silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.279 2015/02/07 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その14) 前回の箇所では、パルマのブラシウスが、運動の計測は動体の直線移動距 離で行うこと、また動体の最も速く動くところでもって計ることを、基本 テーゼとして打ち出していることを見ました。今回はその続きです。ブラ シウスのこのテーゼに対して、たとえばザクセンのアルベルトなどが打ち 出すのは、動体の中間点を計るという考え方でした。これは、状態変化の 場合(体全体が暖まる前に指先だけが温まるような場合)や、動体自体が 可変であるような場合(壁にそって移動する円柱があるとして、その円柱 の中間点がもう一方の端に近づいていくような場合……ちょっと想像する のが難しいですが(苦笑)、要するに転がりながら伸びていく円柱という 感じでしょうか?)の考察にもとづいて示されたものとされますが、ブラ シウスはそれらを一蹴します。状態変化は位置的な移動とは異なる種類の 運動であるということ、また可変な動体ではそこに二つの運動(移動の運 動と伸縮の運動)が区別されなくてはならないことを、ブラシウスは指摘 しています。 ほかにもブラシウスは各種の難点を取り上げ、想定問答的に反論を加えて いきます。ここでブラシウスは、その次の節で改めて取り上げる、円運動 (円が直線上を転がっていくような運動)の場合を先取り的に検討してい ます。これもまた直線運動に還元できることを指摘し、たとえば弧の大き さが異なる二つの円が同じ時間で直線上を同じ点から同じ点まで転がって いくような場合、見かけは回転運動でも直線運動に還元することができ、 その場合には等速とされうることが示唆されています(ほかに落下運動に ついてもいくつかの場合が検証されたり、より抽象的な比の問題なども取 り上げられたりしていますが、長くなってしまうのでそれらについては割 愛します)。 続く箇所でこの円運動は改めて詳述されます。円が直線上を転がるような 運動では、基本的原理は直線上の運動と同じで、速度の計測は所定時間内 に点が移動した距離で計られます。ここで言う距離もまた、体積でも面積 でもなく、あくまで直線上での距離です。そして動体上のどの点で測るの かについても、直線運動の場合と同様に、最速で動く点で測るとしていま す。つまりは外周(弧)上の点ですね。もっと遅い点なら中心から弧の間 に無数にあるとされ、静止に近い速度はいくらでも選択できてしまうから です。 基本的にこの考え方はブラッドワーディンが提唱していたものと同じです が、ブラシウスはもう一つ、円運動(circularis)とは別の可能性として 回転運動(circuitio)を考察してみせます。これはつまり、中心を同じく する大小二つの円が同じ歩調で回転する場合についての議論です。上の考 え方では所定の時間での移動距離が大きいほうが速いとされるので、大き な円のほうが速度も大きいことになります。ですが両者は歩調を合わせて 回転しているのですから、そう言い切ってしまうことには違和感が生じま す。そのためブラシウスは、あえて別の捉え方を提唱します。それが、 「中心からの角度の量で速度を測る」というものです。いわゆる角速度に 相当するものですね。弧の移動距離を中心点を起点とする角度で表し、そ れが同一なら回転運動の速度も同じだということにしよう、というわけで す。(前回のところで先走って、ブラシウスが角速度を否定しているかの ように記してしまいましたが、そうではありませんでした。お詫びして訂 正いたします)。 この円運動と回転運動との違いも興味深い点ですね。速度を決めるものが 何か、何と何の比をベースに考えるかが抜本的に異なるというわけです。 後者の場合にはあくまで二つの運動の回転角での比が問題となり、前者の 場合のような動力と抵抗力の比(の表記)にはもとづいていません(円運 動には直線上の運動と同様に、動力と抵抗力の比が適用されるわけで す)。もとの円に対して10倍とか100倍とかの大きさの円であったとし ても、角度が同一でありさえすれば、もとの円と等速ということが言えま す。ブラシウスはそのあたりの運動の違いを、柔軟に捉えようとしている のでしょう。 さて、長々と記してきましたが、実はまだ、以上はすべて問題一一の第一 節の内容にすぎません。この長い第一節の後に第二節が続きます。そこで 問題になっているのは状態変化の場合についてです。状態変化における速 度はどう測ったらよいのでしょうか。状態変化は本来、物体の延長(大き さ)というよりは物体の性質の強弱に関わります。ではその強弱はどのよ うに決まるのでしょうか。ブラシウスは、変化をもたらす外部要因の強度 (の絶対値)に従うのでもなければ、所定時間内に物体が獲得したものの 強度(の絶対値)によるのでもなく、また獲得された新たな性質が従来の 性質に占める比や、そうした新たな性質の結合分の比によるのでもないと します。で、結論として、所定の時間に獲得される性質の「幅」 (latitudo)に依存するという見解を打ち出します。 「幅」とは何かといえば、どうやらそれは動体に固有の属性で、獲得され る新たな性質を受け入れる上での許容範囲、あるいは変化率を言うようで す。