silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.289 2015/07/04 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その7) ビュリダンは果たして本当にオッカムの一派に属していたのでしょうか。 ルプレヒト・パケは続いてその点を確認していきます。ビュリダンの代示 理論が、用語は違えどオッカムのものと重なっていることは前回見た通り です。また、オッカムが考えていたような「意図としての意味」と「文字 通りの意味」との違いに対応するような物言いも、ビュリダンに見出すこ とができるといいます。ビュリダンが用いる「virtus sermonis」(言葉 の潜在力)と「proprietas sermonis」(言葉の固有の意味)です。ビュ リダンは言葉の固有の意味をかざして事物について語るのはひどく難しい と述べていて、オッカムと同じように、「文字通りの意味」では必ずしも 表象していることに一致していない伝統的な命題を、こうして選り分けよ うとしているようです。 一方、ビュリダンの発言と大学の学芸部の規約の本文との間には、一致す る点がいくつかあるといいます。パケが挙げている実例をここでは引きま せんが、それを見ると、ほとんど同一の文面といえる箇所が散見されるよ うです。これを見る限り、ビュリダンを規約の起草者と見なす説も、ある 程度頷けるように思えます。ですがそうなると、これではまるでオッカム 派の論者がオッカム当人を批判しているような話になってしまいます。こ れをどう解きほぐせばよいのでしょうか。 パケはここで、今度はビュリダンとオッカムの差異について検証します。 まず注目されるのが、上の「言葉の潜在力」と「言葉の固有の意味」の区 分です。ビュリダンにとっての「意味」というのは何でしょうか。どうや らそれは、言葉が指す表象、ひいてはその表象の先にある外部の事物で す。ビュリダンの場合には、表象を問題にしつつも、言葉よりも外部の事 物のほうに重きを置いている、とパケは見なしています。命題の項が真で あるのは、その言葉に対応した外的な事物において主語や述語が成り立つ ことをいう、というのがビュリダンの基本的な考え方だといいます。逆に 言うと、そのように確定されないものは「非現実」だとされ、「文字通り の意味」にはなりえないことになります。 オッカムもビュリダンも、言語的な世界(言語によって理解される世界) が必ずしも現実に適合していないことを体験している世代なのですね(ビ ュリダンはとりわけ数学的な文言でそうした乖離を経験しているようで す)。ただ両者は、そういう体験にどう反応するかで決定的に異なってい るといいます。オッカムの場合には、「文字通りには偽」であるような命 題がある一方で、意味と文面が一致していて「文字通りにも真」である命 題が存在することも認め、「文字通りであること」がどのようなことであ るのかを改めて再構成しようと努めます。いわば両者の乖離を埋めようと するわけです。一方のビュリダンは、「文字通りには偽」であるような伝 統的命題の存在を認めた上で、そのような「文字通りの意味」にもあえて なんらかの賛同を示そうとします。 オッカムがなんとか言葉と事物との確固たる一義的な意味を再構成しよう とするのに対し、ビュリダンは言語使用の恣意性を、つまりは主体性の恣 意性をよしとするというわけです。ビュリダンの場合、問題とされるのは もはや言語ではなく、むしろ意識における事物の表象ということになるわ けで、果ては意識が言語を介さずに事物のほうへと直接的に向かうという 認識論的立場を採択しているといいます。ビュリダンにおいて文献よりも 実験や観察が重視されることの背景には、そうしたスタンスがあるような のです。 で、そのような言語と「世界」との結びつきを再構成しようとする動きを 牽制することこそ、規約に反映された思想的立場なのではないか、とパケ は考えています。その意味で規約はビュリダンの立ち位置に近く、やはり 糾弾されるのはオッカムだということになります。オッカム(とそのある 種の一派)が言語に拘り続けていることが、批判されるべき当の問題なの ではないか、言葉とモノとの古くからの繋がりこそが批判の対象であり、 そこに与することは主体中心の新たな現実観を損なうのではないか、とい うわけです。 つまりビュリダンは、出発点となったオッカムの考え方(代示理論や普遍 概念についての理解)には賛同しているものの、すでにオッカムを越えた 部分については、むしろ「規約」の側に賛同している、というわけです。 規約は、「正しいことを述べようとしている」ことを条件に、「文字通り には偽」あるいは個別的代示において偽という宣言を禁じていたのでし た。文字通りの意味が偽であっても、その意図が正しいことを述べようと している限り、その命題を断罪してはならないという立場は、まさにビュ リダンの考え方に重なってきます。ということは、ビュリダンが起草者も しくは支持者であった可能性も捨てきれないということになってしまいま す。この問題、どう決着がつくのでしょうか? (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その22) ヘンリクスの『スンマ』から第一部の問題二を読んでいますが、これもい よいよ大詰めです。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Et sunt in conceptu huius verbi duo consideranda, ut perfecte discernamus quid agat in eo exemplar temporale, et quid exemplar aeternum. Est enim in eo considerare aliquid materiale et incompletum, et aliquid formale et completum, ut illud incompletum fiat perfectum et completum. Ex exemplari enim accepto a re habet quod materiale est in ipso, et incompletum similitudinem ad veritatem rei, sicut