silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.278 2015/01/26 ============================== *お詫び 今号は当初1月24日の発行の予定でしたが、当方の都合により二日遅れて の発行となりました。遅延が発生しましたこと、改めてお詫びいたしま す。こうした遅れなどは時として、今後また発生することがないとも限り ませんので、不達の場合はとりあえず、遅延などの告知がないかどうか webサイト(http://www.medieviste.org/)をご確認ください。よろし くお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その13) パルマのブラシウスによる、ブラッドワーディンへの注解書を見ていま す。前回はブラシウスが加速の考え方でもって、ブラッドワーディン、ひ いてはアリストテレス的な考え方全般に批判的な立場を取っていることを 見ました。速度を加速度と取る限りにおいて、その速度は駆動力と抵抗力 の比の表記に比例する、というのがそのテーゼなのでした。 問一〇の最後の部分は難点として、いくつかの議論を取り上げています。 そこでとくに比重を占めているのが、回転運動の場合です。たとえば直径 が2 : 1の関係にある二つの同心円が回転するとき、その速度は等しいと 言えるかという問題ですね。現代のように、角速度を回転速度と考えるな ら、両者の速度は等しいことになりますが、ブラシウスは(多くの同時代 人たちと同様に)どうやらそうは考えていません。彼は続く問一一の問題 を先取りする形で、「速度は直線上の移動距離で考える」との考え方を採 用し、弧の部分で考えているようなのです。すると当然大きい円のほうが 移動速度は大きくなり、したがって両者の速度は同一ではないことになり ます。このあたりの話は続く問一一で詳述されていきます。 問一一はほかより長い章になっているので、これまた少し端折って見てい かざるをえません。ちなみに表題は「動体における速度は、所与の時間、 もしくは与えられうる時間における最大の成果で測れるか」というもので す。ここでの最初のテーマは抵抗力についての議論です。すでに出てきた ように、基本的にブラシウスは、運動の速度を考える上で「抵抗力」その ものの関与を否定する方向に向かうようです。 第一節からすでに、たとえば同量の土と水とを真空の状態で(月の周回軌 道から地表の中心に向けて)落下させれば、土のほうが水よりも速く動く と述べています。これは思考実験的ですが、ここで問題なのは抵抗力では なく、土と水の重さの違い、すなわち動体のもつ駆動力(潜在力)の差だ というのですね。このように、駆動力の側を重視するというのがブラシウ スの考え方のように思われます。とはいえ、全体的な議論の枠組みはブラ ッドワーディンの議論を用いています。そのため、抵抗力の問題も扱わざ るをえません。ブラシウスは問一〇で示した自説を繰り返しつつ、基本的 な事項として、運動が生じるためには抵抗力が駆動力以上になってはなら ないことや、抵抗力があることで駆動力には一定の制限が加わることなど を示していきます(ただし、抵抗力の現前が運動の持続の条件であること はこれを否定します)。 それに続いて、派生的な帰結ということで比と速度にまつわる実に様々な テーゼが一七ほど示されているのですが(たとえば磁石と鉄の話などがあ ります)、煩雑なのでここでは深入りしないでおきます。この後、もう一 つのテーマとなる、「結果」の観点から見た速度ということで話が進んで いきます。これはつまり、速度変化の様態と、その原因を考えるというこ とです。ブラシウスはこれを、移動、質的変化、増加という三つの動きに 即して考察していきます。 移動から見ていきましょう。ブラシウスはまず、運動を考えるときの前提 として、動体が凝縮したり希薄化したりせず、全体として一様であるもの として考察すべきだということを挙げています。さらに、移動は全体とし てなされる(部分のみでなく)のでなくてはならないとしています。校注 者の解説序文によれば、このあたりはブラッドワーディンばかりでなく、 ザクセンのアルベルト(ほぼ同時代の数学者、神学者ですね)の議論をも 踏襲しているようだといいます。 そこから今度は、速度をどう計るかという問題になります。まず直線運動 の場合ですが、速度は所定時間内での空間移動で計ると規定されます。こ こで興味深いのは、空間移動として本物の空間と想像上の空間があるとし ていることです。「想像上の」という区別を立てているのは、どうやら思 考実験としての真空での移動を考えるためなのですね。ではその空間移動 とは具体的にどのようなことを言うのでしょうか。ブラシウスは、それは 体積(動体が物体として移動した空間の総量?)でもなければ面積(動体 が移動した表面積?)でもないとします。体積や面積を問題にすると、移 動する全体(の体積や面積)が部分(の体積や面積)よりも大きくなり、 すなわちより速い速度になってしまうという不具合が生じるからです。ゆ えに空間移動とは、移動分の直線で計るのでなければならない、というわ けです。 では、その測る点(動体の)はどこに取るのがよいのでしょうか。まず動 体の端から端までの全体という考え方は否定されます。大きさの違う動体 の場合、仮に速度が同じでも、大きいほうが到着点に先についてしまうの で、そちらが速度が速いことになってしまうからです。そこでブラシウス が提示するのが(先に示したように)、動体において「一番速く移動する 点」で計るのはどうかというものです。これについては異論が紹介され、 そこから出てきた別の説として、動体の中心点(中間点)で計るという考 え方も紹介されます。上のザクセンのアルベルトはまさにそういう立場の ようです。ですがブラシウスはこれを斥けていきます。その議論ではまた しても回転運動などが問題になるようなのですが、そのあたりの詳しい話 は次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その11) 前回から、『スンマ』の第一部問二の照明説を導入する部分を読んでいま す。さっそく続きの部分を見ていきましょう。 # # # Et quomodo sit ista expressio, declarat per simile, cum dicit XIV De Trinitate: "Ubi sunt illae regulae scriptae quibus quid sit iustum, quid iniustum agnoscitur, nisi in libro lucis illius quae veritas dicitur, unde lex omnis iusta describitur et in cor hominis non migrando, sed tanquam imprimendo transfertur, sicut imago ex anulo et in ceram trasit et anulum non relinquit ?" Et haec est lucis illius informatio qua, in quantum lucet, homo verax fit in intellectu; et in quantum vero contingit, iustus fit in affectu. Secundum quod de primo dicit Augustinus Super Ioannem, sermone 39: "Factus est oculus tuus particeps huius lucis. Clausus est ? Hanc lucem non minuisti. Apertus est ? Hanc lucem non auxisti, sed est verax anima, est veritas apud Deum, cuius est particeps anima. Cuius particeps si non fuerit anima, omnis homo mendax est". De secundo vero dicit in Sermone quodam de expositione Sacrae Scripturae: "In Deo" inquit, "omne quod dicitur id ipsum est; neque enim in Deo aliud est potestas, aliud prudentia, aliud fortitudo, aliud iustitia, aliud castitas, quia haec animarum sunt, quas illa lux perfundit quodammodo et suis qualitatibus afficit, quomodo cum oritur ista lux visibilis, si auferatur, unus est corporibus omnibus color, qui potius dicendus est nullus color; cum autem illata illustraverit corpora, quamvis ipsa unius modi sit, pro diversis tamen corporum qualitatibus diverso ea nitore aspergit; ergo animarum sunt illae affectiones quae bene sunt affectae ab illa luce quae non afficitur et formatae ab illa quae non formatur". その明示がいかようになされるのかを、アウグスティヌスは『三位一体に ついて』一四巻で次のように述べ、例でもって示している。「その規則は どこに記されているというのか。不正なる魂ですらも正義が何であるかを 認識するその拠り所は、真理と言われるその光の書以外にはないのではな いか。そこにこそすべての正義の法が記され、そこから、人の心の中にも 写し取られるのだ。印章から蝋へと像が移っても、印章からその像が無く なるのではないように、人の心の中にもただ移されるのではなく、刻まれ るのである」。これは光による形の付与であり、それが輝く限りにおい て、そこから人間は知性において真理を得る。またそれに触れる限りにお いて、人間は情感において正義を抱く。『ヨハネ書について』の教説三九 において、アウグスティヌスはまず前者についてこう述べている。「あな たの目はその光に関与するようにできている。目が閉じられていれば?あ なたはその光を弱めるわけではない。目が開いていれば?その光を強める わけではない。それは真理を伝える魂なのであり、神のもとにある真理で ある。そこに人の魂が与るのだ。魂がそこに与らないとしたら、すべての 人間は不実なものとなる」。後者については、聖書注解のとある説教にお いてこう述べている。「神について言われるすべてのことは、いずれも神 と同一である。というのも神においては、潜在態、慎重さ、勇敢さ、正 義、高潔などの区別はないからだ。なぜならそれらの区別はおのおのの魂 に属するものだからだ。神の光はなんらかの形でそこに注がれ、それぞれ の質に応じて働きかけるのである。ちょうどそれは、可視光線が発せられ る際、それが遠ざけられると、あらゆる物体の色は一つに、つまり色の不 在と言うべき状態になり、逆にその光が物体を照らすとき、その光自体は 一様でしかないのに、物体の様々な性質に応じて多様な輝きを添えること になるのと同様である。このように、魂にはそうした情感が属するが、そ れらは、みずからは与えられたのではないその光によって与えられ、みず からは形成されたのではないその光によって形成されるのである」。 