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天候の前兆とテオフラストス

何日か前だけれど、テオフラストスの『天候の前兆について』『風について』の合本希仏対訳本(Théophraste, Les Signes Du Temps. Les Vents (Collection des universités de France, Serie Grecque), trad., Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2019)から、最初の『天候の前兆について』を通読する。前兆現象というほどではなく、たとえば動物、とくに鳥などの、鳴き方や鳴くタイミング、あるいは飛び方などによって、雨風が近いとか、天候がよくなりそうだといった、いわゆる世俗的な知識・知恵をひたすらまとめたもの。原因や理由についての考察はないが、羅列されるそれぞれの内容はなかなか興味深い。

こうしてみると、改めてテオフラストスは「コレクター」なのだなということがわかる。一種の収集癖。この本の解説序文では、テオフラストスはボタニストであるとか、エコロジーの始祖であるとか、アリストテレスが理論に走るのにテオフラストスは経験を重視している、とかいった話が記されているけれど、テオフラストスの本質はずばり「コレクター」。これに尽きるように思われる。『人さまざま』(『性格論』とも訳される)もそうだった。そのあたりからすると、ボタニストやエコロジーの始祖といった評価は、どこか一面的すぎるように思われる。コレクターと捉えることで、むしろテオフラストスのコレクション志向について、そうした志向を導いているものは何なのか、何を基準としてどのように集めているのか云々、といった問題が浮上するが、むしろそれこそが、研究対象として面白いような気がする。

ティモン

メモ。久々に懐疑論についての書籍に目を通し始めたところ。ステファン・マルシャン『懐疑派』(Stéphane Marchand, Le Scepticisme: Vivre Sans Opinions (Bibliotheque Des Philosophies), Vrin, 2018)がそれ。古代ギリシア時代の「懐疑派」(後世の懐疑主義とは別ものとしての)4派を改めて検討するという内容で、おおもととされるピュロン主義、新アカデメイア派、新ピュロン主義(エネシデムス)、セクストス・エンペイリコスが取り上げられる。まだ序章と一章めしか目を通せていないので、気になる3つめの新ピュロン主義あたりは後にとっておく。とりあえず個人的に惹きつけられるのは、ピュロンの弟子ティモンについて。

「ピュロン自身はピュロン主義ではまったくなかった」とは従来から言われてきたことだが、ではどのようにして「ピュロン主義」が後付け的に練り上げられたのか、それはどういうものとして成立したのか、といった問題が興味深い。同書の著者によると、ピュロンをある意味神話化したのはティモンだったといい、ピュロンが述べていた感覚の可謬性や価値の非決定性をさらに推し進めて、対象世界それ自体が定義不可能、認識論的に同定不可能であるとまで主張するようになったのだという。ティモンにおいては、感覚的な不確かさは存在論的に捉え返されることにもなり、ひいては認識形而上学的な議論にまでいたった、と。ピュロンにおいては他家の理論を批判する態度だったものが、ティモンを通じて理論そのものになったという次第。ピュロン主義はこの場合、そういうものと定義されることになる。

このティモンについては、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』では、ピュロンに比べて記述は大幅に少なく、思想的な記述はほぼ皆無といってよい。セクストス・エンペイリコスあたりが重要になるようだ。またティモンはどちらかというと詩人・劇作家として活躍していたようで、現存する作品も『シロス』(嘲笑詩)などがあり、イタリア語訳の校注版が1989年に出ているようだ。

古代ギリシア残照

少し前に触れたモミリアーノの『蛮族の知恵』。同書の最後の章をメモっておくつもりが、まだやっていなかったので、改めて。これによると古代ギリシアの人々は、蛮族と称された他国の人々の文化・伝統に、言語の問題などで、事実上これといった関心を寄せたふうがないとのことだった。同章では東方のペルシア(現イラン)との接触について取り上げているが、ソクラテス以前の初期の哲学者たちが東方ペルシアの思想的(宗教的)影響を受けていたのでは、あるいはギリシアに哲学をもたらしたのは東方のマギたちだ、という話は昔(紀元前)からあったらしい。そのくせ、そうしたコンタクトがなんらかの政治状況によるものだったことが理解されたためしはなく、また他国への関心が向くというようなこともなかったようなのだ。

