うだろうか?さらにそのような問いかけは、実体、偶有、その他の単一的な類または概念についても可能である。同じく、なにゆえに存在者は、動物やハビトゥスなどのような、共通の自然本性と制約的な差異から成る複合体よりも、むしろ単純な実体性を直接的に意味すると言われなくてはならないのだろうか?かかる存在者は、その概念の下にあらゆるものを全般的に内包するが、実体ないし性質の概念の場合のように、存在者でないものはいっさい含まれない。動物やハビトゥスの概念の場合でもそれは同様だ。複合的な概念は複数の概念に解体でき、そこではいずれも他を内包することはない。一方で単純な概念はその限りではなく、不十分ながら間接的・直接的な意味を指し示す。では、合理性が単純な概念で、人間が複合的な概念であるからといって、一体誰が、存在者は人間ではなく合理性を直接的に意味するなどと信じられるだろうか?

それゆえ、個別的かつ厳密に存在者そのものの形相的概念を立てなくてはならないにせよ、その概念は、(それを通して)個別の存在者をその固有性および合理的な限定性にもとづいて理解するには適していないのである。ゆえに、かかる存在者の概念は、もしそれを立てるのであれば、このように存在者の個別性に関しては常に混乱をきたすものとなる。それゆえに聖トマスは、(『神学大全』の)第一部一四問六節においてこう述べているのである。存在者の数だけ、神がおのれ以外のものを認識するのだとすると、神はそれらを共通性においてのみ認識し、混乱しかつ不完全に認識することになる。そのためにトマスはこう結論づけているのだ。神は、存在者の思惟にあって共通するもののみにもとづいてそれらを認識するのではなく、あるものが他から区別されることにももとづいてそれらを認識するのだ、と。したがってトマスは、かかる存在者の概念は、たとえそれが厳密に立てられるにせよ、そのものとして捉えられ複合体もしくは単体として他から区別されてるような、いかなる存在者の思惟的な限定に関しても、常に混乱をきたすと考えているのである。