silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.288 2015/06/20 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その6) 前回は、規約の第二章とオッカムによる代示理論との対立を見てきまし た。底本にしているルブレヒト・パケの研究書は、次に規約の起草者では ないかとも言われたビュリダンの思想を検証しています。ビュリダンはち ょうどその規約が出る直前に総長になっていたからですが、実際そのあた りはどうだったのでしょうか。まずはそのビュリダンが代示をどのように 捉えていたかという問題からです。 パケによると、ビュリダンにおいて特徴的なのは、オッカムでは意識の内 容を指すとされた「単純代示」をもはや用いず、言語的記号を指す「質料 的代示」に含めてしまっていることです。意識内容の表示もまた指示の質 料をなしているのだから、質料的代示があればそれで事足りてしまうとい うわけです。つまりこれは、「記号そのもの」を拡大解釈していると言え そうです。 代示の全体的な分類の中ではどう位置づけられるのでしょうか。ビュリダ ンの分類はまず第一の層として、単語がそれに固有の意味で用いられてい るか、それとも比喩的な意味で用いられるかによって、「固有代示」と 「非固有代示」を分けます。次いで、「質料的代示」と「個別的代示」を 区別します。前者は、言葉それ自体かもしくは類似物(広く記号となりう るもの)、さらには言葉が直接表す概念を指しています。後者は現実の 個々の事物を指す場合を言います。外的な事物を指すのはこの後者の場合 だけです。このあたりはオッカムと同様です。ただしビュリダンは、これ をあえて「意味的代示」(suppositio significativa)と呼び換えていま す。 パケによれば、ビュリダンの場合、言葉は事物からさらに遠ざかっている ようだといいます。その距離感はオッカムの場合以上です。言葉はもはや 知覚された事物そのものを指すのではなく、その概念的な表象を指すとさ れます。また真偽の判断も、言語的な命題から、表象された命題へと移っ ていきます。心的な命題こそが真か偽かの判断の対象となります。そんな わけで、たとえば「普遍」もあくまで概念として、意識における表象を指 すとされ、言葉は概念に従属することになります。まさにこれは概念主義 の立場で、オッカムとも重なります。ただ、オッカムにおいては、事物を 指す個別的代示が対象を広く取っていて、それが「膨らんで」いました が、ビュリダンにおいては上の質料的代示のほうが対象を多く含み、膨ら んでいる感じです。 ビュリダンの代示の分類は、前に出てきた伝統的理論の代表格、ペトル ス・ヒスパヌスのものをベースとしているため、一見それを単になぞって いると見えてしまう、とパケは述べています。ところが注意深く見ると、 ペトルスの枠組みを継承しつつも、重要な用語を変更させたりしながら独 自の理論を述べているのだとわかる、というのですね。で、その独自性と いうのは、本質的にはオッカムの議論とそう変わらないものなのだといい ます。オッカムは自由奔放な言い方をするせいで盛んに批判を受けるわけ ですが、ビュリダンはもっと慎重で、巧い立ち回り方をするという違いが あるようです。 仮にビュリダンがオッカムの「一派」に属していたのだとすると、その一 方で当該の大学規約の執筆者、もしくは少なくともそれが公布されたとき の総長と目されるというのはちょっと解せませんね。ですが、どうやらこ こにはちょっとした事情があるようです。総長というのは持ち回りの職務 だったようで、一ヵ月ごとに選出されていたようです(この規約が調印さ れた1340年もそうだったのかどうかはパケの論考からは分かりません が、一応そうだったと仮定しておきます)。ピケによれば、ビュリダンが 選出される直前の前任者は9月23日から10月21日まで総長を務めていた ようです。ビュリダンは10月に総長となったと推測されるのだそうです が、この年は例外的に次の総長選出がずれ込み、12月23日ごろに新しい 総長が選出されたといいます。規約の署名は12月29日となっており、つ まり新しい総長が就任後わずか一週間後で署名を行ったことになります。 新しい総長がスピード署名したということは、規約の審議自体は前の総 長、つまりビュリダンのもとで行われていた可能性が高いということで す。ここから推察されることとしてピケは、もしかするとその規約への署 名をビュリダンが拒み、先延ばしにしていたのではないかと述べていま す。なにしろ規約の中味はビュリダンにとっても厄介な内容を含んでお り、下手をするとビュリダン本人にも関係してくるものだったかもしれな いからです。さらには、次期総長の人選の遅れ自体も、この規約がらみで 生じたのではないかという推測すら成り立ちそうに見える、と……。そう 考えるならば、ビュリダンが起草者だった可能性もほぼ消えることになり ます。 ビュリダンの話はまだ次回も続きます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その21) 今読んでいる問題三もいよいよ大詰めに近づいています。ではさっそく今 回の箇所です。 # # # Et nota quod licet talem conceptum perfectae similitudinis in mente format solummodo divinum exemplar, quod est causa rei, cum hoc tamen ad conceptus formationem necessarium est exemplar acceptum a re, ut est species et forma rei a phantasmate accepta in mente. Sine illa enim nihil de re quacumque concipere potest intellectus noster in tali statu vitae in quali sumus. Sine forma enim et specie generali habita de re