昨年からメルマガで、フェスチュジエール『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』(A.-J.Festugière, “La Révélation d’Hermès Trismégiste (Édition revue et augmenté)”, Les Belles Lettres, 2014)から、第2巻『コスモスの神』(もとは1949年刊)のストア派関連の箇所を読んでいる。で、それに関連して、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』からゼノンの項目をLoeb版(Lives of Eminent Philosophers, Volume II: Books 6-10 (Loeb Classical Library) , tr. R. D. Hicks, Harvard Univ. Press, 1925)で通読してみた。ゼノンの項目は比較的長く、Loeb版の原文部分のみで75ページほど。本人の逸話の数々に続き、ストア派の教義体系(ゼノンだけでなく、クリュシッポスやポセイドニオスなどの弟子筋の著書への言及も多い)についてのまとめが長々と続く。もちろん、これだけを見ても全体像というにはほど遠いわけだけれども。フェスチュジエールのような、当時の史的状況・思想状況と絡めた分析・解釈こそがやはり重要だ(と改めて思わされる)。
たとえば、ストア派の教義に「自然に従え」というのがあるが、ラエルティオスの記述では、「個々人の自然本性は全体の自然の一部をなしている」のだから、「おのれの自然本性に従うことこそ自然に即すること」であり、「自然に従うとは、万物を貫く法をひたすら順守すること」といったことが(文面通りではないが)説かれている。で、フェスチュジエールはこれに細やかな肉付けをしていく。要は教義の全体を、当時の政治状況から求められた世界神に結びつけてみせるのだ(以下メルマガの繰り返しのようになるが、とりあえず簡単にまとめておく)。
都市国家がかつてのようには機能しなくなっていた当時のギリシアでは、アテナイなど各地の人々、とくにそのエリート層は、守護神とされてきた神々にそっぽを向いていた。そこに、万人を等しく統治する「世界神」の概念が芽生えてくる。ストア派もそうした世界神思想を抱き、颯爽と登場したのだろう。世界神は世界を、つまり自然の全体を統治する。一方で人間は、その神のロゴスを分け与えられていて、秩序を理解する知性をもっている。となれば、その世界秩序を観想し、秩序との合一を果たそうとすることが、人間の究極の目標となる。知性を高め、賢者となり、世界秩序と合一すること、それこそが、ストア派が当時唱えていた、時代の求めに応じた新しい教義だった……。自然に従えとは、そうした大局的な世界観を、人間の自然本性の側から狭くとらえた場合の言い方ということになりそうだ。エコロジーのような思想とは、出自もベースもずいぶん異なることがわかる。
一昨年刊行されていたジルベール・シモンドン『個体化の哲学--形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳、近藤和敬ほか訳、法政大学出版局、2018)。シモンドンのこの書(もとは1958年の博士論文)、内容的には大きく前半と後半に分かれ、前半では技術的事象の個体化、後半は有機的事象の個体化を扱っている。かなり以前に、前半と後半の一部(生命論のあたり)を原書のほうで読んだことがあったが、諸般の事情で後半の残り部分は放ってしまっていた。そんなわけで、ようやくその心理的事象を扱った部分(事実上の第3部か)を、この邦訳で見てみることにした。この書そのものは、個体が発生してくる力動的な位相に着目し、そのプロセスを一元論的に捉え、それを足場として従来の哲学的な諸概念の書き換えを目するという、実に壮大な可能性を感じさせる一篇だ。それだけに全体を通じて晦渋であり、すんなりといかない。邦訳でも同じことだが、そこを少し我慢して読み進めると、刺激的な世界が広がっているのがわかる。というか、その重要性が色あせていないことを改めて思う。
ここでの個体化とは、生成、発生、展開などを含む抽象概念で、不安定な環境から個体が、その不安定さを解消するために「せり上がってくる」(自己構成する)こと、個体のいわば一般的な前景化を言う。個体が発生することによって、個体を取り巻く環境とその個体そのものには、個体発生前の状態(前個体)と、個体発生後の不安定・不完全な状態(超個体)が生まれ、そのような分化によって「意味作用」が生じる。構成された個体(人間の場合)には、結果として個体内部から環境を眺める位相、すなわち「主体」ももたらされる。個体化に次いで今度は個体の内部で「個性化」が永続的に繰り返される。個体化と個性化の永続性の一貫性を担うものとして「人格」も成立する(第二部二章「心理的個体化」より)。