ipsum est similitudo rei incompleta, per quam ex puris naturalibus mens nata est concipere veritatem rei incompletum, si tamen ad hoc possit ex se sine exemplari aeterno ut dictum est supra in quaestione proxima, quia forte, sicut in fine illius quaestionis dictum est, illud exemplar acceptum a re, quod dicitur similitudo rei incompleta, non sufficit ad hoc, ut mens ex solis naturalibus veritatem rei, etiam quantumcumque incompletam, concipiat sine illustratione et informatione divini exemplaris. Et exemplari autem aeterno recipit complementum et informationem perfectam, ut sit verbum expressae similitudinis ad rem extra, sicut ipsa species aeterni exemplaris per illius ideam propriam est perfectissima similitudo, ad quam res ipsa est producta, et per quam solummodo habetur de re in mente vel simpliciter vel sincera veritas et infallibilis scientia. こうした言葉の概念においては、二つのことを考慮しなくてはならない。 その概念において、時間的な範型が、また永遠の範型が何をなすのかを、 私たちが完全に認識できるようするためである。すなわち、その概念にあ っては、物質的で不完全なものと、形相的で完全なものとを考えなくては ならないのだ。それによって、不完全なものを完璧かつ完全なものにする ためである。事物が受け取る範型に由来するこの概念は、みずからのうち に物質的なものをもっており、それは事物の真理に対しては不完全な似像 をなす。ちょうどそれ自身が事物の不完全な似像であるように。精神は純 粋な本性上、それを介して不完全な事物の真理を理解するようにできてい るーー不完全だというのは、上述の前の問題で触れたように、精神は、た とえ永遠の範型がなくともおのずからそうできる。おそらく、前の問題の 末尾で述べたように、事物が受け取る範型、つまり不完全な事物の似像と 言われるものは、精神が本性のみによってなにがしか不完全とされる事物 の真理を、神的な範型の照明も形成もなしに理解するには十分ではないか らだ。だが精神は、永遠の範型から完全性と完璧な形成とを受け取り、そ うして外的事物を表す似像の言葉となる。永遠の範型の像が、それに固有 のイデアによってこの上なく完全な似像をなし、それにもとづいて事物が 産出され、ただそれのみにもとづいて、精神の中に、事物についての端的 な、あるいは純粋な真理と不可謬の学知がもたらされるのである。 Et cum tale verbum perfectae veritatis formatum fuerit in anima, est ibi considerare tres veritates sibi correspondentes : primo veritatem exemplaris divini; secundo veritatem rei productae ab illa; tertio veritatem in conceptu mentis ab utraque expressam, quae est tanquam conformitas utriusque et ex utriusque ratione concepta et menti impressa, qua mens formaliter vera nominatur. Quantum enim est ex parte rei extra, ratio conceptus illius est species eius apud animam; quantum vero ex parte Dei, ratio eius est exemplar aeternum lucens in eius intelligentia. Et quia ista species accepta a re est imperfecta ratio conceptus dicti verbi, lux vero Dei est perfecta ratio eius, ut dictum est, ideo dicit Augustinus I libro De libero arbitrio quod in cognitione veritatis rerum veritas aeterna exterius "admonet, interius docet, de illa nullus iudicat, sine illa nullus recte iudicat". Admonet quidem per speciem acceptum a re, quam ad suam similitudinem produxit, secundum quod dicit ibidem libro II : "O suavissima lux purgatae mentis sapientia! Non cessas innuere nobis quae et quanta sis, et nutus tui sunt omne creaturarum genus". Docet autem per illam similitudinem eandem qua rem ipsam produxit, "ut dispositio cuiusque rei in esse sit sua dispositio in veritate et cognitione". そのような完全な真理の言葉が魂のうちに形成されたとき、それに対応す る三つの真理を考えなくてはならない。