silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.287 2015/06/06 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その5) 前回に引き続き、パリ大学自由学芸部の規約から第二章の周辺について、 ルプレヒト・パケによる研究書で見ていきましょう。この第二章では、 「個別的代示において偽とされる命題を、文字通りに偽、あるいは端的に 偽としてはならない」との進言がなされています。これはオッカムの考え 方と真っ向から対立するものでした。前回はまた、その「個別的代示」を めぐり、従来の代示理論(ペトルス・ヒスパヌスの例で見ました)とオッ カムとで基本的な考え方が異なっていることも見ました。オッカムにとっ ては「個別的代示」のみが、外界の事物を指すものなのでした。 その違いはとても重要です。オッカムの見解からすると、伝統的に知られ ている命題の解釈も、ものによってはまったく別様になってしまうからで す。例として挙げられているのが「人間は最も威信のある被造物である」 という命題です。伝統的には真であるとされるこの命題をオッカムは考察 し直します。この場合の「人間」という項を、オッカムは個別的代示とは 認めません。もしそこでいう「人間」が個別の「この人間、あの人間」で あるとするなら、命題は個別の人間についての命題ということになり、特 定の個人が最も威信のある被造物であるということになってしまいます。 それは明らかに偽です。 ではそこでの「人間」は単純代示(意識の内容を指す代示)なのでしょう か。その場合でも、同命題は偽となります。オッカムによれば、人間を表 す意識が最も威信ある被造物ではないからです。伝統的な代示の理論でな らば、単純代示は普遍的事物を表すとされますが、オッカムはもちろんこ れも認めません。となると、もはやオッカムとしては、この命題を端的に 偽とするしかないように思われます。ですが、一方でその命題には、聖書 の伝統そのものの真理として異義を差し挟めないのではないか、という異 論も出てきていました。 そこで導入されるのが、「字義的に偽」という考え方です。「人間」が個 別的代示であるとした場合、その命題は偽になりますが、同命題を字義的 に取るのでなければ必ずしも偽にはならない、という議論です。その命題 を発した者は、なんらかの正しいことを述べようとしている、というのが その論拠になります。発する者が意図したのは個別的な人間についての見 識ではないのだけれど、言語上の制約というか誤りというか、偽の形でし か表現できなかった、というのですね。オッカムはみずからが陥る手詰ま りの状況を、こうして打破しようとしたのでした。 「文字通りには偽だが、そこに与えられた意味によれば真」という考え方 を用いるならば、オッカムはさしあたり、自説の新しい代示の議論と、従 来の伝統的な議論とを和解させることができると考えたようです(もちろ ん、それで万事オーケーというわけにはいかないのですが、それはまた後 の話になります)。上の例でいうならば、命題を発する者の意図として は、個別の人間が普遍的に威信のある被造物であるというのではなく、個 別の人間は、人間でない他の被造物よりも威信があるということを述べた かったのだと解釈されます。 この解釈を下支えするために、オッカムは発話について「実際に遂行され た行為態」(actus exercitus)と「単に表示されただけの行為態」 (actus signatus)とを分けています。前者は事実として(外部の事象に ついて)発話がなされている命題を言います。たとえば「人間は動物であ る」という場合などです。そこでは外的事象について述べられているので すから、「人間」も「動物」も個別的代示と考えることができます。これ に対して後者は、潜在的に何かについて何かを述べることができる場合を 言います。たとえば「動物は人間の述語になりうる」という命題では、 「動物」が「人間」について実際に断定されているわけではなく、人間に ついて動物であると言えることが表示されているだけです。外的事象を扱 っているわけではないので、そこでの項は単純代示ということになりま す。オッカムは、これら両者の混同こそが、多くの誤りを説明づけている と考えます。 上の「人間は最も威信ある被造物である」という命題も、本来は「表示さ れただけの行為態」であるのに、「遂行された行為態」と見なされたとい うわけです。つまり、「最も威信ある被造物」は「人間」の述語としう る、と本来はすべきだったというのですね。その場合なら「人間」も「最 も威信ある被造物」も単純代示となります。これが「遂行された行為態」 と混同されたために、あたかも個別的代示のように見なされてしまったと いうわけです。 私たちの自然な感覚からすると、なにやら詭弁っぽい感じがしなくもない 議論ですが(笑)、いずれにしても、そうした誤り、あるいは不明瞭さを あえて認めるならば、それは発話ないし命題に広く潜んでいそうなことが 見て取れます。著名な権威であっても、さらには聖書であっても、それは 同様ではないか、ということになりそうですね。まさしくこれが、大学の 規約がそのような解釈を禁じている大きな理由ということになります。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その20) 照明説の説明ということで、知的理解の三要件をそれぞれ詳述している箇 所を読んでいます。続きの部分をさっそく見ていきましょう。 # # # Secundo modo Deus est ratio cognitionis ut forma et species mentem immutans ad intuendum, secundum quod dicit Augustinus II De libero arbitrio : "Anima quadam forma incommutabili desuper praesidente et interius manente formatur". Quae, ut forma est, imprimit per modum indistinctae cognitionis ad modum quo species coloris apud visum, quae imprimit formam sine figurae determinatione; unde nullam distinctam cognitionem facit de re. Et quia in tali notitia adhuc est ut ratio solum disponens et formans indistinctos conceptus mentis ad cognoscendum rerum veritatis, non ut obiectum cognitum, ideo adhuc non solum non cognoscitur cognitione distinctiva, sed nec simplici notitia. 