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プルタルコスによるストア派批判

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)プルタルコスの『モラリア』から「ストア派の矛盾について」をLoeb版(Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library), tra. H. Cherniss, Harvard Univ. Press, 1976)で読んでいるが、そろそろ終盤に差し掛かってきた。というわけで、雑感メモ。ここでのプルタルコスは、クリュシッポスを中心にストア派が時として相矛盾するテーゼを示しているということを、テーマ別に、彼らの著書(現存してはいない)の随所からの引用同士を突き合わせて細かく指摘していく。その指摘は容赦なく、また細部を穿つ感じもあって、ある意味意地の悪いアプローチなのだけれど、逆にそれによって、限られたものではあっても、わたしたちは失われた著作の一端が伺い知れるという利点をもなしている。また現代的になら、矛盾する記述同士をどう整理して理解するかという観点からアプローチするところだが、プルタルコス(アカデメイア派に属している)はあくまでそれらを論難することに始終する。解釈によっては、もしかしたらプルタルコスとは別様の理解、別様の結論も導けるのかもしれないが、とにかく現存するコーパスが少ないという問題は残る……。テーマは倫理学が中心で、よりよき生、善悪のエティカ、悪の認識、快不快の問題、レトリックなどと進んでいき、そこから神学的・自然学的な議論に入っていく。

批判の例として胚の魂の生成にまつわる議論を上げておこう。クリュシッポスは子宮の中の胚を、植物と同じように自然によってもたらされたものと見、誕生の際にその火のような精気(プネウマ)が空気によって冷やされて魂となる、と考える。プルタルコスの指摘によれば、クリュシッポスはある箇所では生命の起源を火と見ながらも、また別の箇所ではその冷却をその起源と見ているという。ここにすでに自己矛盾がある、というわけだ。また、胚においてプネウマが冷やされ弱まって魂になるとなれば、魂は身体よりも新しいということになる。魂に備わる性格や傾向は、親に似るとされるのだが、するとそれは誕生時以降に備わることになってしまうし、また、親との類似性が身体の物質的な混成によって生じるとするなら、魂が発生した後に変化するということにもなる。アカデメイア派からすれば、それは到底ありえない話になってしまう。

注解と形而上学

注釈と形而上学

L'unite De La Metaphysique Selon Alexandre D'aphrodise (Textes Et Traditions)久々にアフロディシアスのアレクサンドロスについての論を眺めているところ。まだ全体の3分の1にあたる、序論と第一章を見ただけなのだが、すでにして心地よく刺激に満ちている印象。グヴェルタズ・ギヨマーク『アフロディシアスのアレクサンドロスによる形而上学の一体性』(Gweltaz Guyomarc’h, L’unité de la métaphysique selon Alexandre d’Aphrodise (Textes Et Traditions), Paris, Vrin, 2015)というのがそれ。アヴェロエス以前のアリストテレス「注釈者」として名を馳せていたアレクサンドロス(3世紀)は、実は「形而上学」を独立した学知として認めさせる上で大きな役割を担っていたのではないか、という仮説が冒頭で提起されている。その仮説の検証を楽しむ一冊、というところ。

アリストテレスの『形而上学』は古来から、一貫した著作というよりも雑多な文章の寄せ集めではないかという疑問が絶えず発せられてきた(さらには、アリストテレスが真正の著者ではないかもという疑いも消えずにいた)。けれどもそれを証す決定的な証拠もなければ、逆を証す証拠もなく、結局その問題は、そこにいかなる著述意図を読み込むかにかかっていた。で、この論考の著者は、アレクサンドロスの読みもまた、まさにそうしたものではなかったか、というのだ。解釈を施すこととは、『形而上学』になんらかの一貫性・意味を与え、それが体系的な著述であったことを示すことにほかならなかった、というわけだ。その意味で、アレクサンドロスはまさに「形而上学」なるものを「しつらえた」といえるのではないか、と。そこには背景として、諸学派(ストア派、エピクロス派、プラトン主義、逍遙学派などなど)が群雄割拠するヘレニズム後の古代世界にあって、生き残りをかけた学派同士の戦いがあり、注解には他学派の人々に対する説明・知的伝統としての伝達・学派の若者らへの教育という側面もあった。かくして全体として見れば、アリストテレスの他の著作と同様、『形而上学』についてもまた、なんらかの単純化・図式化と、議論の精緻化とが施されていかざるをえない。ひょっとして、アリストテレスの言う「第一哲学」に「メタフィジクス」という言葉を宛てたのも、アレクサンドロス(もしくはその周囲の任意の注解者)かもしれない……。このように、アレクサンドロスによる読みは歴史的文脈に位置づけられ、『形而上学』が著作として一つの全体の相のもとに成立していることが説き証されていく。論証としてはいささか弱い面も否めないものの、なかなか興味深い視座だ。続いて今度はその著作の一体性が、学問としての形而上学の一体性へ(第二章)、またその学問が対象とする存在そのものの一体性へ(第三章)と拡張・敷衍されていくことになるようだ。