Perfecta igitur, ut dictum est, informatio veritatis non habetur nisi ex similitudine veritatis menti impressae de re cognoscibili ab ipsa prima et exemplari veritate. Omnis enim alia impressa, a quocumque exemplari abstracto a re ipsa, imperfecta obscura et nebulosa est, ut per ipsam certum iudicium de veritate rei haberi non possit. Propter quod Augustinus comparat primam et iudicium per eam sereno aeri super nubem, secundam vero et iudicium per eam aeri nebuloso vel obscuro sub nube, cum dicit IX De Trinitate cap. 6 : "Claret desuper iudicium veritatis ac sui iuris incorruptissimus regulis firmum est, etsi corporalium imaginum quasi quodam nubilo subtexitur. Sed interest utrum ego sub illa vel in illa caligine tamquam a caelo perspicuo secludar an sicut in altissimis montium accidere solet, et inter utrumque aere libero fruens et serenissimam lucem supra et densissimus nebulas substus aspiciam". したがって、上に述べたように、真理の完全なる形成は、第一の範型的な 真理そのものによって、認識対象の事物について精神に刻印される真理の 像から以外にはなされない。というのも他のすべての刻印、つまり事物そ のものから抽象された像によるものは、いずれも不完全であり、不明瞭で あり、曇っているからだ。そのため、それらによって事物の真理について の確かな判断を得ることはできないのである。ゆえにアウグスティヌス は、前者の像とそれによる判断を、雲の上の澄んだ空気に喩え、後者とそ れによる判断を、雲の下の濁って不明瞭な空気に喩えたのだ。『三位一体 について』九巻第六章で彼は次のように述べている。「その真理の判断は 上方で輝くのであり、また、滅することのないその規則によって、その判 断は確固たるものとなる。たとえ雲のごとき物質的な像に覆われていよう ともだ。だがここで二つの可能性がある。私はしかじかの闇のもとに、あ るいはその中にいて、澄み渡った天から隔絶してしまうのか、あるいはま た、山の頂きにおいて生じるように、二つの空気の狭間にいて、澄んだ空 気を味わいながら、上方の澄み切った光と、下方のこの上なく密なる雲と を眺めるのか」。 # # # 前回から今回にかけての部分が、照明説が本格的に導入される箇所なので すが、その名のごとく、全体が光りのメタファーで溢れています。一方で その補佐のためにというか、印章であるとか、書物であるとか、目である とか、色、さらには上空の澄んだ空気と下方の淀んだ空気といった喩えま で登場しています。そのため逆に実際に言わんとするところがやや曖昧に なっているようにな印象もなきにしもあらずでしょうか。 ヘンリクスの言わんとするところをより正確に押さえるために、ここで再 び参考文献として、すっかりおなじみになった加藤雅人『ガンのヘンリク スの哲学』から、第三章「照明説の思想発展」を見ておきましょう。ヘン リクスに先立つ照明説を紹介し、それとの比較によってヘンリクスについ ての理解を深めようという一章です。 ヘンリクスよりも前に照明説を採用した論者のうち、とくに取り上げられ ているのはトゥルネのギルベルトゥス(1284没)です。この人物はフラ ンシスコ会士で、第六次の十字軍を説き、おそらくは聖王ルイのお供とし て第七次の十字軍に同行したかもしれない、とされています。で、その照 明説ですが、ヘンリクスのものとはだいぶ違うようで、認識主体はまず神 のほうを向き、すると永遠の光が認識主体に「流入」し、ある種の「類 似」が知性の中に生じ、本来の光よりは劣ったその類似を通じて知性は認 識対象を認識する、ということのようです。神と人間の認識レベルの高低 差を維持するために、直接的な照射ではない「流入」概念が導入され、ま た神を最初の認識対象の位置に置いていることから、神の位置づけが照明 者と認識対象との曖昧になってしまっている、と同書は指摘しています。 対するヘンリクスはというと、そうした曖昧さをなるべく排するよう務め ていくようです。これは『スンマ』の問三に入る内容になってしまいます が、先取り的に見ておくと、ヘンリクスは視覚とのアナロジーを援用し て、認識主体、認識対象、そして認識媒体の三要素を明確に分けていま す。神の照明は視覚における太陽の照明(認識媒体)と同じような位置づ けとなるわけですね。また、同じく視覚とのアナロジーによって、その照 明の機能的側面が三つ取り出されます。つまり、(1)視覚ならば感覚器 官への照射に相当する「霊的光」、(2)「色の直観に相当する「形象 (ないし形相)」、(3)色の識別に相当する「似姿ないし印影」です。 ヘンリクスの場合、(1)の霊的光としての神の光は「まず対象を照らし そこから「屈折的に」(……)すなわち一種の反射光として人間の知性に 「降り注がれる」」(p.94)というのです。ギルベルトゥスのような、 最初に認識者が対象としての神を仰ぎ見るというプロセスはありません。 照らされるのもあくまで対象です。(2)の形象としての神の光とは、上 の本文でも触れているような二重の形象(認識対象でもある事物から獲得 されるものと、外から知性に差し込むとされる事物の原因)のうち後者の ものをいい、「<もの>の原因である神の範型そのもの」(p.97)(人 間にあらかじめ内在していない)であるとされます。モデルが代わってリ メイクされるようなことなのでしょうか。 そして(3)「似姿」としての神の光は(上の本文にある印章の比喩と重 なりますが)、認識対象の<もの>の類似であるとされますが、人間の知 性に内在する類似とは別ものです。内在する類似は不完全であるがゆえ に、それを「調整し完成する」というものが必要になるわけです。という ことは、神から派生した何かがまったく「新たに」与えられる、というこ とではないので、上のギルベルトゥスの類似概念とは異なる、と同書は解 釈しています。これはなんだか、映像がよりクリアなHD品質になるみた いな話みたいです……(笑)。 続いて加藤氏の議論は『スンマ』よりも後の、いわゆる後期のヘンリクス による説明に入っていきます。これも興味深いところなので、次回に見て いくことにしたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------