第二の様態では、洞察のために精神に変化をもたらす形相もしくは形象と して、神は認識の理をなしている。アウグスティヌスが『自由意志につい て』第二巻で述べているところによれば、「魂は、なんらかの不変の形相 によって形成されているが、それは上方から司るとともに内面にとどま る」。魂は形相である限りにおいて、視覚において色の形象が限定された 外形をともなわずに形相を刻印するように、不明瞭な認識によって刻印す る。ゆえに事物について明瞭な認識は得られない。また、そうした理解に おいては、神はいまだ、事物の真の認識に向けて精神に不明瞭な概念を割 り当て形成する理としてあるのみで、認識の対象としてあるのではない。 したがって神はいまだ、明瞭な認識によって認識されるのではないばかり か、端的な理解によって認識されるのでもない。 Tertio modo est ratio cognitionis ut exemplar atque character transfigurans mentem ad distincte intelligendum, et hoc ratione aeternarum regularum in divina arte contentarum, quae conditiones rerum omnes et circumstantias exemplant tamquam figurae exemplares omnes angulos et sinus earum indicantes in quibus expressa rei veritas continetur, quam res ipsa in se continet habendo quidquid de ipsa suum exemplar repraesentat; quae in tantum falsa esset in quantum ab illa deficeret, sicut imago dicitur falsa in quantum deficit ab imitatione sui exemplaris. Et propter hoc proxima et perfecta ratio cognoscendi sinceram veritatem vel simpliciter veritatem de re quacumque, perfecta, distincta atque determinata cognitione, est divina essentia in quantum est ars sive exemplar rerum imprimens ipsi menti verbum simillimum veritati rei extra per hoc quod ipsa continens est in se ideas et regulas aeternas, expressissimas omnium rerum similitudines, quas imprimit conceptibus mentis; per quod etiam sigillat et characterizat ipsam mentem imagine sua et expressissima, sicut anulus ceram; quae "non migrando, sed tamquam imprimendo, transfertur", ut dictum est. 第三の様態では、明瞭な知解のために精神に変容をもたらす範型および印 として、神は認識の理をなしている。それは神の業のうちに含まれた恒久 的規則の理によってそうなのであり、範型の外形としてあらゆる事物の条 件と状況を例示す。あらゆる角度や湾曲が示されるが、そこには事物の真 理の表出が含まれる。それは、おのれの範型が表象するあらゆるものをも った事物がみずからのうちに含んでいるものであり、ゆえにその範型に背 くほどに偽であるとされる。ちょうど、範型への模倣から背くほどに像は 偽であるとされるように。そしてこのことゆえに、あらゆる事物の純粋な 真理もしくは端的な真理の認識を得るための近似的で完全な理は、完全で 明瞭かつ決定的な認識により、それが神の業もしくは事物の範型として、 外的な事物の真理に最も類似した言葉を精神に刻印する限りにおいて、神 的な本質をなしている。みずからのうちに恒久的な、事物のあらゆる類似 物のうち最も表出的なイデアと規則を含みもち、それらを概念でもって精 神に刻印するからである。それゆえ精神は、その最も表出的な像を刻ま れ、それによって印づけられるのだ。ちょうど指輪が蝋を刻み、印づける ように。よって、言われるように「移すことによってではなく、刻むこと によって移しかえられる」のである。 Si enim verbum veritatis in mente de re quacumque est "formata cogitatio ab ea re quam scimus", ut dicitur XV De Trinitate cap 9, et "veritas est adaequatio rei et intellectus", verbum perfectum veritatis debet esse formata cogitatio secundum summam et perfectam similitudinem ad ipsam rem, quae non potest esse nisi exemplar illud aeternum, quod perfectam et expressissimam similitudinem rei in se continet, in "nulla ex parte dissimilem", ut dicit Augustinus in fine De vera religione, quia "plena est omnium rationum viventium" et ideo expressissima omnium similitudo, ad quam omne quod est tanquam simile a simili productum est, et ad cuius imaginem et imitationem habet quidquid in eo veritatis est. Propter quod dicit Augustinus IX De Trinitate cap. 7 : "In illa aeterna veritate visu mentis conscipimus, atque inde conceptum rerum veracem notitiam tamquam verbum apud nos habemus quod dicendo intus gignimus nec a nobis nascendo discedit". 