ブラシウスによれば、それは「ゼロ強度から最大強度の間」にあるも のとして扱わなくてはなりません。たとえばある物体が外部の熱源によっ て暖められるとします。物体aの温度上昇の幅が20度から60度であれ ば、所定の時間で40度上がることができます。別の物体bの幅が30度か ら50度であれば、それは同じ所定の時間で20度しか上がらないことにな ります。これが速度の差に直接的に結びつくわけですね。 底本の解説序文によれば、この状態変化(とそれに続く節の増加)の問題 はブラッドワーディンには見られず、ブラシウス独自のものとされていま す。とはいえ、そのベースとなった、先行する議論もないわけではありま せん。幅の概念は、もとは「形相の幅」という、偶有的なものを許容する 範囲の考え方から派生してきたものとされます。やがてそれは、性質を度 合いで表す「漸進的形相」という形になり(ニコラ・オレームによって定 式化されたようです)、これがイタリアの学問的伝統において採用される ととともに、議論の的にもなっていったようです。ブラシウスはそうした 流れの中で、この考え方を援用しているようなのです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その12) ヘンリクスの『スンマ』から、照明説についての説明部分を読んでいま す。さっそく続きを見ていきましょう。 # # # Et est sciendum quod dictus modus cognoscendi veritatem communis est et ad notitiam principiorum, ut supra in argumento tertio huius quaestionis, et ad notitiam conclusionum, ut patet in omnibus iam inductis. Et ita per hunc modum acquirendi notitiam veritatis verarum artium habitus in nobis generantur, qui in memoria reconduntur, ut ex eis iterato conceptus similes formemus, et quoad habitus, tam principiorum quam conclusionum, ut secundum hoc intelligamus illud Augustini IX De Trinitate: "In illa aeterna veritate visa mentis conscipimus, atque inde conceptam veracem notitiam rerum tanquam verbum apud nos habemus", quod in habitu memoriae concipitur, ut ad illam intelligentia revertens iterato verbum formet, et hoc per certam scientiam habeat etiam de rebus transmutabilibus, secundum quod dicit Augustinus XII De Trinitate cap. 14: "Non solum rerum sensibilium in loco positarum", et cetera, ut supra in quaestione praecedenti in solutione quarti argumenti, ubi de hoc. 次のことも知らなくてはならない。ここで言われている真理の認識の様態 は、目下の問いの上記三つめの議論で示したように、原理の理解と、また これまでで示したことから明らかなように、帰結の理解とのいずれにも共 通する。また、そうした真の御業の真理の理解を得る様態によって、私た ちのうちにハビトゥスたちが生じ、それが記憶において導かれ、それらか ら私たちは再び、類似する概念を形成することができる。さらにそれは、 原理のハビトゥス、帰結のハビトゥスのいずれにおいても同様である。そ れに従って、私たちはアウグスティヌスが『三位一体について』第九巻に おいて次のように述べていることを理解するのである。「その恒久的な真 理において、私たちは心の目が捉えたものを知覚し、そこで私たちは言葉 として、概念化された事物の真の理解を得る」。その理解は記憶のハビト ゥスの中で知覚され、そこに再び知性が立ち返ることによって言葉が形成 され、変化しうる事物についてもなんらかの知識を携えることになる。ア ウグスティヌスが『三位一体について』第一二巻第一四章で、「場所に置 かれた感覚的事物だけではない」云々と述べているように、また前の問い の解決部の四つめの議論で示したように。 