一方で、マギとかザラツストラ(ゾロアスター)などのイメージは、真偽に関係なく増殖していったという。前3世紀には、プラトンの創設のアカデメイア内部において、セム系のエル神やザラツストラ、さらにはカルデアの神託などに関する議論が巻き起こっていた(プロクロスによる記述)。ヘルメス・トリスメギストスと並んで、ザラツストラの名は、占星術や彼岸の生、自然の神秘などについての思弁を引き寄せる極となり、モミリアーノ言うところの幾多もの愚論を生み出すことになる。偽造・変造の数々は紀元後にまで延々と続いていく。

ヘロドトスが伝えるペルシア戦争(前5世紀)での勝利の後には、ギリシアの軍事的な優位性をめぐる考察(自国をほめそやす民族主義的なもの?)に絡んで、ギリシアにおける新たな民族誌の擁立が導かれたというが、ギリシア人がペルシアの行政機構を対象とした考察をめぐらすことは、前4世紀にいたってもほとんどなかったようだ。ペルシアについて記したクテシアスを敬意をもって引用するクセノフォンですら、ペルシアの社会についてはまったく関心を寄せていないという。同時代のプラトンやアリストテレスにしても同様だったと、モミリアーノは述べている。

メルマガで見ているフェスチュジエールは、アレクサンドロス大王のコスモポリタン的な思想が、教師役だったアリストテレスによるものではないとしているが、モミリアーノによれば、アリストテレスがアレクサンドロスに宛てた、真贋が定まっていない書簡(アラビア語訳)が残っているそうで、そこではギリシアの民族主義とともに、(それと相矛盾するかのような)普遍的国家の構想が謳われているという。モミリアーノはそれが帝政ローマ期に書かれた贋作との見方を強めている。重要なのは、帝政ローマでコスモポリタン的な思想が広がると同時に、その前モデルとしてのペルシアが再浮上したという構図だ。コスモポリタン思想の起源が、ギリシアそのものというよりペルシアあたりにあったかもしれない、という見立てだが、これは果たして正鵠を射ているのだろうか?

ギリシアは他文化に関心を寄せる度合いが少なかったが、逆に他の民族はヘレニズム文化にそれなりの関心を寄せている場合が多く、マケドニア系のセレウコス朝や、それに続く前3世紀のパルティア帝国(前3世紀の古代イラン王朝)などでそのことは顕著だったという。とくにこの後者は、ギリシアのものを模した貨幣を作ったり、ギリシア的な知的活動に力を注いだりしていたという。ギリシア人を積極的に国家の要職に登用していたとか。けれどもそうした在パルティアのギリシア人らは、パルティアの歴史や地理について記すことはなく、パルティアについての研究が出てくるのはローマ時代のストラボンやトログス(前1世紀)を待たなくてはならない。繰り返されるこの一方通行感……。それでいて、上でも触れたように、ギリシア文化が蛮族の知恵に全面的に依存していたという印象もまた、ギリシアの内外で様々な偽造を通じて膨らんでいく。そういうところに、なにやら文明の退潮が重ね合わせられるかのようだ。

ゼノン

昨年からメルマガで、フェスチュジエール『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』(A.-J.Festugière, “La Révélation d’Hermès Trismégiste (Édition revue et augmenté)”, Les Belles Lettres, 2014)から、第2巻『コスモスの神』(もとは1949年刊)のストア派関連の箇所を読んでいる。で、それに関連して、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』からゼノンの項目をLoeb版(Lives of Eminent Philosophers, Volume II: Books 6-10 (Loeb Classical Library) , tr. R. D. Hicks, Harvard Univ. Press, 1925)で通読してみた。ゼノンの項目は比較的長く、Loeb版の原文部分のみで75ページほど。本人の逸話の数々に続き、ストア派の教義体系(ゼノンだけでなく、クリュシッポスやポセイドニオスなどの弟子筋の著書への言及も多い)についてのまとめが長々と続く。もちろん、これだけを見ても全体像というにはほど遠いわけだけれども。フェスチュジエールのような、当時の史的状況・思想状況と絡めた分析・解釈こそがやはり重要だ(と改めて思わされる)。

