silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.285 2015/05/09 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その3) ルプレヒト・パケの研究書をもとに、1340年のパリ大学自由学芸部の規 約について見ています。六章から成る本文へといよいよ入っていきます。 今回はまず第一章を見てみましょう。 そこではまず、自由学芸部の教師たち、学生たちに、講義内容になってい る著者のよく知られた命題が、なんらかの正しいことを述べようとしてい る場合に、それを「端的に誤っている、もしくは文字通り誤っている」と あえて明言してはならない、と述べています。そうするのではなく、その 命題を認めるか、誤った命題から正しい命題を選り分けなくてはならな い、というのですね。なぜかというと、もしそう明言してしまうと、同じ ような推論によって、聖書に示される命題も、端的もしくは文字通りに取 るなら誤っていることになってしまう場合があるからだ、とされます。 次いで、人間の言葉は恣意的な使い方や、ほかの著者ないし人物の言葉の 使用法から意味の力を得ている以上、言葉の意味というものは一般的な言 葉の使用法や、問題とされる事物にもとづいて規制されなくてはならない と述べています。人の明言を理解する場合には、その基礎をなしている事 物を考慮して理解せよ、というわけです。 これらの文言も具体的なことはあまりよくわかりません。パケの研究書 は、この箇所にある「文字通りの意味」をとくに問題としています。文字 通りの意味などというものは、発せられた言葉にはもともとないのだ、と いうのが規約が示す立場です。言葉は恣意的に使われているのであって、 その使用法からしか、あるいは言葉が表す事物からしか意味はもたらされ ないというのです。この意味論的な問題について、著者のパケはオッカム がどう考えていたのかを検討しています。 それによると、オッカムは「文字通りの意味」というものを認め、そうし た意味を、論理学の最も重要な応用例の一つと見なしている、といいま す。オッカムの場合、文字通りの意味というのは、言葉の使用法によって 規定されているのではなく、意味論的な厳密なルール、つまりは論理学的 なルールに則っている、とされるのですね。そのため、それはもはや言及 されている事物からすら独立したものと見なされます。まさに、上の規約 とは真っ向から対立しています。 ゆえにオッカムは、規約が禁じているまさしく当のことを行うことになり ます。意味的に正しいと思われる命題でも、「文字通りには間違ってい る」場合があると明言するのです(『論理学序説注解』)。その一例とし て引かれているのが次のような例です。「「種は類よりもいっそう実体 (magis substantia)である」という一文は、アリストテレスが言う意 味では正しくとも、文字通りには偽とされる」。この命題はいくつかの解 釈が可能なわけですが(いっそう実体、というあたり)、そのままでは意 味をなさないものとして一蹴されてしまいそうです。 パケによれば、ある先行研究では規約の禁止事項とオッカムの考えは一致 していると主張するものもあったようなのですが、それはどうやら翻訳 (英訳)の際の解釈ミスに起因しているらしいのです。ちなみに上で「文 字通りに」としているのは、原文ではde virtute sermonisとなってい て、つまりは「言い回しに鑑みて」という意味です。オッカムが「文字通 りの意味」の誤りにとくにこだわるのは、アリストテレス(などの多くの 著者)を文字通りに理解しようとすると、実に多くの乗り越えがたい問題 に忙殺されてしまうからなのですね。しかもそれは、論理学から学ぶこと のできる厳密なルールへの違反になるというのです。 オッカムが何を言わんとしているのかについては、続く第二章以降に改め て検討されるようなので、さしあたりここでは取り上げません。ただこの 第一章に関する限り、規約の文言はオッカムの考えと真逆で、両者が対立 関係にあることが確認できます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その18) ヘンリクスの『スンマ』第一部問題三から、照明説を扱った箇所を読んで います。さっそく続きを見ていきましょう。 # # # Est enim primo ratio cognitionis ut lux, mentem solummodo illustrando, ut ad intuendam siceram veritatem vel etiam simpliciter veritatem rei acuatur, non ut eam intueatur et iam videat. Deus enim ut lux in mente non facit illustrando nisi quod oculum mentis a nebuliis pravarum affectionum et fumo phantasmatum purt, et quasi spiritualem sanitatem ei tribuat contra languorem caecitationis a dictis affectionibus et phantasmatibus, quae passus fuerat, ad modum quo lux materialis tenebras purgat in aere vel oculo corporis, in quibus etiam oculus diu persistens languorem contrahit cuiusdam caecitationis. / というのも、神はまず、精神のみを照らす光として認識の理をなしている からだ。精神はそれにより、事物の純粋な真理、あるいは端的な真理を見 据えるべく励起されるのであり、事物を見据えるためでも、すでに見たも のとするためでもない。