silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.283 2015/04/04 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その1) 今回から、一四世紀のパリ大学の規約についての研究書を見ていきます。 扱うのはルプレヒト・パケ『唯名論者たちのパリ規約』(1970)で、こ こではその仏訳(フランス大学出版:1989)を覗いてみようというわけ です。ここで取り上げられている規約とは、1340年12月29日にパリ大 学の自由学芸部が公布した規約で、当時はジャン・ビュリダンが大学総長 を務めてました。当時の一部のアリストテレス主義を批判した文書とも言 われますが、それが実際に誰を批判し、何をやり玉に挙げていたのかを、 この研究書は詳細に跡づけようとしています。 この規約は、「有益である以上に知を追い求め」、「聖書や哲学の解釈に おいて許しがたい誤り」をなす、一部の有害な繊細さをもつ人々に対して 示された、1339年の一般禁止命令の具体的な指定書とされています。か つてそれはオッカムに対するものだったとされていましたが、オートレク ールのニコラをやり玉に挙げていたのだという説もあり、同書はそういっ た点を改めて検証しようとしています。具体的には、規約の文章とオッカ ムやニコラの文献とを比較してみるというのが主眼になっています。 1340年といえば、オッカムの著書が禁書扱いになった翌年であり、さら には英仏の百年戦争が勃発した翌年でもあります。著者のパケはまずその 序文で、当時の時代背景について、より巨視的な見地から振り返っていま す。そのあたりをまとめておきましょう。14世紀というのは、いわば 様々な点で社会的変化が加速する一世紀だったと言うことができます。帝 国も教皇座も絶頂期を過ぎ、アヴィニョンとローマで教皇庁が並立すると いう、大シスマのような事態も起きています。文化の面でも、ラテン語に 代わる世俗の言語が台頭しています。さらに貨幣経済の活性化は、新たな 階級と個人を前面に押し出しました。新たなブルジョワ階級も台頭し、一 種の商業革命が起きています。 学問の世界も大きな転換を迎えつつありました。大学では自由学芸部が近 代的な哲学や自然学を育む土壌となっていきます。従来、神学部への従属 的な存在にすぎなかった同学部は、ビュリダンの時代には神学部すらをも 凌駕する政治力を蓄え、総長を輩出するにまで至ります。まさに神学と哲 学は両輪となり、時代が下っていくにつれ、自由学芸部のほうが事実上の 精神的指導役になっていくほどです。 その基盤をなしていたのは、アリストテレス思想の受容にありました。十 字軍ならびに地中海世界のイスラム教との接触を経て、西欧はアリストテ レスを再発見します。はるか以前から伝わっていた論理学、自然学、形而 上学に加え、政治学や倫理学も取り込まれていきます。アリストテレス思 想は新たなレゾン・デートルを獲得していくことになります。それをもと に、聖書や初期教父などの新しい、従来のものにとらわれない再解釈など も行われていきます。そして、そのような新しい潮流、批判的精神は、や がてアリストテレスそのものにも向けられることになります。 この新潮流は、とりわけ英国オックスフォードを中心に発展していきま す。しかも、オッカムに代表されるフランシスコ会派がその普及役となっ ていました。これにより、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナ スなどドミニコ会系の論者を中心としていた一三世紀のアリストテレス解 釈は、改めて問い直されることになりました。その新潮流では、論理学に 代わって「自然学」や実験が重んじられていきます。つまり、感覚的な知 覚や体験それ自体が出発点とされるようになったのですね。まずは普遍概 念よりも個々の事物や事象が重視されます。 これが普遍論争の文脈に重なります。個物重視の考え方から、普遍という ものは個物が抽象されて成立する概念的なものにすぎないという唯名論が 導かれます。普遍を単なる言葉にすぎないとしていた12世紀のロスリン (ロケリヌス)やアベラールを越えて、外部の事物に対応した心理的な代 替物だと見なされるようになるわけですね。このことは実在論の伝統を大 きく揺さぶることになります。それはまた、実在論の存立基盤と見なされ ていたアリストテレスの権威、さらにはそれに依存していた教会の権威に すら疑念を突きつけることにもなります。ゆえにこの新たな学問潮流は、 旧弊な大学人たちからの激しい抵抗を呼ぶことになりました。 それは不穏な空気にまで広がっていったようです。そのような革新的・懐 疑的な論者たちは、その後の1347年ごろに猛威を奮う黒死病のある種の 前触れであるかのように、回顧的に吹聴されたりもしたようです(これも また興味深い点です)。革新派の「父」とされたオッカムなどは、アヴィ ニョンでの出頭を命じられますが(1324年?)、ミュンヘンへと逃れた りしています。こうした文脈の中で、このパリ大学の規約も掲げられてい るわけなのですが、では果たしてそれは実際にオッカムを糾弾したものだ ったのでしょうか?