久々にアフロディシアスのアレクサンドロスについての論を眺めているところ。まだ全体の3分の1にあたる、序論と第一章を見ただけなのだが、すでにして心地よく刺激に満ちている印象。グヴェルタズ・ギヨマーク『アフロディシアスのアレクサンドロスによる形而上学の一体性』(Gweltaz Guyomarc’h, L’unité de la métaphysique selon Alexandre d’Aphrodise (Textes Et Traditions), Paris, Vrin, 2015)というのがそれ。アヴェロエス以前のアリストテレス「注釈者」として名を馳せていたアレクサンドロス(3世紀)は、実は「形而上学」を独立した学知として認めさせる上で大きな役割を担っていたのではないか、という仮説が冒頭で提起されている。その仮説の検証を楽しむ一冊、というところ。
夏休み(といっても個人的に休暇中ではないのだけれど)のこの時期は、やはりどこか普段とは違ったものが読みたいもの。論文の類もそう。というわけで、実に久しぶりに、テキストの周縁部の話を見てみた。スタヴロス・ラザリス「ギリシア写本の頁組みにおける、幾何学モチーフの装飾の機能」(Stavros Lazaris, Fonctions des ornements à motifs géométriques dans la mise en page du texte des manuscrits grecs, KTÈMA Civilisations de l’Orient, de la Grèce et de Rome antiques, Université de Strasbourg, 2010)というもの。ビザンツ時代の写本に使われているという幾何学モチーフの装飾を、ヨーロッパ中世の全体的な書物史・写本文化史の視点から位置づけ直そうという一篇。写本への装飾の導入は、書物とそれを読む人間との関係の変化に結びついているといい、まずは古代の巻子本から冊子本への移行(2世紀ごろ)、さらに音読から黙読への移行などについてのまとめが続く。装飾の成立は、それらの変化の交わるところで、どこに何が書かれているのかを示すテキストの分割の必要に関連して生じている、ととされている。章の区切りを強調するために始まりや終わりのアルファベットに装飾を施すなどだ。まあ、このあたりはすでにどこかで言われていることだけれど、少し面白いのは、著者が幾何学模様について、象形の挿絵などとは異なり、書を読むことを妨げず、それでいて章の区切れなどを表すことができる、と指摘している点。うーん、そうも言い切れない事例もあるような気がするが(笑)、さしあたりそれは置いておくと、著者はさらにそうした幾何学模様の抽象性が中立性や普遍性を獲得している点(偶像禁止後のビザンツはその意味でとくにそれが発達した、ということか)や、そこに表されている細密画家の自由や、そうした画家の師弟関係(工房)にもとづく系譜の存在なども指摘している。
ヨハネス・イタロスの質料論についての論考を読んでみる。ミケーレ・トリツィオ「一一世紀ビザンチウムにて再考された、悪しきものとしての質料をめぐる古代末期の論争−−ヨハネス・イタロスとその問題九二」(Michele Trizio, A Late Antique Debate on Matter-Evil Revisited in 11th-Century Byzantium, John Italos and His Quaestio 92, Fate, Providence and Moral Responsibility in Ancient, Medieval and Early Modern Thought. Studies in Honour of Carlos Steel, Leuven University Press, 2014)という論考。イタロスは一一世紀のビザンツの哲学者で、あのプセロスの後を継いで宮廷の哲学的助言者になった人物。基本的にはキリスト教徒なのだけれど、1082年には異端として糾弾されてしまう。質疑と応答の形式で記された著作が九三編あるというが、まだ本格的なモノグラフは出ていないという。同論考は、その質料観についてテキストに沿ってまとめたもの。イタロスは基本的スタンスとして、質料が生成も消滅もせず、創造主と永遠に共存するものだという古代ギリシアの考え方に批判的なのだという。また、質料を悪しきものとする考え方(イタロスにより誤ってアリストテレスの思想とされている)をも批判しているという。それがアリストテレスに帰されたのは(アリストテレスは「質料は女性的だ」としているのみだった)、どうやらシンプリキオスの注解のせいらしい。一方で、この後者はプロティノスの質料観であり、また前者はその批判者であったプロクロスの考え方でもあったわけで、イタロスはこの矛盾する両者を突き合わせて、古代の質料観がいずれにしても逆接的であることを指摘していくのだとか。なにやらとても「近代的」なアプローチでないの。で、イタロス自身の考え方はどうかというと、これまた逆接的で、質料をめぐる教説の矛盾から「質料などというものは存在しない」という結論を導いているのだという。そちらもなかなかラディカルだ。けれどもそのせいか、イタロスはむしろその欠如(=悪しきもの)としての質料というシンプリキオス的・プロティノス的な質料観に与しているとしているとして(?)、異端として糾弾されることになるらしい。これまたなんとも逆接的な話(イタロスの本来の意図は、古代の哲学的見解を排して、キリスト教の初期教父の教えを尊重しようとするものだった、と論文著者は述べている)。