silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.281 2015/03/07 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その16) パルマのブラシウスによるトマス・ブラッドワーディンの数比論への注解 を見てきましたが、これもいよいよ最後の部分です。最終章となる問題一 二は、数比と自然学の結びつきに関わる一章です。「元素は互いに、連続 した一定の比による比例関係にあるか」というのがその表題です。実はこ こでブラシウスは、ブラッドワーディンとはまったく逆に、元素はそうい った一定の比例関係にはないということを示そうとしています。さっそく 中身を見ていきましょう。 底本の解説序文にまとめて記されていますが、ブラッドワーディンは、四 つの元素は連続した一定の比で結びついていると考えていました。前に取 り上げたように(本メルマガNo.274)、彼はそうしたスタンスをもと に、それぞれの元素に対応する天球の比の関係を検討し、その容量を計算 してみせたのでした。解説序文によれば、これはアリストテレスという か、むしろアヴェロエスに準拠した考え方だといいます。ブラシウスはこ の問題を改めて取り上げます。 第一節では、ブラシウスによるブラッドワーディン説のまとめが示されて います。少し煩雑になってしまうので、ここでは詳しくは取り上げません が、解説序文も言うように、全体としてこれは必ずしもブラッドワーディ ンに忠実なまとめではないようです。たとえばブラシウスは、ブラッドワ ーディンがいずれかの元素の球とその下位の球の比を33 : 1であると述べ ているかのように記していますが、実際には、ブラッドワーディンはその 比は33 : 1よりも多少とも小さいと見なしていたりします。また、ブラッ ドワーディンが球を満たす元素の量の比を念頭に置いているのに対して、 ブラシウスは球そのものの大きさの比を考えているという違いもあるよう です。 いずれにしても、ブラシウスはこのブラッドワーディンの議論とは異なっ たアプローチをかけてその説を否定していきます(第二節)。まずブラシ ウスは、地球が球であることは間違いないとした上で、地球が中心から外 れていることを説きます。そうでないとしたら、地球は水に取り巻かれて いなくてはならないというわけです。あるいはまた、雨や河川が特定の部 分へと向かうのもおかしい、とも述べています。そもそも元素の序列から すれば水のほうが上にあるべきなのに、水は地表へと流れ、また海面は陸 地よりも低い場所にあるではないか、というのですね。地球が同心円の中 心から外れているとすれば、これらの説明がつくとブラシウスは言いま す。 ブラシウスはまた(ブラッドワーディンのように同心円の原理を維持する のなら)地球は水の球よりも大きいことが導かれてしまうとしています。 これでは通常の各元素の球の考え方(序列的な考え方)から大きく逸脱し てしまいます。解説序文では、そうした序列の関係性までブラシウスは否 定しているわけではなく、あくまでこれはブラッドワーディンに準拠した 場合の矛盾を示しているにすぎない、とされていますが、それにしてはこ れはなかなか強烈です。とにかく、地球が中心から外れているということ はこの矛盾から論証されうるし、もしそうだとすると、元素はブラッドワ ーディンが想定しているような、連続した比をなしてはいないことにな る、というのがブラシウスの議論だというわけですね。逆に言うと、もし 連続した比をなすのならば、元素の序列の原理に従い、水の球は地球より も大きくなくてはならない、つまり水は地表よりも高いところになければ ならない、ということになります。 この考え方に関連して、ブラシウスはいくつかの難点を取り上げ自問しま す(第三節)。まず、元素のうちで最も上にあるとされる火が、果たして 本当に空気よりも上にあると考えられるのかとの疑問を発しています。土 や水や空気と違って、それらのはるか上空に火があることを人間は感覚で 捉えることができません。また地上で火を起こすことができることも、知 的にそのような理解をもたらしはしません。そんなわけでブラシウスは、 空気の上に火の元素の球があることが明白とはいえないと結論づけます。 さらにブラシウスは、火の球の存在が不確かであることから導かれる疑問 として、元素は果たして本当に四種類なのかとの問いを掲げ、それもまた 必ずしも明白ではないと結論づけています。となると、当然ながらブラッ ドワーディンが説いていた「元素は比の関係にある」というテーゼも改め て正しいのかということになります。ブラシウスはブラッドワーディンの 論証が偽の前提に立っていることを指摘しています。ブラッドワーディン はアル・ファルガーニーなどにもとづき、月の球と地球とが、直径の比で 33 : 1の関係にあるとしていたのですが(本メルマガNo.274)、火の球 と空気の球との直径の比も33 : 1であるとは帰結できない、とブラシウス は述べています。 このように、ブラシウスは元素同士が連続した一定の比をなすという考え 方も、また元素の序列(?)や数についても、批判的な疑問を投げかけて います。まさにアリストテレスの権威が揺らぎ始め、新たな考え方が芽生 え始めているその時代の流れの一端が、ブラシウスのこの注釈書からも窺 えます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その14) ヘンリクスの『スンマ』から、第一部第二問(の一部)を読んでいます。 