そのあたりが、まさにこれから見ていく問題点となり ます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その16) 前回から、『スンマ』の第一部問題三から、ヘンリクスの自説部分を見て います。さっそく続きを見ていくことにしましょう。 # # # Ut autem ex modo illustrationis videmus quomodo ars divina, quae est ipsa Dei essentia, in suo esse particulari possit esse ratio cognoscendi et videndi alia, et tamen ipsa nec cognoscatur nec videatur, considerandum est in simili de visione oculi corporalis. In ipso enim ad completionem actus videndi, quo lux illustrat ad videndum aliud a se, ut coloratum, tria requiruntur ex parte obiecti quod in nobis operantur actum videndi, quibus in actu nostro sinceram veritatem sive veritatem simpliciter intellignedi ex parte Dei operantis ipsum in nobis respondent alia tria. Similitudinem enim et proportionem habent ad invicem haec tria: videns, visibile, et quo videmus, in sensu et in intellectu, secundum quod dicit Augustinus I Soliloquiorum : "Disciplinarum quaeque certissima talia sunt, qualia illa quae sole illustrantur, ut videri possint, veluti est terra et terrena omnia. Deus autem ipse est qui illustrat. Ergo autem ratio sum in mentibus, ut in oculis est aspectus". ところで、それ自体が神の特殊な存在における本質である神的な業は、い かにして、それ自体は認識されることも見られることもないにもかかわら ず、ほかのものを認識し見るためのことわり(理)になりうるのかを、私 たちが照明の様態によって理解しうるためには、肉体の目による視覚をた とえとして考える必要がある。視覚が見るという行為を完遂するためには −−ゆえに光は、たとえば色彩など、おのれ以外の見る対象を照らすのだ が−−、私たちにおいて見るという行為を作用させる視覚対象の側に、三 つの要件が求められる。それらの要件に、純粋な真理、または端的な真理 を理解するという私たちの行為において私たちのもとへと働きかける、神 の側に由来する別の三つの要件が対応する。それら三要件同士には、相互 の類似性と類比がある。すなわち見る主体、見る対象、そして見るため の、感覚および知性における拠り所となるものである。それについてアウ グスティヌスは『独白』第一巻でこう述べている。「最も確実な知という ものは、大地や地上の事物のように、見られるためには太陽によって照ら されなければならないようなものなのだ。ただ学知の場合には神そのもの が照らすのである。ゆえに、目における視覚の能力のように、私は精神に おけることわり(理)なのである」。 Primum illorum quae requiruntur in visu corporali est lux illuminans organum ad acuendum. Secundum est species coloris immutans eum ad intuendum. Tertium configuratio determinans eum ad discernendum. Primum operatur lux, quia in organo tenebroso virtus visiva iacet quasi obtusa, et nisi iste actus lucis in oculo praecederet, numquam color suo actu speciem suam immittendo oculo ipsum immutaret, nec vis visiva aliquid conciperet, etiamsi sine luce species coloris in organum se diffunderet, ut secundum hoc intelligamus quod dicit Philosophus II De anima : "Color est motivum visus secundum actum lucidi". 