シモンドンが提唱するこの抽象的な図式をもとに様々な問題を捉え返すと、従来の考え方では不十分だという点が多々出てくることにもなる。個体化論は発生的な面を捉える真の一元論に位置づけられることから、翻って、たとえば心身二元論への抜本的な批判がありうる(ベルクソン哲学への批判)。唯物論的な一元論、唯心論的な一元論すら、実際には非対称的な二元論にすぎないとして一蹴される。また、個体発生は認識論やそれにともなう存在論に先立つとされ、むしろ個体の存在についての考察こそが、認識論に先立つものでなくてはならないということにもなる(デカルト哲学への批判)。集団論(社会論)もしかり。集団は諸個人が信念や神話を共有することによって成立するのではないとされる。信念は「グループの分離や変質の現象」(p.494)でしかなく、実在しておらず、同様に、集団を支えるとされる神話や臆見も、実は「グループの個体化の操作が力動的かつ構造的に延長したもの」(同)にすぎない。そもそもグループ自体が二次的な個体化にすぎず、個別の諸個体を重ねたものでしかなく、その意味でグループに属さない孤立した個体も、必ずしも不完全なものとは見なされない(否定されない)。「人間は社会的動物」というテーゼに、これはある意味真っ向から対立する(アリストテレス哲学への批判)。
同じように、自然が人間に対立するという考え方も否定される。自然はむしろ存在の最初の位相であるとされ、個体と環境の対立は二次的な位相だという(p.504)。自然は全体に対する個体の相補物、個体が不完全さを克服するために必要とする残余、個体を超え出るものだ。時間論も個体化の理論に立脚すると別様の図式になる。現在こそが過去との未来のあいだの転導をなし、過去と未来に対する意味作用をなす、と。言語についてもしかり。言語が人間に意味作用の獲得を可能にすると述べては不十分だ、と断じられる。言語を支えるための意味作用が先行して初めて、言語がありえるのだ、と。言語は情報を運ぶものにすぎず、意味作用は個体化がもたらすそのものである、と。情動もしかり。情動は個体化された存在の構造のうちにはなく、「集団的なものの個体化において意味作用として発見されるポテンシャル」(p.520)なのだ、と。
……このように、シモンドンは実に広範な議論の書き換えを提唱する。個別の議論はほとんどメモ書きのようでもあり、読む側がそれぞれ深めていくしかないように思われるが、いずれにしても新しい刺激的な(当時も今も)哲学的視座がここにはヒントとして示されているといってよい。それはまさにプロセス実在論と呼んでよいものだろう。
待ってました!碩学ピエール・アドの代表作『イシスのヴェール――自然概念の歴史をめぐるエッセー』(小黒和子訳、法政大学出版局、2020)。なんとアドの邦訳は今回が初なのだという。まず、「自然は隠れることを好む」と訳されてきたヘラクレイトスの箴言をめぐる意味・解釈の変遷を追った序文、そしてその解釈の迷走する森へと入っていく第1部、第2部、第3部に、すでにしてすっかり射抜かれてしまう(笑)。その箴言における自然とは何か、隠れるとはどういうことか、好むとは?これらをめぐるだけでも、すでにして様々な意味が含まれうる。
自然は「個々のものの構成」「根源」「ものを出現させる原因」「形象」などの意味を担いうるし、隠れることを好むの部分も、「隠す傾向がある」「隠れる傾向がある」「消滅させようとする」などなどの意味合いをもちうる。でもって、これがまたスリリングなところだけれど、そうした多様な解釈は歴史的な考察へと送り返される。こうして「フュシス」をめぐる、プラトン以前からアリストテレス、ストア派を経てフィロンや新プラトン主義、sらにはキリスト教世界、中世、ルネサンス、近世・近現代へと向かう壮大な旅が始まる……。
第4部以降、話は自然の「秘密」を探求する力として、ピエール・アドは実験・働きかけを重視するプロメテウス的方法と、推論・隠喩・詩的なアプローチを用いるオルフェウス的方法とを対置し、それぞれ古代から近代にいたるまでの変遷を、様々なエピソードを自在に操りながら追っていく。そしてそれら2つの方法は歴史の節々にて交差・邂逅する。25の世紀を縦断するかくも壮大な道行き。
何年かぶりに、ホワイトヘッド『過程と実在・上巻』(平林康之訳、みすず書房、1981)を読み直してみた。おのずと知れた、「有機体の哲学」を論じた著書の前半だ。この有機体の哲学、何度読んでも難解なのだけれど、一つには著者が用いているやや特殊な言葉づかいが理解を阻んでいるという側面もある。なので、読み進める上でのポイントは次のようになる。まずは要所要所で示される、そうした用語の説明を拾っていく。これだけでもそれなりの理解には到達できるはず……。たとえばこの有機体の哲学という言い方は、おそらく機械論的な哲学の対極にあるということを示しているのだろう、などなど。
