silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.286 2015/05/23 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その4) 14世紀のパリ大学の規約をめぐるルプレヒト・パケの研究書を読んでい ます。前回は規約の六つの章のうち、第一章について見てみました。そこ では、規約が推奨していること(字義的な解釈を斥けるな、というもの) がオッカムの立場と真っ向から対立しているのでした。今回から続く第二 章に入ります。 第二章はこんな感じです。「同じく誰も、各項についての個別的代示(意 味)をもとに、ある命題が端的に、あるいは文字通りに偽であると述べて はならない。というのも、そうした誤りは先の(つまり第一章の)誤りに 帰着するからだ。なぜなら著者はときに別の代示(意味)を用いているか らだ」。きわめて短い一節ですが、これに対してパケの議論はかなり長大 なものになっています。とりわけそれは「個別的代示(意味)」 (suppositio personalis)が問題になっているからです。suppositioは 一般に「代示」などと訳されますが、ここでは適宜「意味」とか「記号」 とかに言い換える場合があることを予め断っておきたいと思います。 パケはこの「個別的代示」について、まずはオッカムの議論を検討し、さ らにはビュリダンの議論にまで分け入っていきます。順に見ていきましょ う。オッカムの場合、項(命題を構成する要素ですね)には書かれたもの と発せられたもののほかに、思惟において表示されるもの(概念的な項) があるとされます。この三番目のもの、つまり「概念的な項」が、意味論 的には重要であるとされています。前二者が事後的・人為的に付加される ものであるのに対して、三番目は知覚のプロセスにもとづく「自然な」代 示だからだ、というのですね。 項は命題の中に置かれると、何かを代示します。代示とはつまり指し示す ということです。その代示の仕方を、オッカムは三種類に分類していま す。項が文字や発話の音声そのものを指す場合の「質料的代示」、意識つ まり概念をのみ指す場合の「単純代示」、特定の個々の外的事物を指す場 合の「個別的代示」です。多少付随的な問題もある分類ですが、詳しいこ とは割愛し、さしあたり大局的にこの三つを押さえておくことにします。 さて、ここで大事なのは、オッカムにおいてはこの三番目がとくに重要に なるということです。命題の項がそれ自身(文字であったり、一般概念で あったり)以外の具体的な事物を指すというのは、この「個別的代示」の 場合に限られます。そのため、オッカムにとっては、個別的代示において 命題が偽であるとされるなら、それこそが端的に、あるいは文字通りに偽 であるということになるというのです。外部の事物についての客観的な否 定となるからです。ですがこれは、まさしく上の規約の第二章が禁じてい る考え方です。 というわけで、パケによれば、規約の第二章は第一章と同様に、オッカム をやり玉に挙げていることになります。ただその場合、規約のほうでは、 命題の著者たちがときに「別の代示を用いている」という理由を挙げてい ます。そこで示唆されている別の代示とは一体何でしょうか。パケはこの 疑問を考えるために、いったん伝統的な代示理論を、ペトルス・ヒスパヌ ス(一三世紀)の理論を例にまとめています。詳細は省きますが、ヒスパ ヌスの分類はさらに細かいものになっています。同じ「単純代示」「個別 的代示」でも、ヒスパヌスとオッカムとでは大きく中味が異なってきま す。 ヒスパヌスの場合、たとえばhomoという項が単語としての「人間」を指 す場合、これを単純代示と称しています。オッカムのように、それが意識 の中の表象を指す、といっった意味合いはそこにはありません。また、ヒ スパヌスにおいては、homoがなんらかの特定個人を個別に指している場 合、それが「個別的代示」になります。特定個人に向けられているのに、 普遍的(一般的)な概念が用いられているというケースです。ところがオ ッカムでは、ヒスパヌスとは違い、概念が概念そのものを指すのではない 場合(つまりは外部の個別的事物を指す場合)はすべて個別的代示という ことになります。 パケはこれを、両者のアプローチの違いとしてまとめています。つまり、 個別的代示に関して、オッカムは「知覚の状況」、つまりは個々の事物か らアプローチしているのに対して、ヒスパヌスのほうは、言語から、発せ られる言葉からアプローチしているというのです。オッカムにとって言語 的な記号は、副次的に秩序づけられるものでしかないというのです。で、 この違いは、どうやら後に取り上げられるビュリダンの議論にも大きな影 響を及ぼしていくようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その19) 引き続き、照明説についてのヘンリクスの議論です。さっそく見ていきま しょう。 # # # Unde Plato, qui secundum Augustinum XIII De Trinitate "posuit animas vixisse ante corpora" et liberam idearum lucem percepisse, posuit quod animae nube corporis obumbratae primo nullam habuerunt sincerae veritatis cognitionem in idearum luce, sed solum phantasticam in luce creaturae, sed quod abstractione a sensibus corporis semper magis ac magis depurarentur et veritate sincera in idearum luce illustrarentur quasi reminiscendo sub nube corporis oblita, ita quod in nuda luce idearum, quae est divina essentia, veritates rerum videre non poterit nisi totaliter a corpore et sensibus corporis vel per mortem vel per raptum fuerint abstractae. Unde dicit Augustinus I Soliloquiorum quod "illa lux se ostendere dedignatur in hac cavea inclusis, ut ista vel effracta vel dissoluta possint in aures suas evadere". それゆえ、アウグスティヌスの『三位一体論』一三巻によると「魂は肉体 よりも前に生を受け」自由なイデアの光を認識していたと考えていたプラ トンは、次のように考えた。肉体の雲で翳ってしまった魂は、最初はイデ アの光における純粋な真理のいかなる認識も持っておらず、ただ被造物の 光のもとに幻影を抱いているだけだ。だが、肉体の感覚を捨象すること で、次第にいっそう純化していき、肉体の雲のもとで忘れていたことを思 い出すかのように、イデアの光のもとで純粋な真理によって照らされるよ うになる、と。このように、イデアの光によってありのままの姿であるも の、つまりは心的な本質、事物の真理を見ることは、死もしくは強奪によ って、肉体ないし肉体の感覚から完全に離れる以外にはできないのであ る。ゆえにアウグスティヌスは『独白』第一巻でこう述べているのであ る。「その光は、その肉体の檻に閉じ込められた者に広がるのをよしとし ない。その檻が壊されるか瓦解して、大気の中へと逃れるようになるまで は」。 Et est advertendum quod lux ista, quando illuminat mentem directo aspectu, tunc illuminat ad videndum tanquam obiectum ipsam divinam essentiam, quae ipsa est. Quod modo in vita ista facere non potest, quia infirma mens non valet in directum huius lucis fulgorem aciem mentis figere, secundum quod dicit Augustinus I De Trinitate cap. 2: "Est acies mentis nostrae invalida, nec in tam excellenti luce figitur nisi per virtutem fidei nutrita vegetetur", "ut ad perceptionem incommutabilis veritatis imbecillem mentem observata pietas sanet". Sed haec sanitas, nisi vinculo corporis solutae fuerint, eis advenire non poterit, secundum quod dicit in Epistola ad Italicum, unde sumptum erat argumentum ultimum: "Cum venerit Dominus et illuminabit abscondita tenebrarum et manifestabit cogitationes cordis", "lux ipsa qua illuminabuntur haec omnia, qualis aut quant sit, quis lingua proferat ? Quis saltem infirma mente contingat ? Profecto lux Deus est. Erit ergo tunc mens idonea, quae illam lucem videat, quod nuc nondum est". そしてまた次のことを知らなくてはならない。この光は、精神を直接的に 照射するときでさえ、対象物そのものである神的な本質が見られるように 照らすのである。この世の生にあっては、そのような仕方で見ることはで きない。