Iste ergo verior modus acquirendi scientiam et notitiam veritatis quam ille quem ponit Aristoteles ex sola sensuum experientia, si tamen sic intellexit Aristoteles et in idem cum Platone non consensit. Immo, quod verius creditur, etsi Platoni in modo dicendi obviavit, occultando divinam doctrinam magistri sui, sicut et alii priores Academici, eandem tamen cum Platone de notitia veritatis habuit sententiam, secundum quod hoc videtur insinuasse cum loquens de veritatis cognitione dicit in II Metaphysicae quod "illud quod est maxime verum sit causa veritatis eorum quae sunt post, et quod ideo dispositio cuiuslibet rei in esse sit sua dispositio in veritate". // これは、アリストテレスが感覚的体験のみをもって掲げたものよりも、い っそう真であるような学知と真理の理解の獲得方法である。もっともこれ は、アリストテレスがそのように理解していた限りにおいて、また、プラ トンに同意していなかったという限りでの話だ。より真実味があると思わ れるのは、たとえ言い方においてプラトンに反対し、ほかのアカデメイア 派の先人たちのように、師の神学的教義を隠しているにしても、アリスト テレスは真理の理解についてはプラトンと同じ見解を抱いていたというこ とである。それは、『形而上学』第二巻で真理の認識について次のように 述べるとき、密かに入り込んでいるように思われるからだ。「この上なく 真であるものとは、後から来るものの真理の原因であろう。任意の事物が 存在に配置されるのは、その真理への配置にほかならないだろう」。// Propter quod dicit Augustinus in fine De Academicis: "Quod autem ad eruditionem doctrinamque attinet et mores quibus consulitur animae, non defuerunt acutissimi ac solertissimi viri qui docerent disputationibus suis Aristotelem et Platonem ita sibi concinere ut imperitis minusque attentis dissentire videantur multis contentionibus. Sed tamen eliquata est, ut opinor, vera verissimae philosophiae disciplina. Non enim est ista huius mundi philosophia quam sacra detestantur, sed alterius intelligibilis, cui animas multiformis erroris tenebris caecatas numquam ista ratio subtilissima revocaret, nisi summus Deus populari quadam clementia divini intellectus auctorem usque ad ipsum corpus humanum declinaret, cuius non solum praeceptis, sed etiam factis excaecatae animae redire in semet ipsas etiam sine disputationum concertatione potuissent". "cum iam", ut dicit in Epistola ad Dioscorum, "Christianae aetatis exordiorerum invisibilium atque aeternarum fides per visibilia miracula salubriter praedicaretur hominibus qui nec videre nec cogitare aliquid praeter corpora poterant". これに対してアウグスティヌスは、『アカデメイア派について』の末尾で こう述べている。「学識と教義、さらには魂が司る道徳に関わることは、 この上なく聡明で勤勉な人に事欠くことはなく、彼らは自分たちの議論に より、アリストテレスとプラトンがかくも一致することを示し、多くの不 和で一致しないと考えるのは無学の者やぼんやりした者のみとなってい る。だが、私が思うに、真にこの上なく真であるような哲学は純化された ものである。それは聖なる世界の哲学が嫌う現世の哲学ではなく、別の知 的世界の哲学であり、至上の神が民への慈悲深さゆえに神的な知性の権威 を人間の身体にまで向けるのでなかったなら、過ちの多様な闇によって盲 いた状態の魂が、この上なく繊細な理へと連れ戻されることは決してなか っただろう。