おそらく肝要な点は、これが中世哲学以来の質料形相論の伝統に、ある意味とどめを刺した(?)というところかもしれない、と昔読んだときには思ったものだ。形相が結びつく質料には、伝統的に外的な実世界のものと、人間の内的世界のもの(感覚器官における像、つまりスペキエス)とが分けられてきたわけだけれども、この有機体の哲学は、各々のそうした結びつきが実は地続きであること、人間が心に抱く事物の理解というものが、実はすでにしてその事物の(従来的には外的とされた)実世界での成立をたどりなおしているにすぎないこと、あるいはその事物の成立そのものでさえあることを言い募っているように見える。したがってそこに内的・外的の二元論は必要とされず、世界はどこまでいっても全体的・包括的な世界でしかなく、そこには生成というか流転というか、いわば事物が事物として成立し、また変化していく過程しかない、ということになる、と。ある意味それは、モナド的世界観でもある。認識論と存在論が分化しない境地というか。
けれども、そういうふうな理解として読んだ場合、それにしてもその過程が実に静的な印象を与えるのはどういうわけなのだろうか、と思ってしまう。その印象を確認したい、さらにはそうした印象がなぜぬぐえないかを考えたいというのが、今回再読してみた理由の一つなのだけれど、どうもその印象のもとというのは、この哲学が立脚している先人たちの思想にあるように思えてきた。デカルトやカント以上にロックやヒュームが何度も引き合いに出されていたことはなんとなく覚えていたが、とりわけ重要なのはやはりロックだと言えそうだ。ホワイトヘッドが用いる「包握」とか「感受」などの主要コンセプトは、どうやらロックの概念の分析からもたらされていて、その概念や扱い方もロックを踏襲するかのようで、どこか図式的、静的なのではないか、と。
もちろんこの主客二元論を超越したような視座、持続的な過程といった考え方は、とくにベルクソンの哲学、さらにはその先のシモンドンの哲学にも通じるものでもあり、実に興味深いものであることもあらためて確認した。「主観から現象的客観への過程」というカント的な概念分析が、ここでは逆転され、「客体性から主体性への進行」として分析される(p.230)。そのあたりの意味合い、重要性を噛みしめたい。
今年は晩夏のころに、拙訳でエマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学』(勁草書房、2019)を刊行できたが、これはなかなか感慨深い体験でもあった。この本のキーワードはなんといっても「浸り」(immersion)。20年ほど前に、フィリップ・ケオー『ヴァーチャルという思想』(NTT出版)を訳出したが、そのときのキーワードが「没入」(plongée)で、個人的にはなんだか20年をかけて没入から浸りへと周回したような感じだ。その間、個人的に周辺環境と主体とのインタラクションというテーマは、通底音(ドローン)のように響いていた気もするが、あまり前面に上ってはこなかったようにも思う。ここから先は、もう少し私的にそうしたテーマを前景化させていけないかな、とも考えているところ。環境と主体双方の位置づけや、その脆弱性(あるいは強靭さ?)の問題などがとても気になるこの頃だ。この後者は、上のコッチャ本が触れていない問題でもある。……こういう感慨にふけるのも、そろそろ年末だからというのが大きいのかもしれないが(笑)。
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それに関連するが、積読本から河野哲也『境界の現象学』(筑摩書房、2014)を眺めてみた。基本的に哲学エッセイ本だが、指針やヒントが得られることも多く、けっして侮れない。とくに後半。たとえば第6章「都市とウィルダネス」では、都市の中心部というものが、「岩だらけの山頂、砂漠のなかに」通じている、という日野啓三のエッセイの一節をもとに、ウィルダネス(荒地)の思考を考察している。住処形態をヘスティア的なもの(定住的・境界的)とヘルメス的なもの(無定形的・移動的)とに区分し、両者の対立を軸に論は展開していく。前者が私的空間から公的空間にまで、ジェンダー的な差異をも絡み取りながら延長されていく様を批判的に描き(7章)、実は前者の成立しうるのは後者あってこそなのではないか、という構図が示される。
その意味では、身体・家・国家という境界をベースにした比喩も、自動的に同心円的に広がっていくようなものではまったくないのではないか、とされる。国家などはときに身体に比されることもあった(『リヴァイアサン』など)けれど、どこにも類似点などはない、と。そしてまた、都市とウィルダネスとをつなぐものは、境界がないという類似点にあるのではないか、と。そして最後の章では、そもそも囲い込みの必要性はあるのか、と問いかける。地球規模で見た場合、生き延びるための条件というのは、囲い込みに限定されない力動的な適応力にあるのではないか、というのだ。そうした適応力を、同著者は「レジリエンス(弾性)」というキーワードに落とし込んでみせる。
かつてのようなノマドを理想化するような思考にはまらず、境界と、その囲みを成立させるものとの動的な構造を可視化することが、新たな視座になりうるかもしれない。そこが、同書がとりわけ響いてくるところだ。
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