精神の光としての神は、照らすことによって、情 念の歪んだ靄と幻影の煙から精神の眼を浄化する以外になく、先に述べ た、また実際に被った、情念や幻影による無分別の脆弱さに対して、精神 の健全さをもたらすのである。それはちょうど、物質的な光が空気中もし くは肉体の眼における闇を浄化するのと同様だ。眼はその闇の中で長く無 力な状態にとどまり、認識できない状態に陥っているのである。/ / Hinc Augustinus dicit XI De Civitate Dei cap.10 : "Non inconvenienter dicitur sic illuminari anima luce incorporea simplicis sapientiae Dei, sicut illuminatur aeris corpus luce corporea, et sicut tenebrescit aer iste desertus luce, ita tenebrescere animam luce sapientiae privatam". Unde super illud Threnorum, ultimo, "Converte nos et convertemur", dicit Glossa : "Est quoddam velamen sensibus nostris obiectum quod nisi illuminatione Dei fuerit remotum, converti non valemus". Et eius remotio est cuiusdam sanitatis restitutio, secundum quod dicit I Soliloquiorum, "Oculi sani mens est ab omni labe corporis pura". "Nihil" enim, ut dicit consequenter, "plus novi quam ista sensibilia esse fugienda, cavendumque magno opere est, dum hoc corpus agimus, ne quo eorum visco pennae nostrae impediantur, quibus integris perfectisque opus est, ut ad illam lucem ab his tenebris evolemus". /アウグスティヌスは『神の国』第一一巻一〇章でこう述べている。「物 体的な空気が物体的な光によって照らされるかのように、魂が神の端的な 賢慮の非物体的な光で照らされると述べるのは、また、光がなくなれば物 体的な空気が翳るように、賢慮の光がなくなれば魂は翳ってしまうと述べ るのは、至極適切である」。ゆえにその『玉座』についての最後の部分 「私たちは自分を振り返り、あなたに向かうのです」について、注釈はこ う述べている。「私たちの感覚にはなんらかのヴェールがかかっているの だが、それが神の照明によって外されるのでなかったならば、私たちは改 宗するに値しなかっただろう」。その外しは健全さの修復であり、『独 白』第一巻によれば、「健全な精神の眼は、あらゆる肉体的な汚れを免れ ている」のである。したがって、その帰結として言われているように、 「次のこと以上に優れたことはない。この肉体において私たちが生きてい る間、感覚対象を逃れるよう、その鳥もちによって私たちの翼が妨げられ てしまわないよう、大きな注意を払うのである。私たちが闇から出でてそ の光のほうに進み出るには、健全かつ完全な翼が必要なのだから」。 Interim autem, ut dicitur ibidem, "pro sua quisque sanitate ac firmitate comprehendit illud singulare et verum lumen", et hoc differenter, secundum quod determinat. Quorundam enim oculi mentis ita sani et rigidi sunt, ut ad illud lumen immediate se covertant; qui per se vera in illa luce vident, et non doctrina, sed sola fortasse admonitione indigent. Aliorum autem sunt qui non ad illud lumen immediate se convertere possunt, sed ad lumen in specie aliqua; qui debent paulatim manuduci et serenari, ut in illud lumen aspicere valeant, sicut declarat in luce corporali quod "quorundam oculi sunt ita sani et rigidi, ut eos sine ulla trepidatione in ipsum solem convertant, quem alii videre non possunt, sed vehementer fulgore feriuntur, et eo non viso in tenebras cum delectatione redeant. Et ideo prius exercendi sunt, primo videndo non lucentia per se, sed luce illustrata, ut lapides et ligna, deinde fulgentia, ut aurum et argentum, deinde ignem, deinde lunam, deinde fulgur aurorae". だがさしあたり、同書に述べられているように、「みずからの健全さと揺 るぎなさにおいて、この単一かつ真の光を捉える」のであり、制約に応じ て各人が異なる形でそうするのである。