今回はヘンリクスの照明説擁護論の末尾部分になります。さっそく見てい きましょう。 # # # Nunc autem ita est quod homo ex puris naturalibus attingere non potest ad regulas lucis aeternae, ut in eis videat rerum sinceram veritatem. Licet enim pura naturalia attingunt ad illas, quod bene verum est - sic enim anima rationalis creata est, ut immediate a prima veritate informetur, ut iam prius dictum est -, non tamen ipsa naturalia ex se agere possunt ut attingant illas, sed illas offert Deus quibus vult et quibus vult subtrahit. Non enim quadam necessitate naturali se offerunt, ut in illis homo veritatem videat, sicut lux corporalis, ut in ea videat colores, sicut nec ipsa nuda divina essentia. Secundum enim quod determinat Augustinus De videndo Deum, "si vult, videtur; si non vult, non videtur". / だが、人間は純粋に自然な手段だけで、事物の純粋な真理を目にできるよ うな永遠の光の規則へと到達することはできない。純粋に自然な手段によ ってその光に達することは真であるにせよ−−すでに述べたように、理性 的魂は、第一の真理によって直接に形を与えられるように創られている− −、その自然な手段それ自体が、その光に達するように作用することはで きず、(その光に与るよう)望む者には神がその光をもたらすのであり、 (与らずともよいと)望む者には光を遠ざけるのである。物体的な光がも たらされることで色を目にできるようになるのと同じように、人間が真理 を見られるようにと、なんらかの自然な必然性によって光がもたらされる のではないし、神の本質を見られるようにともたらされるのでもない。ア ウグスティヌスが『神を観ることについて』で断言するように、「望むな らその者は見、望まぬなら見ない」のである。/ / Unde et regulas aeternas Deus aliquando offert malis, ut in eis vedeant multas veritates quas boni videre non possunt, quia praescientia regularum aeternarum non offertur eis, secundum quod dict Augustinus IV De Trinitate cap. 16; "Sunt nonnulli qui potuerunt aciem mentis ultra omnem creaturam transmittere et lucem incommutabilis veritatis quantulacumque parte contingere, quod Christianos ex fide sola viventes nondum potuisse derident". Easdem etiam regulas aliquando eis subtrahit et eos in errorem cadere permittit, secundum quod super illud Iob XXXVIII, "Immanibus abscondit lucem", dicit Gregorius XXVII Moralium: "Immanes sunt qui se elatis cogitationibus extollunt. Sed his lux absconditur, quia nimis in cogitationibus suis superbientibus cognitio veritatis denegatur". Aliis autem omnibus "pro sua sanitate" aspiciendum conceditur, ut dicit Augustinus I Soliloquiorum. /それゆえに、ときに神は永遠の規則を悪しき者にもたらし、善き者が見 ることのできない数々の真理を見せることもあるのだ。善き者が見られな いのは、アウグスティヌスが『三位一体について』第四巻一六章で述べる ように、永遠の規則の知覚は彼らには与えられていないからだ。「あらゆ る被造物を越えて鋭敏な精神を高めることができ、どれほど小さな部分で あろうと不変の真理の光に触れることのできた者もいないわけではない。 だが信仰のみによって生きるキリスト者はまだそうできずにおり、愚かし いとされるのである」。