silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.280 2015/02/21 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その15) パルマのブラシウス『ブラッドワーディン数比論の諸問題』から、問一一 の第二節の続きをさらっと見ていきます。状態変化の速度に関して、ブラ シウスは一定の変化の割合という意味合いでの「幅」概念を用いているこ とを前回見ました。まずはこの「幅」についての議論の補足からです。ブ ラシウスは例によって、いくつかの問題点や異論を挙げ、それに検討・反 論を加える形で自説をより詳細に展開していきます。その中に、当時の重 要な考え方からの問題点が含まれています。それは「中間度数の定理」と いうもので、底本の校注者による解説序文によれば、オックスフォードの いわゆる「計算屋」が一様に認めていたものだといいます。 それはどういうものかというと、要は均一に増減するような形で変化が起 きる場合、全体が獲得する性質というのは、中間の度数(増減の両極の値 などではなく)でもって均一に変化する場合に獲得する性質と同等である と見なす、というものです。厳密にこれが中央値のことを言っているの か、それとも平均値なのかはいまひとつ不明ですが、おそらくは前者のほ うではないかと思われます。この説はすでに動体が移動する場合について も言及されていて、ブラシウスはいちどそれを受け入れるような発言をし ているようなのですが、状態変化への適用についてはそれを拒んでいま す。「均一に増減があるような形で状態が変化する場合、中間の度数で変 化するときと速度は等しくない」というわけです。 その理由は次のようなものです。つまり中間の度数がひとたび決まったと しても、それを中間点とする「幅」は無限にありうるからです。たとえば 所定の時間で0から16まで変化する物体と、4から12まで変化する物体と では、当然変化の速度は異なりますが、これに対して中間点を取って速度 とするなら、どちらも8で同じになってしまいます。ただ、もとよりこの 中間度数の定理は速度そのものを評価するためのものではなく、漸進的な 形での変化、もしくは獲得された速度の、総量を測るための方法なのだと 解説序文は説明しています。 続く問一一の第三節では、今度は増加(物体のなんらかの質的な増加)に おける速度の比較が問題になっています。これについてブラシウスは、増 大における速度は、新規獲得分の絶対量によって決まるのでもなく、また 既存のものに対する新規獲得分の割合によるのでもないとしています。速 度を新規獲得分の絶対量で測るとすると、たとえばaとその2倍の大きさ のbという物体があったとき、所定時間内の増分が同量だったなら、明ら かにaのほうが速く増加しているというのに、同じ速さだと見なされてし まいます。また、既存分に対する新規獲得分の割合で測るとすると、同じ くaとその倍のbがあったとき、どちらもが所定の時間でもとの大きさの 倍になるとするなら、明らかにbが速いのに、aとbの増加の速度は同一だ ということになってしまいます。 そこでブラシウスは、増大における速度は、既存のものに対する、新規獲 得分と既存分を合わせたものの割合で測るべきであると規定します。つま り獲得分の、全体に対する割合を導けばよいということです。二つの物体 が同一の時間に異なる増分を獲得するとして、その増分の全体に対する割 合を導けば、それらの比較も可能になるというわけです。たとえば上に倣 ってaとその倍のbという二つの物体があったとき、所定時間内の増分が それぞれcとdであったなら、aの速度とbの速度は、c+a/c と d+b/b の 比較となります。これはなかなか賢明なやり方です。 問一一の最後(第四節)では、減少の場合についてとくに明記しないこと が示されています。これは増加のの裏返しになるからですね。いずれにし ても、ブラシウスは問一一で、これまで見てきたような三種類の運動(空 間移動、状態変化、増減)を取り上げています。このように網羅的に取り 上げるというスタンスは、当時としては新しいものだったようで、たとえ ばブラッドワーディンにしても、状態変化について取り上げていません。 とはいえ、解説序文によれば、これは必ずしもブラシウスが先鞭を付けた ものでもないようで、たとえば14世紀のウィリアム・ヘイテスベリーな どにもそうした論考があるといいます。そのあたりの系譜もなにやら面白 そうですね。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その13) ゲントのヘンリクス『スンマ』から、第一部第二問の照明説の導入部分を 読んでいます。さっそく今回の箇所を見ていきましょう。 # # # Hoc ergo modo, qui mente excedente aliquid veritatis sincerae intelligit, in rationibus primae veritatis intelligit. "Sed", ut dicit Augustinus De videndo Deum, "forte hoc difficile est. Irruit enim de consuetudine carnalis vitae in interiores oculos nostros turba phantasmatum". "Quae", ut dicit III De Academicis cap. 9, "consuetudine rerum corporalium nos etiam cum veritas tenetur et quasi in manibus habetur, decipere atque illudere moliuntur". Igitur, ut dicit De videndo Deum, "qui hoc non potest oret et agat ut posse mereatur, nec ad hominem disputatiorem pulset ut quod non legit legat, sed ad Deum Salvatorem ut quod non valet valeat". このような形で、精神を超越してなんらかの純粋な真理を理解する者は、 それを第一の真理のことわりにおいて理解する。「だが」、アウグスティ ヌスが『神を観ることについて』で述べるように、「それはおそらく難し い。というのも、肉体的生の習いとして、私たちの内なる目は、幻影によ って乱されるからだ」。「その幻影は」『アカデメイア派について』第三 巻第九章が述べるように、「物体的事物である私たちの習いゆえに、真理 が得られ、ほぼ私たちの手に入るとき、私たちを騙しあざけようとす る」。ゆえに、『神を観ることについて』が述べるように、「それが理解 できない者は、理解できるに値するよう祈り行動するだろう。また、読ま ないものを読んでいるかのように人に論争をもちかけるようなことはしな いだろうが、なしえないことをなしうるよう救いの神に求めるだろう」。 Ex puris igitur naturalibus exclusa omni divina illustratione nullo modo contingit hominem scire liquidam veritatem. Sed tamen adhuc restat quaestio utrum ex puris naturalibus possit scire eam. Si enim homo ex puris naturalibus potest attingere ad illam lucis divinae illustrationem et per illam scire sinceram veritatem ex puris naturalibus, debet dici posse scire sinceram veritatem, licet sine illa illustratione eam scire non possit, sicut si ex puris naturalibus potest attingere ad prima principia disciplinarum et per illa scire alia ex puris naturalibus, dicitur scire illa, licet ea non possit scire sine primis principiis. Quod si ex puris naturalibus non possit attingere ad illam illustrationem, nec per illam ex puris naturalibus dicendus est scire liquidam veritatem, ut dictum est in principio solutionis huius. したがって、あらゆる神的な照明を排した純粋に自然な手段からでは、い かにしても人間が純然たる真理を知ることはない。だが、それでもなお、 純粋に自然な手段でそれを知ることができるかどうかという問題は残る。 というのも、仮に人間が純粋に自然な手段で、その神の光による照明に達 することができ、それによって純粋に自然な手段で純粋な真理を知ること ができるとしたら、たとえそうした照明がなければそれを知ることはでき ないとしても、その者は純粋な真理を知ることができると言わなくてはな らなくなる。それはちょうど、仮に純粋に自然な手段でもって、学知の第 一原理に達することができ、それによって純粋に自然な手段でほかの学知 を知ることができるとしたら、たとえ第一原理なしにそれを知ることがで きなくとも、その者は純粋に自然な手段でそれを知る、と言われるのと同 様である。だがしかし、仮に純粋に自然な手段でその照明に達することが できないのなら、この問いの冒頭の解決部において述べたように、照明を 介すことで純粋な自然によって純粋な真理を知ることができる、と言うわ けにはいかない。 # # # 前回見た加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』の第三章では、当時の照明 説にいくつかのバリエーションがあったことが紹介されていました。ま た、ブログのほうで少し触れましたが、たとえばロバート・グロステスト なども、学知論として照明説を擁護しているようです。とはいえその照明 説はヘンリクスのものとはだいぶ趣が異なっています。ブログでも挙げた 論考、サイモン・オリヴァー「ロバート・グロステストの光・真理・経験 論」(Simon Oliver, Robert Grosseteste on Light, Truth and Experimentum, Vivarium, Vol.42, No.2, 2004)を再度まとめておきま しょう。 グロステストの場合は、光は知(あるいは知識)そのものと同一視されま す。というか、それは事物の第一の形相をなすものとされ、物体にかたち を注ぎ込むものとほぼ同じと見なされます。こう言ってよければ光の一元 論的なスタンスが取られており、人間が世界を見る、あるいは経験するこ とからすでにして、光(いわば創造の光です)に与ることを意味するのだ とされます。世界の経験・観察を通じて、人間は高次の知識へと高まって いくわけなのですが、これもまた、いっそう純化された形で光に与ること を意味します。自然学から形而上学へと、数学(それは両者を繋ぐ媒介役 とされます)を介して高まっていくこと、それが人間知性の目的とされて います。 そんなわけですから、神の照明ははじめからそこにあり、ヘンリクスのよ うに知性の高まりに際して外部から「注がれる・付加される」というよう なものではありません。ではなぜヘンリクスは、グロステストのような一 元論的な立場を取らないのでしょうか。上の加藤氏の議論にあるように、 一つには、オントロジズム的な立場を避けるということがあったのかもし れません。オントロジズム(本体論主義)というのは、人間の認識を成立 させる認識不可能な存在(すなわち神)が、直観的な認識によって捉えら れうると考える立場を言います(本来は一五世紀のフィチーノが示唆し、 一七世紀後半のマルブランシュによって確立された概念ですが、ここでは 遡及的に使用しています)。ですが、この考え方に従うなら、人間の自然 本性的な知と、啓示による知との区別がなくなってしまい、神学上、大き な問題になります。 グロステストのような立場は、確かにそうしたオントロジズム的な要素が 強く出てしまいそうに思えます。とはいえ、そこはグロステストも周到 で、福者たちの至福直観における知と、被造物を取り巻く光を介した知と が、いかに異なるかを規定しようとしているようです。上の論考の著者オ リヴァーによれば、両者の抜本的違いは、運動(ヒエラルキー的に最も低 い、地上世界の事物の運動)を(感覚器官で)捉えるというプロセスが介 在するか否かにかかっているとされます。言い方を変えれば、認識の対象 を地上世界の事物に限定することによって、オントロジズム的な混同を回 避しようとしているのです。とはいえ、地上世界の個々の事物も神の光に 与っている以上、光が認識の対象をなしうる可能性が完全に払拭されてい るようには思われません。 ヘンリクスの場合はどうでしょうか。上の加藤氏の著書によれば、ヘンリ クスは、神の照明それ自体が認識の対象に置かれることをきっぱりと否定 する形で、オントロジズムに陥ることを回避しているようなのです。神の 範型(照明)が「認識の対象」になる場合というのは、福者のような特別 な恩寵に与る場合の超自然的認識(例外的なもの)であり、それに対して 一般的な認識における照明説が問題にするのは、神の範型が認識の対象で はなく「認識の観点」となるような場合である、とヘンリクスは規定して いるのですね。どういうことかというと、そこでの神の範型は、見る対象 ではなく、見る視点を導く、あるいは設定するようなものだということで す。そのように規定することで、神の範型が認識の対象となるような事態 は、もとよりありえないものとして排除しているわけですね。 このように、オントロジズム回避の方途として、対象の側に規定を置くグ ロステストと、認識の構造から説いていくヘンリクスとでは、対照的なア プローチをなしていると言えそうです。オントロジズム回避へのこだわり は、今回見た上の本文でも伺い知ることができるかもしれません。ちょっ と切り出し方が悪く、議論は次回の箇所へと続いているのですが、いずれ にしてもヘンリクスはここで、「自然な手段で神の照明に達することはで きない」という意味において、「人間は自然な手段で純然たる真理を得る ことはできない」とはっきり述べています。自然な手段で神の照明に達し うるとしたら、オントロジズムを擁護することになってしまいます。です がヘンリクスはそれに異義を差し挟み、そのような擁護論を斥けていま す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------