ある人々の精神の眼は健全かつ揺 るぎなく、ただちにその光のほうを向き、その光においておのずと真理を 目にする。教えではなくおそらくは想起さえあれば十分なのだ。また別の 人々はその光に直接向かうことはできないものの、なんらかの種のもとに ある反射光に向かうことはできる。少しずつ導き、静謐さへと至らしめ、 その光を認識できるようにしなければならない。物体的光において、こう 言われるのと同様である。「ある人々の眼は健全かつ揺るぎなく、揺らぐ ことなくみずから太陽に向かうことができる。別の人々はそれを眼にする ことはできないないが、その輝きに激しく眼が眩み、それを見ることはで きずに闇に戻って安堵する。だからこそ、前もって修練を積む必要がある のであり、最初は光そのものを見ることはできなくとも、石や木などに照 らされた光を見、後に金や銀のような輝くもの、次に火を、次に月を、次 に曙の輝きを見ていけばよい」。 # # # 今回の箇所から、ヘンリクスは先に挙げた知的理解の三要件を一つずつ取 り上げて論じていきます。まずは励起する光(としての神)という要件で す。最初の二つの段落(これは便宜的に分けたものです)では、その光が 浄化の光としてあることを示しています。精神は情念の霞や幻影の煙で霞 んでいるのに対して、それらを祓うのがその光であるというわけです。三 つめの段落になると、そうした光を直接眼に出来る人と、そうではなく少 しずつそちらのほうへ向かっていく人(大多数の人々はこちらなわけです ね)との区別の話が展開しています。反射光から始めて、発光体へと徐々 に慣れていくという視覚の場合の比喩でもって、知性に関わる真の光との 関わり方を説いています。これは次回以降の本文へと続いていきます。 さて、この本文についてのコメントは先送りにして、とりあえずここで は、参考書の読みを進めておきましょう。前回は、後期のヘンリクスが照 明説に換えて用いていたアナロギアの議論を、加藤雅人氏の研究書で見て みました。神と人との絶対的な距離感を温存しつつ、両者のアクセス路を 開くべく、神のイデアと人間の理解における「事物の本質」概念との間 に、存在論的アナロギアを設定する、というのがヘンリクスの方途でし た。このあたりを少し別の角度から眺めてみることにします。 マルタン・ピカヴェ「ヘンリクスの個体化、本質、存在」という論考(ブ リル刊『ゲントのヘンリクス必携』所収、pp.181-209)を見てみます。 ヘンリクスの時代の形而上学的な基本スタンスとして、一つには存在と本 質を分けるという前提(トマス・アクィナスやエギディウス・ロマヌスな ど)がありました。そこでは「本質」に対して「存在」が「加えられる」 という話になっていました。ですがもし両者が「別物」であるのならば、 「本質」は「存在」が加えられる以前に、それ自体で別様の存在をもって いなければならないようにも思えます。で、ピカヴェによれば、初期のヘ ンリクスの場合、この両者の区別はそれほどはっきりとはしておらず、モ ノの「本質」と「存在」はある程度一致しているのではないかといいます (p.191)。 ヘンリクスは、両者が実際に区別されるという立場でもなく、またその区 別は概念上のものにすぎないという立場でもなく、その両者の中間的区別 があるというやや曖昧な立ち位置だったというのです。「本質」と「存 在」の違いは「志向的区別」であるとされます。どこに注目するかで区別 されるかどうかが決まるということでしょうか。たとえば観想に際して用 いられる知識(本質をめぐる知識ですね)は、実際の「存在」をもってい るわけではありません。ですが存在は本質から完全に独立しているという わけでもなく、いわば本質を越え出たところにあるものです。そのような 存在と本質の関係性は、たとえば外部世界の二つの事物の関係性とは違う ものとして扱うべきだ、とヘンリクスは考えているのですね(p.192)。 ヘンリクスのこの考え方は、のちに二種類の存在を考えるという議論にま でいたります。それが、実在するものの存在(esse actualis existentiae)と本質の存在(esse essentiae)です。前者は後から加え られる偶有的な存在(それが付加されることで実体が完成する存在)、後 者は本質に直接結びついた存在を言います(p.197)。もちろんいずれも 神からもたらされるものとされ、前者は第一の作用因としての神との「時 間的な」関わりに由来するもの、後者は神におけるイデアとの「恒久的 な」関わりに由来するものとされています(p.198)。 この本質の存在という概念を立てた動機について、著者のピカヴェは次の ように論じています。まず、人は多数の事物の「本質」を思い描くことが できるものの、実際に存在しうる本質はそのうちのごく一部でしかなく、 このギャップを埋める必要があること、さらに、実際に存在しうるものに ついてのみ人間知性は定義を与えることができるものの、その定義にはす でにして存在することが前提とされていること。これらから、本質の存在 という考え方が必要とされるのだというわけです。 その一方で、神学的な動機を唱える論者もいる、とピカヴェは述べていま す。ヘンリクスにおいては、本質と本質の存在とが区別されるわけなので すが、これはつまり、実体が本質と存在から成るように、本質自体もま た、狭義の本質(形相?)と本質の存在から成るとする立場にほかなりま せん。本質が複合的なものだとするその議論は、一つには対照的に神の単 一性を強調するためだという解釈もあれば、もう一つには、被造物が神に 対してもつ依存の関係を重視した解釈もあるといいます。前回見た加藤氏 の議論などは、まさにこの後者に与する議論だと言えそうです(ピカヴェ 自身は、さらに範疇論の側からの哲学的な動機付けを自説として示してい ます)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------