non potest habere generalem de ea notitiam, sine forma speciali non potest habere notitiam specialem, et sine forma particulari vel speciali particularibus conditionibus determinata non potest habere notitiam particularem. Quam exemplar aeternum debet illustrare et cum ea in conceptu mentis ad veritatem sinceram vel etiam veritatem simpliciter percipiendam impressionem facere, sicut lux corporalis illustrando colores cum eis facit impressionem ad informandum visum, ut sic verbum quod non est simillimum neque sincerae veritatis seu etiam veritatis simpliciter expressivum, formatum a sola specie et exemplari accepto a re, si tamen ad illud exemplar sine adiutorio et impressione exemplaris aeterni verbum aliquod poterit informari, fiat simillimum et sincerae veritatis vel etiam veritatis simpliciter expressivum solum ab exemplari aeterno. Unde de Moyse, cuius nullam habemus notitiam particularem per speciem ab ipso abstractam, nullum veritatis verbum ad ipsum cognoscendum potest in nobis formari, et cum Petrus vidit eum in transfiguratione ex sola specie recepta ab ipso, nescivisset quia Moyses fuisset, nisi specialem revelationem de eo habuisset. また、注意しなくてはならないが、精神にもたらされるそのような完全な 類似の概念は、事物の原因である神の範型によってのみ形成されるにせ よ、精神において幻影が事物の像や形相を受け取るように、その概念の形 成には、事物によって受け取られた範型が必要なのである。それがなけれ ば、私たちの知性は、私たちがいるような生命の段階にあってはいかなる 事物をも概念として捉えることはできない。事物についての慣例による像 や一般的な像がなければ、それについての一般的な知覚は得られないし、 特殊な形相がなければ特殊な知覚も得られない。諸条件で決定づけられた 個別の形相ないし個別の像がなければ個別の知覚も得られない。(その形 相こそが)永遠の範型が照らし出すものであり、それとともに精神の概念 には、純粋な真理もしくは端的な真理の理解に向けた印象が刻まれる。ち ょうど物体的な光が色を照らし出し、それとともに視覚を形成するための 印象が形作られるように。言葉は最も類似したものでも、純粋な真理でも なく、また端的な真理の表明でもないが、そのように像と事物が受け取る 範型からのみ形成されるのである。しかもそれは永遠の範型による助けも 刻印もなしに、なにがしかの言葉を形成できるのだ。そしてその言葉は、 永遠の範型のみによって、最も類似したもの、純粋な真理、端的な真理の 表明をなすのである。ゆえに、私たちが抽象的な像によって個別の知覚を 有するモーセについては、その人を認識するためのいかなる真理の言葉も 私たちの中には形成されえない。ペテロがその人から受け取った像のみに よる変容として見た際、その人についての特殊な啓示を得ていなかったな らば、それがモーセであるとは知りえなかったであろう。 Ad videdum ergo formationem talis verbi in nobis et mentis informationem ad cognitionem sincerae veritatis vel cuiuscumque, sciendum quod duplex species et exemplar rei debet interius lucere in mente tanquam ratio et principium cognoscendi rem : una scilicet species accepta a re, quae disponit mentem ad cognitionem ipsi inhaerendo; altera vero est quae est causa rei, quae non disponit mentem ad cognitionem ei inhaerendo, sed ei illabendo et praesentia maiori quam inhaerendo, in ea lucendo. Istis siquidem duabus speciebus exemplaribus in mente concurrentibus, ut ex duabus confecta una ratione ad intelligendum rem cuius sunt exemplar, mens concipiat verbum veritatis perfecte informatae ad perfectam assimilationem veritatis quae est in re, in nullo disconvenientis, ut ad modum quo prima