「主体、知性、スペキエス」タグアーカイブ

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。

スコトゥスの感覚表象論

カントが中世から学んだ「直観認識」: スコトゥスの「想起説」読解少し前から眺めていた八木雄二『カントが中世から学んだ「直観認識」−−スコトゥスの「想起説」読解』(知泉書館、2017)を読了。スコトゥスのテキスト(『オルディナティオ』第4巻45章、第三問)に、いわゆるランニングコメンタリーを付けて一冊の本に仕上げるという、ありそうでなかった、なかなか面白い試みだ。現代においては、中世のテキストをただ訳出して刊行するのはどこか味気なく、ほとんど研究者界隈でしか読まれないことになってしまうが、こうした形式ならば多少とも一般向けになりうるのではないかという気もしなくもない(もちろん価格や装丁など、ハードルはほかにもあったりするのだけれど)。そういう意味では、来るべきこれからの古代・中世の古典訳出の一つの在り方を先取りしたような、可能性を開いてみせた一冊かもしれない。

内容的には、離在的な魂(肉体から離れた、死後の魂)に記憶がありうるかどうかをスコトゥスが検討するというものになっている。これがそもそも問題になるのは、中世盛期にいたるまでの哲学的伝統では、感覚的なものは肉体に、知性的なものは魂にあてがわれるのが一般的で、そのため、最期の審判において肉体を離れた魂が生前の記憶を蘇らせるというキリスト教の教義との整合性を、なんらかのかたちで取る必要が出てくるからだ。スコトゥスは従来の伝統から一歩はみ出て、感覚的なものとされていた記憶の機能が、知性にもあるということを論証しようとする。個別の感覚認識をまとめあげる感覚表象を、知性の機能として認めようという議論。これは後のカントにおける「悟性」の、先駆け的な議論かもしれない、と。まさにその点こそが、スコトゥスが近代的な哲学への第一歩を踏み出したといわれる所以となっている。

余談。このところ詩と哲学の関係性というのを個人的に再考したいと思っているのだけれど、同書の中で著者のコメンタリーに、芸術家が言葉にならないものを言葉で汲み取ったとしても、それが社会の共通認識にならなければ哲学の世界には入ってこないという指摘があった(p.93)。そこでは、哲学者は詩人の世界には入れず、一般社会の常識にとどまって言葉に対峙していなくてはならないとされる。しかしながら哲学もまた、ときに同じ常識的な言葉を用いながらも、通常の意味とは別の意味をそこに付加しようとしたりする。それもまた一つの詩的営為と捉えてしかるべき、なんてことを改めてつらつらと想ったり。

動物性についての問い

ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理動物がらみという関連で、これもまた年越し本となったのが、パトリック・ロレッド『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』(西山雄二、桐谷慧訳、勁草書房、2017)。原著は2013年刊。デリダ晩年の動物論が、実はその思想系全体を貫くものだったのではないかという観点から、その全体像を読み直そうという試み。デリダの実人生の歩みと絡めた評伝的な序章に続き、各章ではデリダが用いたなんらかの概念・テーマ系ごとに(ファロス=ロゴス中心主義、ファルマコン、政治の問題などなど)、動物性についての考察がその底流をなしていることを説き証そうとする。デリダのもとの議論、それぞれのテーマ系は、通念的なものの成立を支えている隠された部分(それがとりもなおさず他性としての動物性なのだけれど)をなんらかの反転的思考で明るみに出そうとするものなのだが(脱構築というのはもとよりそういうもの)、同書のアプローチはいたってシンプル、もしくは古典的・オーソドックスなもので(後期思想から、前期・中期をも貫く部分を浮かび上がらせるという手法)、確かに全体的な見通しはかなり良くなりはするのだけれど、そこにわずかばかり違和感を覚えたりもする。なるほど、動物性の議論がデリダ初期からの思想的核心部分を形成しているのではないか、というスタンスそのものは興味深いものであり、各種のテーマ系に動物論が連なっていること自体は確かに否定しがたいとしても、逆に動物論の側に各種のテーマ系が連なりうるのかは、それほど自明ではないのではないか、という気もしなくない。また、そのような連続の相での観点から全体を視野に収めようとすると、デリダ思想の入門書を標榜するものにありがちな、どこか後出しジャンケン的、いうなれば還元主義的な気配を色濃く感じさせずにはおらず、根源を問うているはずの微細な議論が、どこか雑な大枠に押し込まれて不自由なものに見えてしまう嫌いもあるのでは、と老婆心的に思ってしまうのだ。動物性あるいは動物一般を放逐することで人間は主権を、あるいは主権的権力を構成しえたものの、それゆえに動物は従属という形で暴力的に人間の主権的権力に結びつけられてしまい、いびつなかたちで関係性を結ばされている……といった根本的な視座ないし議論を扱うのであれば、翻ってこうした評論あるいは思想研究にも、それ自体を成立せしめているある種の暴力性を認め、暴き出すようなところから始めていく、というほうが、むしろデリダ的にオーソドックス(こう言うとなにやら言葉の矛盾のようでもあるけれど(笑))である気がするのだが……(無い物ねだり、か)。もちろん、デリダもまたこういう古典的アプローチの対象になったのだなという、ある種の感慨を改めて覚えはする。

トマス/オリヴィからリードへ(リベラ本)