仮に、精神におけるあらゆる事物の真理の言葉が、アウグスティヌスが 『三位一体について』第一五巻九章で述べるように、「私たちが知ってい る事物によって形成される思惟」であり、「真理とは事物と知性との一致 である」とするなら、完全な真理の言葉は、事物への最高かつ完全な似像 にもとづいて形成される思惟ではなくてはならない。そのような似像は、 恒久的なその範型以外にない。それはみずからのうちに、完全かつ最も表 出的な事物の似像を含んでいるのであり、アウグスティヌスが『真の宗 教』の末尾で述べたように「似ていないところなどない」ものである。な ぜならそれは「生きるもののあらゆる理に満ちている」のであり、したが って、あらゆる似像のうちで最も表出的だからである。存在するあらゆる ものは、範型があるからこそ類似から類似として産出されるのである。ま たその像と模倣があればこそ、みずからのうちになんらかの真理を含みも つのである。ゆえにアウグスティヌスは、『三位一体論』第九巻七章でこ う述べているのだ。「その永遠の真理において、私たちは精神の眼をもっ て見、そこから得られた事物の真の理解を、私たちは言葉としておのれの もとにもつのである。それは内面の言葉によってを私たちが生み出すもの だが、生まれてもなお私たちのもとを離れはしない」。 # # # 知的理解の三要件のうち、前回までのところはそのうちの第一の要件、す なわち励起する光としての神についての話でした。今回は二つめと三つめ の話になります。二つめが精神の変容を促す形象としての神(視覚の喩え では色の形象に相当します)、三つめが範型としての神(視覚の喩えなら 具体的なかたちに相当します)となっています。二つめにおいては不明瞭 な認識が精神に刻印されるとされ、三つめにおいて範型による、より明瞭 な認識が刻まれるという次第です。ですが第二、第三の要件・様態を与え られたとしても、神そのものを認識の対象に据えることはできないとされ ています。ここにはすでにして、神へと接近する通路を開くことと、神そ のものへの到達を阻む大きな溝との、ある種の緊張関係、せめぎ合いが見 出されるように思われます。 さて、それにも関連しますが、今回も参考文献を読み進めてまとめておき ます。これまた前回に引き続き、ピカヴェの論考の後半部分です。神との 絶対的な距離と接近のための通路とのせめぎ合いは、上の認識論もそうで すが、存在論においても同様に見受けられるものでした。ヘンリクスは人 間の存在を、神の存在からの絶対的な距離を担保しつつ、それと接続でき る道を探していたわけです。ピカヴェはこれを形而上学の可能性という側 面、つまり存在の根拠や属性をいかに問うかという観点から検討していま す。それはまた、究極には神というものを形而上学で論証できるかという 問題にも行き着きます。 ヘンリクスにとって、あらゆる被造物の存在の根拠(原因)は、もちろん 神の存在以外ににはありません。ですが論証的な学問としての形而上学か らすると、存在の根拠として存在を持ち出すというのは奇妙な議論でしか ありません。そのため、結論から言うと、ヘンリクスは個々の存在の根拠 を形而上学で扱うことは断念します。 とはいえ、存在についてその属性を問うことはできなくもありません。と いうか、形而上学が厳密に学問として成立するには、それが対象とするも のの基本属性を検証できなくてはならない、とヘンリクスは考えていたよ うです。存在に関しての属性は、一性や善、真であることなどの超越的属 性が問題になるので、ことは複雑かつ問題含みなのですが、いずれにして もヘンリクスが、形而上学の存立そのものを守ろうとする立場にあったこ とだけは確かなようです。 ではその学問は、究極の存在として神を対象に据えることができるのでし ょうか。ヘンリクスはそれこそが、あらゆる学知の究極の目的であると捉 えていたようです。もちろんあくまで被造物についての学知を通じて、迂 回的にしか接近しえないものではあります。ただピカヴェによれば、ヘン リクスは、形而上学は神についての存在証明のみならず、神の「何性」 (それが何であるか)すら知ることができる、とまで考えていたようで す。これは、神の何性は知りえないとしていたトマス・アクィナスと対立 している部分だとも言われます。 神の存在証明については、ヘンリクスはヘイルズのアレクサンダーによる 『普遍神学大全』およびトマスの『神学大全』に依拠した伝統的なものに とどまっているといいます(アンセルムスの存在証明は取り上げられてい ないのですね)。それらは感覚的対象からの推論によるア・ポステリオリ な証明ということなのですが、それにアヴィセンナ由来のア・プリオリな 存在証明が加えられます。つまり、より普遍的な知的命題からの演繹によ るものです。存在には原理があり、その原理は必然的な存在であり、あら ゆる存在の拠り所だというわけなのですが、ヘンリクスは人間の魂は「弱 さ」ゆえにその論証を進めることができないと説いています。 細かい議論には立ち入りませんが、ヘンリクスのア・プリオリな神の存在 証明は実のところ、明確には書かれていないようだとピカヴェは指摘して います。ただ、あらゆる作用因はおのれに類似する何かをもたらす、とい うのがヘンリクスの基本前提だったことは確かで、第一原因のもたらす現 世的な帰結はその第一原因に相当離れた形でしか類似しないとされるにせ よ、その類似性だけでも、物質的実体と非物質的な第一実体(神)との溝 を架橋するには十分だとされたふしがあるようです。ヘンリクスにとって の形而上学もまた、このように神と被造物との溝を際立たせ、その上で架 橋の可能性を示唆する学知だったわけですが、ここでもまた、人間の魂の 「弱さ」が強調されているのですね。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------