脆弱な精神は、精神の眼をその光の輝きへと直接据えることはで きないからだ。それについてアウグスティヌスは『三位一体論』第一巻第 二章でこう述べている。「私たちの精神の眼は、信仰の力で育まれ活気づ けられない限り、その卓越した光を直視することは適わない」。「普遍の 真理を認識すべく、慎重な信仰が無力な精神を健全にするように」。だが その健全さは、肉体の枷が解かれるのでなければ達成できない。『イタリ ア人への手紙』では、その最後の議論にこう言及されていた。「主がやっ て来るとき、闇の秘密が照らし出され、心の思索が明らかになるだろ う」。「そうしたすべてを照らすその光はどのようなものなのかか、どれ ほどのものなのか、いかなる言葉が預言しうるだろうか?どんな脆弱な精 神が触れることができようか?当然ながら、その光は神である。したがっ て、しかるべき精神のみが、その光を眼にできるのだが、いまだそのよう にはなっていない」。 Quando vero lux ista illuminat quasi obliquo aspectu a suo fonte, tunc illuminat ad videndum alia a se, sicut lux obliquata a sole in medio illuminat ad videndum alia a sole, non ipsum solem. Et ideo sicut lux ista solis materialis non illuminat oculum ad videndum se nisi in recto aspectu, sed alia tantum, sic divina lux, cum quasi obliquo aspectu illuminat, solum illuminat ad videndum alia a se, se ipsam autem nequaquam. Sic autem illuminat secundum communem huius vitae statum ad cognoscendum sinceram veritatem vel etiam quamcumque rerum primo diffundendo se super species rerum et ab illis in mentem ad formandum in ipso perfectum conceptum de re ipsa ad modum quo lux corporalis primo diffundit se super colorem ad informandum visum perfectum oculi. Et ita sicut "color est motivum visus secundum actum lucidi corporalis", sic res quaelibet intelligibilis per suam speciem est motivum visus mentis ad sincerae veritatis vel etiam qualiscumque cognitionem secundum actum lucidi spiritualis. Debet autem ad propositum ista similitudo sufficere, quia, ut dicit Augustinus I Soliloquorum cap.21, "Lux quaedam est invisibilis et incomprehensibilis mentium. Lux ista vulgaris nos doceat quomodo illa se habeat". Sic ergo, in quantum Deus est ratio videndi et intelligendi sub ratione lucis illuminantis solum ad videndum alia a se, nullo modo hic a nobis cognoscitur aut videtur, quia solum est ratio videndi, nullo autem modo obiectum visus. しかしながら、その光が光源から間接的に照らすとき、それは他のものが 見られるようにと照らすのである。間接的に媒質を照らす太陽からの光 が、太陽そのものではなく、それ以外のものが見られるよう照らすよう に。したがって、太陽の物質的な光が眼を照らすのは、直視の場合を除 き、光そのものを見るためではなく、それ以外の他のものを見るためであ り、同様に神的な光も、間接的に見るがごとくに照らすが、それは他のも のを見るためにのみ照らすのであり、光そのものを見ることは決してな い。ところで、それはこの生に共通の状態にもとづいて、純粋な真理、も しくはあらゆる事物の真理を認識するため照らすのだが、まずは事物の形 象の上に広がり、次いでそこから、その事物の、それ自体で完全な概念を 形成すべく精神の中へと至る。それは物体的な光が、眼において完全な視 覚を形成すべく、最初に色の上に広がるのと同様である。