veritas sigillavit rem veritate quam habet in essendo, sigillet etiam mentem ipsam veritate, quam habet in eam cognoscendo, ut eadem idea veritatis qua habet res suam veritatem in se, habeat de ea veritatem ipsa anima, ut sic sit expressa similitudo verbi ad rem ipsam et utriusque ad eius exemplar primum, sicut est expressa similitudo duarum imaginum in diversis ceris ab eodem sigillo et inter se et utriusque ad exemplar commune in ipso sigillo. そのような言葉が私たちのもとに形成され、純粋な真理もしくはあらゆる 真理を認識すべく精神が整えられることを理解するには、事物の像と範型 の二つが、事物の認識の理および原理として、精神の内奥を照らす必要が あることを知らなくてはならない。すなわち、事物から受け取る像は、そ れに付随する認識のために精神を整え、もう一方の範型は事物の原因であ り、それに付随する認識のために精神を整えはしないが、精神に入り込 み、それに付随する以上に大きな現前をもって照らすよう精神を整えるの である。これら二つの像と範型は精神において競合し、それら二つから、 範例のもとをなす事物の理解に向けた一つの理が構成される。事物に内在 する真理との、いかなる不一致もない完全な同化のために完全に形作られ た真理の言葉を、精神は理解する。そうして、第一の真理は、その存在の うちにもっている真理によって事物を刻印するのと同じやり方で、認識の うちにもっている真理によって今度は精神を刻印する。こうして、事物が みずからのうちにおのれの真理をもつ拠り所としての同じ真理のイデアに よって、魂も事物についての真理をもつことになる。こうして言葉とその 事物との類似が表明され、また第一の範型との両者の類似も表明される。 ちょうど、同じ印章から別の蝋で表明された二つの像が互いの類似を表明 し、また両者がその印章にある共通の範型との類似を表明するように。 # # # 照明説はもちろん神が精神を照らすことでよりより認識が可能になるとい うことが主軸ですが、その前提として、事物そのものに刻印された像ない し範型が認識対象にならなくてはなりません。今回の箇所はそのあたりの ことを詳しく述べています。神的な照明がいくらなされようとも、事物の 像そのものがなければ、当の事物はそもそも認識されないし、その純粋な 真理の理解も得られません。照明と事物の像との協同があればこそ、一つ の理が形成されるというわけです。 私たちはここで、照明説のその後についても少しだけ見ておきたいと思い ます。アウグスティヌスの思想はもちろん一四世紀以降も継承されていき ますが、照明説そのものは次第に後退していく印象を受けます。たとえば アウグスティヌスを盛んに引用し自説のベースとするリミニのグレゴリウ スにしても、照明説そのものははるか後景へと退いている印象でした。唯 名論をベースにした認識論的な精緻化にともなって、照明説の命脈も徐々 に尽きていくかのように見えます。 ですが、それは表面には出ずとも脈々と息づいていたのかもしれません。 たとえばその一つの例が、ルネサンス期の人文主義者、ピコ・デラ・ミラ ンドラに見いだせるようです。これまでもつまみ食いしてきた論集『ゲン トのヘンリクス必携』から、論集の末尾を飾るアモス・エデルハイトの 「ゲントのヘンリクスとジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ:ルネサ ンスにおけるスコラ哲学の受容と影響に関する一章」を見てみましょう。 ピコは15世紀に活躍した哲学者ですが、スコラ哲学には敬意を持って接 していたといいます。彼の主著である『九〇〇の提題』(後に他の人々の 手によって『人間の尊厳について』と改題された)には、ヘンリクスにま つわる提題が一三題入っているといい、また尊敬に値すべき哲学者とし て、スコラ関係ではドゥンス・スコトゥス、トマス・アクィナスのほか、 エギディウス・ロマヌス、メローヌのフランシスクス(スコトゥスの弟 子)、アルベルトゥス・マグヌス、そしてゲントのヘンリクスの名が挙げ られています。 ピコのもっていた蔵書の研究によると、ヘンリクスの『スンマ』と『自由 討論集』のほか、誤ってヘンリクスに帰されていたらしい書物などが含ま れていたといいます。『九〇〇の提題』に含まれる一三の提題は、テーマ 的には多岐にわたっていますが、照明説的なものも含まれています。「信 仰の光よりも上位の光が存在し、それによって神学者は神学の真理を目に する」というものです。それぞれの提題の出典などは必ずしもはっきりし ているわけではないようですが、論文著者はヘンリクスのテキストを参照 して、ソースを探っていきます。 上の照明説的な提題については、『スンマ』の第七部問題一が主要なソー スとされています(ほかに、副次的に第一部問題二なども言及されている のだとか)。そこでは、神学には信仰によってのみ保持される事象という ものがあり、それを神の光が助けるという話が細かくなされているようで す。確かに、ヘンリクスの照明説的な議論は『スンマ』の随所に散らばっ ている印象です。ヘンリクスにおいては、神学のみならず学知全般におい て、神の光の介入が必要とされるわけですが、ピコはというと、ヘンリク スほどにはラディカルではありません。そうした神の光による助けはあく まで神学の領域にのみ限定されると考えているようです。ピコは人文主義 者ですから、哲学などの一般的学知には自然の能力のみを認める立場に立 ちます。ですが、少なくとも神学の領域については、そうした自然の能力 を越えたものの介入を認めている、ということのようです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------