また、『ヨブ記注解』第三八節に「神は光を、粗 野な人々から見えなくした」とあるように、その同じ規則を、神は彼らか ら遠ざけ、彼らが誤りに陥ることを許容することもある。これについて、 グレゴリウスは『道徳論』第二七巻でこう述べている。「誇らしげに考え を誇示する人々は粗野である。だが彼らからは光は見えない。なぜならそ のあまりに誇らしげな考えにあっては、真理の認識が否定されるから だ」。だがほかのすべての人々には、アウグスティヌスが『独白』第一巻 で述べるように、「その健全さに応じて」真理を目にすることが許され る。 Absolute ergo dicendum quod homo sinceram veritatem de nulla re habere potest ex puris naturalibus eius notitiam acquirendo, sed solum illustratione luminis divini, ita quod licet in puris naturalibus constitutus illud attingat, tamen ex puris naturalibus naturaliter attingere illud non potest, sed libera voluntate quibus vult se ipsum offert. このように、人間はいかなる事物についても、純粋に自然な手段を用いた 知識の獲得からは、その純粋な真理を得ることはできない、と断言しなく てはならない。ただ神の光による照明によってのみそれは可能なのであ り、たとえ純粋に自然な能力においてそこに達するにせよ、純粋に自然な 手段でごく自然に達することはできず、みずから望む者に(光を)与える 神の、自由意志よって可能になるのである。 # # # 今回の箇所は、照明説の妥当性を示すいわば結論部にあたります。この 後、本文は異論とそれに対する反論が続きますが、ヘンリクスの主張はこ こまでで一通り出尽くしている感じです。文中に出てくるグレゴリウスと は、大グレゴリウス(六世紀末から七世紀初めにかけてローマ教皇を務め た)のことです。 さて、今回も加藤雅人氏の著書から、今度は「照明の形而上学」と題され た第六章を見てみます。その冒頭では、再びスコトゥスの照明説批判から 逆照射する形でヘンリクスの照明説を振り返り、まとめています。スコト ゥスはヘンリクスの照明説を批判することで、みずからの「存在の一義 性」の議論を確立したといいます。どういうことかというと、ヘンリクス の照明論には、そうした照明が与えられることによって人間が神を「知 る」こともまた可能になる、という側面があるからです。照明説を否定し てしまうと、人間が神を知るという経路が断たれてしまうわけですね。そ こで、それに代わる人間と神との一種の通路、あるいは両者をつなぐもの として、「有(存在者)」という概念がもちだされてきたというのです。 それが神にも人にも一義的に適用できるという議論を、スコトゥスは展開 したのだ、と。 ですが、この神を知るという側面は、照明説の本義にどう位置づけられる のでしょうか。前回触れたように、加藤氏の同書の前段では、ヘンリクス の照明説は神を知の対象ではなく、知の観点として設定するところに特徴 があるとされていたのでした。それによってオントロジズム的な、神を人 間が直接知りうるとする考え方(それは神学的に大きな問題になります) への警戒が担保されていたわけです。 実はヘンリクスの照明説には、神を知の観点とする側面と、神を知の対象 にする側面との両方があるようなのです。上の六章では照明説がもつそう した両面性を、(1)「知の確実性の保証」(2)「神への通路の保証」 の二つの機能として取り出しています。その上で、この二機能にはどこか 曖昧な部分が残っているとしています。つまりこういうことです。(1) に関する限り、ヘンリクスの議論にはオントロジズム的なものはありませ ん。ところが(2)が問題になると、神は知性にとっての「第一に認識さ れるもの」(すなわち「有(存在者)」)であるとされ、どこかしら神を 対象として考えるという側面が浮かび上がってきてしまいます。せっかく 区分したはずの両側面が、ときには一方へ、またときには他方へと揺れる らしく、かくして曖昧さが残ってしまうというのです。このあたりのヘン リクスの揺れは、とても興味深いところです。 実はこの(2)の問題は、続く本文の第三問に関連する部分です。という ことで、少し先取り的になってしまいましたが、私たちも引き続き次回か らそのあたりを読んでいきたいと考えています。さしあたり加藤本に戻る と、そうした揺れを受けて、スコトゥスはヘンリクスの説が結局、「神の もとに神を観る」ということに帰着する(オントロジズムに陥ってしま う)として斥けているのだといいます。同書はそこから、ヘンリクスの思 想が時代的に変化していることを見据えつつ、その照明説の「存在論的構 造」なるものを汲み上げようとしていくようです。このあたりは次回以降 に順次見ていきたいと思います。 ……というわけで、第二問はいったんこれで終了とし、次回からは第三問 「人間は認識のもととなる神の光を認識できるか」へと入っていきたいと 思います。これも全体は長いので、端折りながら読み進めていく感じにな りそうです。ヘンリクスの照明説にもうしばらくお付き合い願います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------