たとえば、ストア派の教義に「自然に従え」というのがあるが、ラエルティオスの記述では、「個々人の自然本性は全体の自然の一部をなしている」のだから、「おのれの自然本性に従うことこそ自然に即すること」であり、「自然に従うとは、万物を貫く法をひたすら順守すること」といったことが(文面通りではないが)説かれている。で、フェスチュジエールはこれに細やかな肉付けをしていく。要は教義の全体を、当時の政治状況から求められた世界神に結びつけてみせるのだ(以下メルマガの繰り返しのようになるが、とりあえず簡単にまとめておく)。

都市国家がかつてのようには機能しなくなっていた当時のギリシアでは、アテナイなど各地の人々、とくにそのエリート層は、守護神とされてきた神々にそっぽを向いていた。そこに、万人を等しく統治する「世界神」の概念が芽生えてくる。ストア派もそうした世界神思想を抱き、颯爽と登場したのだろう。世界神は世界を、つまり自然の全体を統治する。一方で人間は、その神のロゴスを分け与えられていて、秩序を理解する知性をもっている。となれば、その世界秩序を観想し、秩序との合一を果たそうとすることが、人間の究極の目標となる。知性を高め、賢者となり、世界秩序と合一すること、それこそが、ストア派が当時唱えていた、時代の求めに応じた新しい教義だった……。自然に従えとは、そうした大局的な世界観を、人間の自然本性の側から狭くとらえた場合の言い方ということになりそうだ。エコロジーのような思想とは、出自もベースもずいぶん異なることがわかる。

ローマのギリシア人

個人的に続けている、「アルナルド・モミリアーノを仏訳で読む」プロジェクト、今度は『蛮族の知恵』(Arnaldo Momigliano, Sagesses barbares, trad. Marie-Claude Roussel, Gallimard, folio histoire, 1976)。原書は“Alien Wisdom: The Limits of Hellenization”(Cambridge University Press)。 ヘレニズム期を中心に、ギリシアが周辺地域(ローマ、ガリア、ユダヤ世界、イラン)とどう交流していたかを、史的な文献から読み解くというもの。まだ最初の3分の1くらいまでで、ローマとの関係についての箇所を読んだだけだが、これがまた興味深い。

というのも、それは凋落しつつあるギリシア世界と、台頭してきたローマとの多義的な関係性を明かすことになるからだ。力関係の変化・交代劇の様相は、直接そうした事例を扱っているわけではない歴史書の端々にも伺えるという。モミリアーノは第2章で、前2世紀の歴史家ポリュビオスと、それに続く世代のポセイドニオスをとくに取り上げている。彼らはギリシア語の著述家であり、ラテン語を用いることはなかった。彼らはローマの歴史について記すことはあっても、ガリアやほかの地域に対して行うような、一歩引いた民族誌的な立場でローマを眺めることはなかったようだ。ポリュビオスはローマがなにゆえにギリシアに勝るようになったのかをローマ人やギリシア人に対して説明しようとし、ポセイドニオスはローマの勝利を既得の事実として受け入れていたとされる。しかしそれは、(ローマの覇権という)現状をある意味肯定するための戦略のようにも見える、結果的に彼らによって、ギリシアの知識階級がローマの支配を受け入れ、統治において協力するようになる途が開かれた、とモミリアーノは指摘している。ローマの端的なわかりやすさは、そうした知識層に安寧をもたらすものだったのだろう、と。

一つ注目させるのは、ローマの言語政策かもしれない。ポリュビオスもポセイドニオスも、ラテン詩を読んでいた形跡はないというが、一方で当時のローマの統治者たちは、ギリシア語を話し、ギリシア語で考えることができていた。一方のギリシアの統治者たちはラテン語の意思疎通で通訳を必要としていた。そうした言語的な堪能さ・秀逸さだけを取ってみても、ローマの支配者らがいかに周到に統治のための手段を身に着けていたかは明らかだ。ギリシア語話者からすると、なんとも落ち着かない状況だったのだろう。2人の歴史家が、ローマのヘレニズム化のプロセスについて検討していないのは、そうした不愉快な状況の兆候だろうと、モミリアーノは述べている。