写本のなかの幾何学模様

夏休み(といっても個人的に休暇中ではないのだけれど)のこの時期は、やはりどこか普段とは違ったものが読みたいもの。論文の類もそう。というわけで、実に久しぶりに、テキストの周縁部の話を見てみた。スタヴロス・ラザリス「ギリシア写本の頁組みにおける、幾何学モチーフの装飾の機能」(Stavros Lazaris, Fonctions des ornements à motifs géométriques dans la mise en page du texte des manuscrits grecs, KTÈMA Civilisations de l’Orient, de la Grèce et de Rome antiques, Université de Strasbourg, 2010)というもの。ビザンツ時代の写本に使われているという幾何学モチーフの装飾を、ヨーロッパ中世の全体的な書物史・写本文化史の視点から位置づけ直そうという一篇。写本への装飾の導入は、書物とそれを読む人間との関係の変化に結びついているといい、まずは古代の巻子本から冊子本への移行(2世紀ごろ)、さらに音読から黙読への移行などについてのまとめが続く。装飾の成立は、それらの変化の交わるところで、どこに何が書かれているのかを示すテキストの分割の必要に関連して生じている、ととされている。章の区切りを強調するために始まりや終わりのアルファベットに装飾を施すなどだ。まあ、このあたりはすでにどこかで言われていることだけれど、少し面白いのは、著者が幾何学模様について、象形の挿絵などとは異なり、書を読むことを妨げず、それでいて章の区切れなどを表すことができる、と指摘している点。うーん、そうも言い切れない事例もあるような気がするが(笑)、さしあたりそれは置いておくと、著者はさらにそうした幾何学模様の抽象性が中立性や普遍性を獲得している点(偶像禁止後のビザンツはその意味でとくにそれが発達した、ということか)や、そこに表されている細密画家の自由や、そうした画家の師弟関係(工房)にもとづく系譜の存在なども指摘している。

同論考から、幾何学模様の例(一部)
同論考から、幾何学模様の例(一部)

ゾシモス『炉と器具について』第一書 9 – 11

9. このように、最初の人間は、われわれにおいては「トート」と、彼らにおいては「アダム」と呼ばれている。天使の言葉で呼ばれはしたものの、その一方で、天球全体から取り出した四つの文字=元素でもって、まさにそれを象徴的に、物体の意味において言われもした。「アルファ」は、日の出、空気を表し、「デルタ」は、日の入り、重さゆえに下へと沈み行くものを表す。(中略)「ミュー」の文字は、南中、物体の中央にあって成熟をもたらす火を表し、それはまた四つめの中央の帯にも及んでいる。

10. このように、目に見える彫琢において肉から成るアダムは、トートと呼ばれている。その中にある人間の部分、すなわち気息的人間には、高貴な名と通称とがある。高貴な名は、さしあたり私の知らぬところである。なぜなら、それを知っているのは見出されぬ者ニコテオスのみだからだ。通称では、フォス(死すべき存在=光?)と呼ばれる。それゆえ、これに伴って人間は「フォタス(死すべき者)」と言われるのである。

11. フォスが楽園にあって、運命(の神)に息を吹き込まれていたとき、それは悪しきところがなく影響を及ぼすこともなかったが、(司る者たちに?)説得されて、運命より生じ、四つの元素から生じたアダムを身に纏うことになった。フォスには悪しきところがなかったがゆえに、それを脱ぎ捨てることはなかった。彼ら(司る者たち)は、フォスを奴隷にしたことを誇りに思った。