一つめは神的な範型の真理、二つ めはそこから産出される事物の真理、そして三つめはその両者により表さ れる精神の概念における真理である。これがその両者に適合するものであ る限り、また両方の理から形成されて精神に刻まれる限り、精神は形相の もとで真であると称されるのである。外的事物からすれば、その概念の理 は魂におけるその像だということになるし、神の側からすれば、その理と は知性において輝く永遠の範型ということになる。事物が受け取る形象 は、言葉と称される不完全な概念の理であることから、上述のように神の 光がその完全な理なのである。したがって、アウグスティヌスは『自由裁 量について』第一巻においてこう述べているのだ。事物の真理の認識にお いては、外部の永遠なる真理が外から「促し、内側から導くのであり、そ れについては誰も裁かず、誰もそれなしには正しく裁けない」。同書の第 二巻が述べるところによれば、促すというのは事物が受け取る形象によっ てであり、それはその似像のために[永遠の真理が]産出したものだ。 「おお、精神を浄化するこの上なく甘美なる知恵の光よ!なにしろ、あな たはご自身が何者で、いかほどであるのか、常に私たちに合図を送ってく ださり、しかもあなたの合図はあらゆる被造物の類なのですから」。事物 を生み出したのと同じその似像によって、永遠の真理は教えをもたらす。 「かくして、あらゆる事物を存在にいたらしめる采配は、真理と認識にお ける采配をもなしている」。 # # # 前々回あたりから、verbum(言葉)という語が何度か出てきています。 前々回の箇所では、アウグスティヌスが引かれて、「永遠の真理から得ら れた事物の理解を、人は言葉としておのれのうちにもつ」と記されていま した。前回の箇所では、それは純粋な真理ではなく、像と範型(事物に宿 る)から生じるものだとありました。言葉が形成される段階ではまだ神の 照明は関与しておらず、自然の能力だけで形成されるもの、と説明されて います。どうやらそれは、外的な事物から自然もたらされる理解(ただし 不完全な)を指しているようです。その後に神の光に照らされて、その不 完全な理解は真の理解にいたるというのですね。 今回の箇所では「言葉の概念」という言い方がなされています。以上のこ とから推測するに、ここで言う「言葉」は、事物の像にもとづきその像を やや浅く捨象した、現代的に言うなら「観念」(事物について抱く意識) に相応するものと考えられます。概念が抽象度の高いものだとすると、 「言葉」はそこまでのものではなく、むしろ観念、つまりその概念を指し 示す内的言語、いわば精神の中での像の表象のようなものなのでしょう。 さらなる捨象には、神の範型による「光」の作用が必要になってくる、と いう謳いでしょうか。以前、ヘンリクスには存在論的な表象主義(表象に 独自の存在論を認める立場)があるという話に触れましたが、この内的言 語はあるいはそうした表象の独立性を指しているのかもしれません。内的 言語についてはこんな感じでもっと追っていくこともできそうですが、そ れはまた別の課題になりそうです……。 さて、ここでは前回も見たピコ・デラ・ミランドラによるヘンリクス思想 の取り込みを、もう少し眺めておくことにしましょう。前回と同じく、ア モス・エーデルハイトの論考からです。ピコが取り込んでいるヘンリクス のテーゼの一つとして、関係性についての議論があります。ピコの提題で は「特定の、定義可能な現実性をもつことは、虚構と虚構でないものとの 両方に共通している」「現実の関係が複数あるためには、一つの基礎がそ れ以外の他の基礎に対して、またその基礎自身の完成に対して、設定され なくてはならない」「関係は基礎から実際には区別されない」などが、ヘ ンリクスの議論にもとづいているというのですね。 論文著者によれば、もとになっているヘンリクスの関係論とは次のような ものです。あらゆる被造物は、一つの範疇に属することから絶対的な実在 をもつわけですが、その一方で、「関係」という範疇によって、別の事物 に対する相対的な実在ももっています。そしてこの関係性そのものは偶有 的なものなので、それぞれの実在に即した関係というものも偶有を基礎に していることになります。つまり、事物には事物そのものの基礎と、事物 相互の基礎とがあるというわけです。さらに、事物の概念も、現実に対応 する実在をもつ真の概念と、そうした対応する実在をもたない空虚な概念 (虚構)とがあるとされ、一方で神のもとにその概念が存在するならば、 真の概念か虚構の概念かにかかわらず、神がその範型をなしている、とさ れます。 事物はこのように(1)本質と偶有の両方の側面をもち、(2)両側面の それぞれに基礎があって、(3)虚構か否かにかかわらず、遡ればそれは 神の範型に行き着くという意味での「現実性」をもっている、というわけ ですね。ピコの提題は文面的にそれらの議論を反映しています。論文著者 は、ピコがヘンリクスの存在論・認識論の深いところも理解していたのだ ろうと見ています。ピコは自説の支えとして多くの権威に言及しているよ うなのですが、その一つとしてヘンリクスのこうした議論も援用されてい るのだとか。 それにしてもこの本質的部分と偶有的関係性の話はなかなか重要そうで す。人間の認識に神の光が必要とされるのは、そうした偶有的関係性を事 物から排除できないからなのではないでしょうか。なぜ排除できないかと いえば、関係性は事物相互の基礎をもなしているからです。ピコにしたが って「関係は基礎から区別されない」のだとしたら、偶有もまた上流部分 で基礎づけられている以上、人間はその偶有的関係性から逃れる術をもた ず、それを通じて事物を理解するしかなくなります。さらに、人間が理解 する概念もまたそうした関係性に彩られているわけですから、外部に対応 物をもたない虚構の概念を認識する場合であれ、構造的にそれは「実在的 な」偶有性を帯びていなくてはならないように思われます。上でも触れた ヘンリクスの「実在論的表象主義」との絡みで言えば、それこそがまさに 神のもとでの概念(実在的な偶有性がない)との大きな溝をなしている、 と考えることができそうです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------