肉体の目において必要とされる三要件うち、まず一つめは、器官を照らし て刺激を与える光だ。二つめは、器官を視覚へと仕向ける色の像である。 三つめは、識別へと器官を規定する形状である。最初に光が作用するの は、暗い器官において視覚の能力はほぼ不活性のまま横たわっているから だ。目において光の働きかけが先行していなければ、色がおのれの作用で もって像を送りこみ、目を視覚へと仕向けることもなく、また、視覚の能 力が何かを知覚することもない。たとえ、光がなくとも色の像は器官へと 拡散しはするにせよ。私たちは、『魂について』第二巻で哲学者が次のよ うに述べていることを、そのように理解している。「色は澄んだものの作 用にもとづく、視覚の動因である」。 Sed hic est intelligendum quod lux potest se diffundere in oculo a corpore luminoso dupliciter : uno modo aspectu directo - sic non solum illuminat ad videndum alia a se, sed ad se ipsum videndum et discernendum etiam immutat -; alio modo potest se diffundere aspectu obliquo - primo directo aspectu super visibilem colorem, secundo cum colore ad visum. Sic autem solum ad videndum et manifestandum alia a se illuminat. Si enim esset medium illuminatum et nullum in directo aspectu ad oculum esset obstaculum quod visum in se terminaret et sua luce aut colore immutaret, ut si medium illuminatum esset infinitum, visus quasi sese erigendo circumquaque se diverteret, quaerendo circumquaque si forte occurreret aliquid quod intueri posset. Sicut modo species coloris diffusa per totum medium a corpore colorato a quolibet puncto medii facit se in visum, et tamen non immutat ad intuendum se, nisi ut procedit directo aspectu a superficie corporis colorati in quo color habet esse terminatum quo est per se visibile, non autem in aliquo puncto medii. Hoc ergo est secundum quod requiritur ad perfectum actum videndi species secundum rectum aspectum diffusa per se visibili, immutans ad intuendum. だが、次のことは理解されなくてはならない。光は輝く物体から目へと二 つの形で伝えられうる。一つめの様態は直接的な知覚によってだ。光は、 おのれ以外のものを見せるために照らすのみならず、みずからを見させ識 別させるよう仕向けもするのである。もう一つの様態では、間接的な知覚 で伝えることができる。まずは光が視覚対象の色に直接的に働きかけ、次 に今度はその色が視覚へと働きかけるのである。このようにして、光は他 のものを見させ浮かび上がらせるために照らすのである。だが、もし照ら された媒質があり、直接的な知覚において、目との間に、その光または色 の作用を受けて視覚が止まってしまうような障害物が何もなく、照らされ た媒質が無限に続くかのようであるならば、いわばみずから覚醒した視覚 は、周りのいたるところを巡り、認識しうる何かがどこかにないかと周囲 を探し回るだろう。同様に、色彩をもった物体からすべての媒質を通じて 拡散する色の像は、媒質のどの点においてもみずからを見られる対象にで きるが、その色の像は、色彩をもった物体の表面での直接的な知覚によっ て生じる以外に、みずからが見られるよう仕向けるわけではない。その物 体の表面においてこそ、色は完結した存在をもち、それによりみずから可 視的になるのであって、媒質の任意の点でそうなるのではない。したがっ て、これこそが、見るという完全な行為のために必要とされる第二の要件 をなすのである。