かくして、「色 は透明な物体の度合いに応じて視覚の動機をなす」ように、知的対象とな るあらゆる事物は、その形象によって、透明な精神の度合いに応じて、純 粋な真理、もしくは任意の認識の動機をなす。この命題についてはその類 似性で十分であるはずだ。なぜなら、アウグスティヌスが『独白』第一巻 二一章で述べているように、「光というものは不可視であり、精神にとっ て理解不可能である。世俗の光は、その[別の]光がどのように出来てい るのかについて私たちに教えてくれるだろう」からだ。よって神が、他の ものだけを見るべく照らす光の理のもとで、視覚と知解の理をなしている 限り、この世ではいかなる形でも私たちは神を知り見ることはできない。 なぜなら、神はあくまで視覚の理でしかなく、いかなる形でも視覚の対象 にはならないからだ。 # # # 最初の段落は、前回の最後の段落で触れられていた、一般の人間は段階的 な知性の高まりによって徐々に「神的な光」を受けられるようになるとい う議論の続きになります。続く二つの段落は、やはり物理的な光との比喩 でもって、神的な光が事物を照らす場合もそれは間接的に(斜めに)照ら すのだということが繰り返し述べられています。すでに何度か出てきてる ように、光は何かを照らすことによって、いわばその反射光によってその 光の存在が明らかになるのであって、神の照明そのものは認識対象には据 えられない、ということになります。この今読んでいる『スンマ』の第一 部問題三は、「人間は、他のものを知る拠り所となる神の光を認識する か」という表題でした。これまでの箇所で、答えはすでに明らかと言えそ うです。 * さて、参考文献の読みです。前回は『ゲントのヘンリクス必携』から、存 在に関するマルタン・ピカヴェの論考を見てみました。今回は同書収録 の、同じくピカヴェによる別の論考を見てみます。第七章に相当する「ゲ ントのヘンリクスによる形而上学論」(pp.153-179)です。とくにヘン リクスによる「存在の類比」論絡みの考察に注目したいと思います。 まず復習になりますが、ヘンリクスにとっての二つの命題、つまり「神こ そが第一の認識対象である」という命題と、「存在こそが知性が最初に掌 握するものである」という命題との整合性について、著者のピカヴェは検 討しています。前者の命題は、一三世紀のフランシスコ会派においてとく に優勢とされたものだったといいますが、ヘンリクスはそれに洗練された 擁護論を与えたとされています。ヘンリクスは、知性はまず不確定・非限 定的なものから認識し、徐々に限定的なものへと進んでいくと考えていた わけですが、そこで二つの非限定的なものを区別します。前にも見ました が、これが「欠如的非限定」と「否定的非限定」です。 前者は、たとえば個別の「善きこと」に対して普遍概念としての「善」を 言います。個別には限定されていないという意味で、それは「欠如的」非 限定というわけです。これに対して後者は、実在としての善がなんら与ら ない根源的な「善性」を指します。実在の善ではないという意味で、「否 定的」というわけです。そして知性がまずもって理解するのは、この否定 的限定なのだとヘンリクスは言います。個別の「善きこと」を知るには、 その以前に普遍概念の「善」を知らなければならず、さらに「善」を知る には、それ以前にそもそもの「善性」を知らなければならないのですね。 そしてここでの善性とは神の善性そのものなので、結局神こそが第一の認 識対象だということになるわけです。 この図式は「善」以外にも、様々な概念に当てはまります。ここで重要な のは、ヘンリクスが「対象を知る」ことと「知る対象を他の対象から区別 する」ことを分けて考えていることです。対象を知るからといって、必ず しもそれを区別的に知るとは限らないわけです。ピカヴェによれば、この ことは存在論を考える際の有益なツールになるといいます。 人間知性が被造物の「存在」について理解する際にも、まずは非限定的な 「存在」を把握するわけなのですが、その際の非限定は、人間知性が神の 「存在」について理解する場合の非限定とは種類が異なることになりま す。これにより、「存在」に関して被造物と神との間には一義性のような ものはないという議論が有効になります。ところが人間の知性は、善にせ よ存在にせよ、被造物と神との別種のものをどこか不明瞭な形で混同して しまうのだとヘンリクスは言います。近接する概念を混同するのが知性の 本性で、それは本来的に概念における誤りをなしてしまう、というのです ね。しかもそれは神についての理解、つまり第一概念においてもそうだと されます。 ピカヴェによれば、この「不明瞭な理解」について示されるパッセージ は、存在の一義性の議論を唱える人々への批判であるとともに、それがい かに生じるかの診断を下している部分でもあるといいます。重要なのは、 人間知性がまずは欠如的非限定としての善や存在を「離散的に(区別的 に)」認識するのであって、否定的非限定としての善性や「存在」は不明 瞭にしか認識できないということです。それがヘンリクスにとっての、人 間知性の「弱さ」なのだというのですね。この話、次回にも少しだけ続き ます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------