Archeologie Du Sujet: La Double Revolution: L'acte de penser (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)アラン・ド・リベラの『主体の考古学III – 二重の革命 – 思考の行為1』(Alain de Libera, Archéologie du Sujet III : La double révolution: L’acte de penser 1 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, Vrin, 2014)を、時間的に飛び飛びに読んでいるところ。第三巻めの前半ということなのだが、相変わらず、ある意味自由闊達に時空を飛び越え、中世と近代とを往還しつつ議論が進んでいく。仮定として出される理論やテーゼを独自のシーグル(略号)で表したりもするため、ちょっと油断していると前に出てきたシーグルの意味を忘れてしまって、そこまで戻らなくてはならなくなったりもする(苦笑)。その意味で、多少とも読みにくさはあるのだけれど、前の巻に比べてわずかながら図式的な整理が進んでいる気もする。すごく大まかな見取り図で言うなら、この巻の主要なテーマは、主体概念と客体(対象)概念のそれぞれが、ある種の「交差配列」を経て成立していく過程ということになりそうだ。

主体の側で言うと、アヴェロエスの知性の二重化(能動知性・質料的知性)によって導入された、思考する離在的「主体=エージェント」とでもいう概念が、アヴェロエス派に対するトマスの反論によって、いわば各人の内面に一元的に取り込まれることとなり、いわば分裂した主体(操作としての思考と対象としての思考)としての人間という考え方が広く定着していく(トマスの学説が標準として確定されることによる)。対象の側で言うと、トマスのその教説においては対象も二重化し、外的対象と、思考対象としての像(スペキエス)が確立される。やがて今度はペトルス・ヨハネス・オリヴィがそれを批判するようになる。そこでの眼目は、スペキエスなどの仲介物を介さない、対象と思考との直接的なやりとりを目することにあるのだが、オリヴィの説も、それに追随するフランシスコ会派の考え方も大勢を得るにはいたらない。それははるか後代にまで持ち越される。やがて出てくるのが、18世紀のスコットランドの哲学者トマス・リードだ。

リードは表象主義(観念説)を否定し、ある意味オリヴィ的な直接主義(直接的現実主義)を主張する。そこで否定される観念説というのは、外界の対象物の像(対象物そのものではなく)を認識の対象に据えるという立場で、いわばトマス的な像(スペキエス)の正統な末裔とでも言えそうなものだ。リードによれば、プラトンからヒュームまで、そうした観念(イデア)を認識対象に据えてきた点は共通だったとされる。デカルトなどもアリストテレスなどのくびきを揺さぶっただけで、そうした共通の教えを打破するところまでは行っていない、とも主張する。ここに一つの結節点を見て取るリベラは、一方でリードの継承者でも批判者でもあったウィリアム・ハミルトンなども取り上げていく。このあたりの詳細は第三巻の後半(現時点では未刊)を待たなくてはならないようだけれど、いずれにしてもこのように、リードとその周辺においてこそ、主体と対象のそれぞれの二重化は確立され、それらの交差配列が近代的主体の基礎となっていくというのだ。

プロクロス『パルメニデス注解』四巻から(再び)

その後も読んでいたプロクロス『プラトン「パルメニデス」注解』第四巻(Proclus : Commentaire sur le Parménide de Platon. Tome IV, 1ere partie, Les Belles Lettres, 2013)。この巻もようやく一通りの読了にまで漕ぎ着けた。前回も記したように、四巻は形相(イデア)をめぐる哲学的議論の限界を強く前面に押し出し、その上で神学へのシフトを打ちだそうとしているせいか、とくに後半は、個人的にもあまり盛り上がらずに読了した印象だ。イデアは事物が参与する、分有の大元だという主張は、厳密に吟味していくなら、必ずやアポリアにぶつかる。事象の認識から得られる共通項が即イデアというわけではありえず、そもそも感覚的表象が即、知性的な理解対象となるということも考えにくい。また認識による共通項が現実の事象の原因をなしているというのもありえない。それらは結局人間知性の限界だとされ、そこから神々の知性についての理解へと進んでいかなくてはならないということになる。神の知性においては、イデアは単なる似像ではなく、実際に事象を生成するモデルでものでもあり、事象の原因にもなっているとされる。新プラトン主義的にはそちらを認識するための「高次の」シフトを提唱し、イデアと事象の間に流出論の関係(産み出されたものは、その産出元を志向する)を見て取る。さらに、そうした高次の認識に至るには、しかるべき素質や経験、熱意を持った者が、観想を通じて、神々の「光」に照らされなくてはならないのだと説く。まさに神秘主義の基本的な論理展開・認識構造ではある。

934節にイデアとは何かという点のまとめがあるので、それを挙げておこう。イデアはまず(1)非物体的であり、(2)分有する事象と同じ水準にはなく、(3)思考対象となった本質ではなく、本質そのもの、存在そのものであり、(4)範型であるのみで、似像ではなく、(5)人間にとっての認識対象ではあっても、それは直接的にそうなのではなく、ひたすら像を通じてのみの認識対象であり、さらに(6)イデアはおのれが産出したものを、因果的に知解可能なものなのである……。

一つ面白かった点を指摘していおくと、神の知性と人間知性の違いを言いつのる箇所(948節)で、プロクロスがいくつかの異論に言明している点。知解対象としてのコスモスを人間の内にあるものと捉える説とか、魂の一部が天上に残っていて、それとの連絡によって知解がなされるという説、魂が神々と同一実体をなしているという説などが挙げられている。この二つめなどは、まさに離在的知性論(中世のアヴェロエス派がテーマ化したような)を彷彿とさせる。単一知性論(とは記されていないけれど)の源流のようなものが5世紀よりも以前からあったことの証左かもしれず、なかなか興味深い。