まさにそれゆえに、知覚だけでなくその所作においても、盲 いた魂は議論も論争もなしに、本来の姿に立ち戻ることができるのであ る」。ディオスコルス宛の書簡に記されているように、「キリスト教の時 代が始まると、目に見えず永劫的な信を、目に見える奇跡によって、肉体 なしには何かを見たり認識したりできない人々に、有益に説教することが できるようになった」のである。 # # # 今回の箇所では、照明によって得られる知識(真理についての)が、アリ ストテレス的な人間本性的な能力によって獲得される知識よりもいっそう 真理の度合いが深いということが言われています。ですがそれに続いて、 実はアリストテレスの考え方は、表現こそ違うものの、根本ではプラトン のものと違わないことが示されています(照明説のおおもとにはプラトン 主義のイデアの考え方があるわけでした)。ヘンリクスはそうした思想的 一致を、アリストテレスからの引用と、アウグスティヌスによる言及でも って示しています。 さて、今回も加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』から、第三章「照明説 の思想発展」を追っていきたいと思います。上で読んでいる『スンマ』の 冒頭部分は、ヘンリクスの初期の著作に位置づけられるのですが、これが 後期においてはどういう説明になっていくのかを、同書にもとづいて確認 しておきましょう。後期のテキストとして重視されているのは『任意討論 集』(1286年)です。まず指摘されているのは、そこでは神から注がれ る照明が「非物体的ラチオ」(incorporae rationes:非物体的な理)と 呼ばれていることです。『スンマ』での説明と同様に、まずは感覚によっ て可感的な表象が生じ、次いでそこに知性が可知的な内容を見据え、その 後にこの非物体的な真理に触れることによって「イデアとの直接的接触」 が支援される(p.101)、とされています。 そうは言っても、後期のヘンリクスの説明は前期のものとは内容面でだい ぶ異なっているようです。初期の説明では、照明の機能的側面は三つに区 別されていましたが、後期においては「能動知性」と「技術知」の二つの 機能的側面が説明として立てられるのみだといいます。まず能動知性は、 「精神が普遍を察知するとき、(……)質料の中にある形相の純正真理を 認識するように精神を照明するもの」と、「質料の中にある形相の想像的 真理を認識するように精神を照明するもの」とに分かれます(p.102)。 能動知性は二つ想定され、一つは人間知性を照射する神そのものの照明、 もう一つは魂に内属する能力としての照明だとされています。 もう一つの技術知も、その能動知性の違いに応じて二つに分かれます。神 そのものとしての能動知性に対応する技術知は、質料に形相を与える働き を担うものであり、一方で魂の能力としての技術知は、蝋に像を残す印章 のようなものとされ(これは前回も出てきた比喩です)、人間知性に真の 知を刻みつけるものとされています。加藤氏によれば、初期の「霊的光」 が「能動知性」へ、「似姿」が「技術知」へとそれぞれ発展したものだろ うといいます。 そうした発展の背景には、ヘンリクスにおける存在論の深化が見て取れる らしいのですが、ここではまだ、そのあたりの話には触れず、さしあたり 基本的な図式だけ押さえておきましょう。要は、照明にもとづく認識とは 「もともと表象像の中に知性認識した対象を新しい次元から見直す」(p. 107)こと、あるいは「人間知性に内属する能動知性が表象像から抽出し た可知的対象を、神の知性との依存関係において捉え直すこと」(同)な のですね。で、ヘンリクスの説明方式の転換(三つの区分から二つの区分 への)は、アウグスティヌスの伝統にもとづく説明から、「アヴィセンナ の解釈を介したアリストテレス的概念による独自の説明方式への発展」 (同)と位置づけられるといいます。 興味深いのは、照明説の解釈上の問題を整理している加藤氏のまとめです (pp.109-110)。当時、アウグスティヌスの照明説の解釈はいくつかあ ったといいます。(1)神のイデアだけが人間知性の対象で、神の照明さ えあれば十分という解釈、(2)太陽が見られる対象ではないのにものを 見るとき不可欠であるように、神のイデアは人間知性の対象ではないけれ ど、人間の認識に不可欠という解釈(流入説)、そしてその下位区分とし て、(2a)流入を一般的なものと捉え、神の創造や摂理の業と同一視す る解釈、(2b)神の流入はそうした一般的流入を越えたものであるとい う解釈です。(1)には、人間が本来もっている知と、啓示によって与え られる知が混同されるという難点があります。(2a)もまた、照明で得 られる知が人間本来の能力による知と同じものになってしまうという難点 があり、また(2b) も、(1) と同様に本来的な知と啓示による知と が混同されるという問題が生じてしまう、と同氏は述べています。そうし た難点を回避すべく、ヘンリクスはアウグスティヌスの唱える照明を、一 般的流入よりは上にあり、恩寵や啓示よりは下にあるという、特殊な照明 として規定したというのです。このあたりの機微にこそ、ヘンリクスの独 自性、特徴があるというわけですね。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------