その行為は直接的な知覚にもとづき、伝えられたそれ自 体可視的な像を見るのであり、それが目を認識へと仕向けるのだ。 # # # 照明説では、照明という比喩的な言い方をする以上、光に直接関係する視 覚との比較は避けては通れません。というわけで、ヘンリクスはここで両 者を突き合わせています。目の場合、三つの要件が必要だとされています ね。器官を励起させる光、対象からもたらされる色の像(スペキエス)、 識別のもとになる形状の三つです。これらはいずれも外部からもたらされ る要件です。真理の認識についても、それらに対応する三要件があると告 げられていますが、まずは視覚の場合が詳述されています。 まずは一つめの要件である器官の励起プロセスですが、これは直接的知覚 と間接的知覚の二種類で描き出されています。視覚の場合、光はおのれ自 身、つまり光そのものへと視覚を仕向けることもできるし、照射によって 色を浮かび上がらせ、それへと視覚を仕向けることもできるというわけで すね。けれども、前者の場合には視線は対象をもとめて彷徨い続けるしか なく、やはり後者のような、視線の止めどころとしての対象(ここでは色 彩をもった物体とされています)が必要とされます。こうして、光と、色 彩の像(対象)が最初の二つの要件となるわけです(三つめの要件は次回 分の箇所となります)。 いずれにせよ、この比喩のベースに光学の議論があることは確かです。こ れも復習になりますが、ちょうど同年代のロジャー・ベーコンなどは、形 象(スペキエス)を、作用体(視覚ならばその対象)が受容体(見る主 体、あるいは媒質)の質料へと送り出す第一の効果であるとして説明して いるのでした。つまり、それは自然の作用、自然の法則に則った作用だと して、視覚・光学の理論から霊的なものを完全に排除しています。視覚に 関する限り、ヘンリクスも同じような見識を共有している印象を受けま す。 ただ、そこから先の学知の認識という話では、これまでも見てきたよう に、もはや自然の作用だけでは話は完結しなくなります。とはいえ、前に も触れたように、照明説も後のヘンリクスの思想的展開においては、あま り重点を置かれなくなっていくようです。代わりに出てくるのは、アヴィ センナ的な能動知性の考え方だということでした。 ここで再び加藤氏の著書『ガンのヘンリクスの哲学』第6章を見ていきま しょう。照明説というのは、神へのなんらかのアクセスを担保するための 方途の一つなのでした。一方で、そこでは神との大きな隔たりもまた必要 とされていたのでした。そのため、照明説の場合には、スコトゥスのよう な存在の一義性ではなく、存在の類比(アナロギア)の考え方を支持して いるといいます(同、p.206)。ですが、ヘンリクスはやがて照明説から 次第に離れていきます。そのとき、この類比の考え方はどうなっていくの でしょうか。加藤氏はここでいったん、ヘンリクスの類比の考え方を整理 しています。 私たちが読んでいる上のテキストにも関係する、興味深い引用箇所があり ます。同じ『スンマ』の第二四部問題七からの一節で、そこでは、人間の 知性はつねに本性上まずは無限定的なものを、次いで限定的なものを認識 するというのです。しかもそれは感覚の場合と同様であるというのですね (p. 214)。上のテキストでは、直接的知覚と間接的知覚の違いが、無 限定的なものと限定的なものとに対応していると思われます。なるほど、 これは無限定→限定的という前後の関係で読むことができるわけですね。 ヘンリクスによれば、この無限定的なものにも二つの区分あり、欠如的に 語られる無限定と否定的な無限定とに分かれます。加藤氏はこれを「未・ 限定的なもの」と「非・限定的なもの」と言い換えています(p.215)。 その前後関係はというと、非・限定的なもの(すなわちこれは神の認識で す)が、「未・限定的なもの」(被造物のもつ存在者としての未・限定 性)に先行します。 そしてこの先行関係に、ヘンリクスは「アナロギア」を見ているのだとい います(p.217)。存在者(有)について人間の知性が認識する際、それ は神に属する存在者か、被造物に属する存在者かのいずれかであり、両者 は非類似的で、断絶しているとされます。ですが両者ともに同じ語(有な いし存在者)で示されます。ということは、その同じ語が、第一義的には 神を、そして二義的に被造物を表示することになります。この両者の関係 は、まったくの同義でもまったくの異義でもないという意味において、ア ナロギア的であると言われるのです。その場合のアナロギアとは、有限な ものと無限のものとの関係性を表した架橋的な概念だというわけです。 ところが人間知性は、神の存在者と被造物の存在者とを「曖昧な仕方で一 つのものとして認識する」とされます(p.220)。アナロギア的な認識は 人間知性の弱さに由来するのだとして、ヘンリクスはそこでもこのアナロ ギア的な認識を光と色の認識に喩えて語っています……うーん、この話、 長くなってしまいそうなので、次回に繰り越します(苦笑)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------