– 四つの文字といいつつ三つしかないが、これはどうやら「ἀδάμ」のそれぞれの文字のことのようだ。αは東の空、δは西の空、もう一つのαが北を(?)、そしてμが南を表す、と。参照している仏訳注によれば、「アダム」の表記はヘブライ語では三つの語根になるので、この四つの照応はギリシア語にもとづいているものだろうという。また、この照応関係、言葉遊びは、『シビュラの託宣』(一世紀に成立)第三書などに明記されているものだともいう。
– 元素との照応では、最初のαが空気、δが土、次のαはおそらく水、そして最後のμが火に対応する。このあたりの照応関係はやはり言葉遊びなどをもとにしているというが、北と水がどう照応するのかといったあたりは不明なのだとか。
– 肉の表面の内部に気息的人間(魂ということか)がいるという発想も広範に流布している考え方。仏訳注ではプラトンの『国家』(589a)(ナグ・ハマディ写本に抄訳があるのだとか)のほか、新約聖書からもロマ書(7の22)やコリント書II(4の16)などが言及されている。
– 楽園にあったフォスを「説得する」その主語は不明。四つの文字=元素と取る可能性も指摘されていたりするものの(その場合は動詞が単数形になるのでは、という指摘もある)、仏訳注ではὀι ἄρχοντες(運命の神に仕える執行官のようなもの)と取る説を採用している。さしあたり、それにしたがっておく。

イタロスの質料論

聖ルカ修道院のフレスコ画。描かれているのはヨシュアだというが、服装は10から12世紀のビザンツの歩兵隊のもの(wikipediaより)
聖ルカ修道院のフレスコ画。描かれているのはヨシュアだというが、服装は10から12世紀のビザンツの歩兵隊のもの(wikipediaより)
ヨハネス・イタロスの質料論についての論考を読んでみる。ミケーレ・トリツィオ「一一世紀ビザンチウムにて再考された、悪しきものとしての質料をめぐる古代末期の論争−−ヨハネス・イタロスとその問題九二」(Michele Trizio, A Late Antique Debate on Matter-Evil Revisited in 11th-Century Byzantium, John Italos and His Quaestio 92, Fate, Providence and Moral Responsibility in Ancient, Medieval and Early Modern Thought. Studies in Honour of Carlos Steel, Leuven University Press, 2014)という論考。イタロスは一一世紀のビザンツの哲学者で、あのプセロスの後を継いで宮廷の哲学的助言者になった人物。基本的にはキリスト教徒なのだけれど、1082年には異端として糾弾されてしまう。質疑と応答の形式で記された著作が九三編あるというが、まだ本格的なモノグラフは出ていないという。同論考は、その質料観についてテキストに沿ってまとめたもの。イタロスは基本的スタンスとして、質料が生成も消滅もせず、創造主と永遠に共存するものだという古代ギリシアの考え方に批判的なのだという。また、質料を悪しきものとする考え方(イタロスにより誤ってアリストテレスの思想とされている)をも批判しているという。それがアリストテレスに帰されたのは(アリストテレスは「質料は女性的だ」としているのみだった)、どうやらシンプリキオスの注解のせいらしい。一方で、この後者はプロティノスの質料観であり、また前者はその批判者であったプロクロスの考え方でもあったわけで、イタロスはこの矛盾する両者を突き合わせて、古代の質料観がいずれにしても逆接的であることを指摘していくのだとか。なにやらとても「近代的」なアプローチでないの。で、イタロス自身の考え方はどうかというと、これまた逆接的で、質料をめぐる教説の矛盾から「質料などというものは存在しない」という結論を導いているのだという。そちらもなかなかラディカルだ。けれどもそのせいか、イタロスはむしろその欠如(=悪しきもの)としての質料というシンプリキオス的・プロティノス的な質料観に与しているとしているとして(?)、異端として糾弾されることになるらしい。これまたなんとも逆接的な話(イタロスの本来の意図は、古代の哲学的見解を排して、キリスト教の初期教父の教えを尊重しようとするものだった、と論文著者は述べている)。