silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.290 2015/07/18 ============================== *お知らせ いつもお読みいだたきありがとうございます。本メルマガは原則隔週の発 行ですが、例年通り7月下旬から8月下旬までは夏休みとさせていただき ます。そのため次号の発行は8月29日となります。今年は一ヶ月以上空い てしまいますが、ご理解のほど、お願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その8) 前回と前々回とで見たように、問題の大学規約が出される直前の総長だっ たビュリダンをめぐっては、相反する仮説が示されているわけですが、こ の両者をともに包摂するような推論は可能なのでしょうか。ルプレヒト・ パケはそこに、当時のオッカム派がその精神的な父を批判する巧妙な手立 てを見て取っています。 オッカムの「単純代示」はそれ以前の同概念とは異なり、意識の内容を指 すとされました。この違う理解が、当時の普遍論争のいわば基底をなして いたのだとされています。つまり、現実的な事物というのは個々の事物以 外にないことがその概念から導かれるわけです(オッカムの場合には「個 別的代示」が現実世界の個物を表す唯一の代示なのでした)。パリ大学の 規約は、そうした論争の火種になりそうな概念の定義には口をつぐみ、一 言もはっきりとは触れずにいます。どこか曖昧さを残しつつ、問題の所在 を暗示しているだけに見えます。これはすでにして、巧妙な立ち振る舞い と言えるのかもしれません。もっとも、ビュリダンが「単純代示」を「質 料的代示」と言い換え、「個別的代示」も「意味的代示」と言い換えるな ど、当時は様々な著者が各種の別表記を用いており、そこに、規約におい て定義や定式化がなされていない理由の一端があった可能性もあります。 一方で、パケによると、規約は「前向きの逃避」を行っているとも言われ ます。つまり、言葉から完全に離れることを謳い(「ある命題が端的に、 あるいは文字通りに偽であると述べてはならない」)、それによってオッ カム派にも反オッカム側にも同時に正しさを認めているというのです。言 葉から離れることで字義的解釈全般を避けることができ、オッカム派は溜 飲を下げることになり、また一方で、言語は個物を指すのではなく普遍的 な「意味内容」を指すとしていた旧来の実在論にも、納得のいく解釈の余 地が残されるというわけです。ただしこの実在論側には、これ以降、重要 なのは言葉ではなく事物(個々の)だとする相手側の議論への反論を封じ られてしまう結果にもなるわけなのですが……。 とにかく、重要なのは、こうして刷新する側(オッカム派側)にある種の 妥協案、折衷案を見つけることが容易になった点です。規約の草案作成の 委員会には両サイドの支持者がいたとも考えられる、とパケは指摘してい ます。と同時に、これはまさに「言語から離れて体験される世界」とい う、新たな世界観、近代的ともいえる価値観を表しているとも解釈でき る、とパケは見ています。そういう観点からすると、規約は双方の立場 (教説)に関する部分については明示的・感情論的な宣言を避け、双方の 立場と露骨に対立しないよう、きわめて難しい舵取りをやってみせている ことになります。 ですが、やはりこれでは推測の域を出ません。そのことはパケ自身も認め ています。もしかすると一切が偶然の産物で、実際に規約は別の総長の選 出後に署名され、その後に公表されたのかもしれませんし、また逆に、実 際にビュリダンが周到な外交的手立てによって自分の総長任期中に規約を 起草し、けれどもその責任を負わないよう公表を遅らせていたのかもしれ ません。決定的な証拠はなく、どちらの可能性もそれなりにありえたよう に思われます。 パケによれば、ビュリダンに限らず、当時のオッカム派は慎重な外交的努 力を重ねなくてはなりませんでした。彼らの「新しい教説」の研究は「密 かに」行われなくてなりませんでした。規約が出された当時は、現実につ いての新たな概念が台頭し「存在と意識の関係」が明確に問われるように なっていたにもかかわらず、オッカムのシンパたちはまだ地下に潜ること を余儀なくされていたといいます。 そんな中、ビュリダンは自分だけでなく、一派の他の人々に対しても支援 をもたらしていたのではないか、というのがパケの見立てです。規約は累 積的なものなので、当時はまだ、それ以前のオッカム派への禁止措置が残 存していた可能性もあるといいます。ビュリダンはそこで、やや特殊な問 題(言語からの離脱)に注意を集め、またその問題の解決策を示すことに よって、新しい世界観の信奉者たちがやみくもに糾弾されないよう、いわ ば盾になっていた可能性があるというわけです。 オッカム派の流儀そのものを侵害することのないよう、ビュリダンが巧妙 に外交的立ち回りをなしたのだとすれば、それはまさに「近代への道 (via moderna)」の第二段階だった、とパケは述べています。当時の 政治的な要請に背くことなく(つまりオッカム主義の禁止に立ちふさがる ことなく)、状況を若干修正した(新たな形而上学の進展に少しばかりブ レーキをかけてみせた)というのですね。この推論を、規約のほかの章で も検証していくことが、次の課題となっていきそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その23) ヘンリクスの『スンマ』から、照明説を取り上げた部分を読んできました が、そろそろ読了としたいと思います。今回の箇所は少し短いのですが、 これでヘンリクスの自説部分が終了し、後は異論への反論となります。反 論部分は割愛したいと思いますので、いちおう今回をもって、ヘンリクス の『スンマ』読みはいったん最終回となります。では見ていきましょう。 # # # Unde patet quod peccant qui ponunt quod prima principia et regulae speculabilium sunt impressiones quaedam e regulis veritatis aeternae, et cum hoc non ponunt aliquam aliam impressionem fieri aut informationem in nostris conceptibus a luce aeterna quam illam solam quae fit a specie a re accepta adiutorio lucis naturalis ingenitae. Nisi enim conceptus nostri a luce aeterna assistente nobis formarentur, informes manerent nec veritatem sinceram vel etiam veritatem simpliciter continerent, ut dictum est. Nec potens est lumen naturalis rationis ut ad ipsam concipiendam illuminare sufficiat, nisi lumen aeternum ipsum accendat. Et ideo Augustinus docens inquirere notitiam sincerae veritatis dicit De vera religione : "Noli foras ire, in te ipsum redi, ratiocinantem animam transcende. Illuc ergo tende, unde ipsum lumen rationis accenditur". Unde nec bene dicunt quod Augustinus intendit videri in regulis aeternis illa quae videntur in illis principiis, ut a luce tamen aeterna speciali illustratione non impressis. ゆえに、視覚の対象となるものの第一の原理や規則は永遠の真理の規則に よって刻印されると考え、しかもその際、永遠の光によって私たちの概念 にほかの刻印や形成がもたらされるーーそれのみが、生来の自然光の助け によって事物に受け入れれた形象なのだがーーとは考えない人々が、誤っ ていることは明らかである。私たちの概念が、永遠の光に支援されて私た ちのうちに形成されるのではないとしたら、それは言われているように、 形がはっきりしないままであるだろうし、純粋な真理も端的な真理も含ん ではいないだろう。また自然の理性の光は、永遠の光が照らすのでなけれ ば、理性自身が思い描くべきものをみずから照らすのに十分であるように はできない。だからこそアウグスティヌスは、『真の宗教について』にお いて、純粋な真理の理解を求めよと教示する際にこう述べているのであ る。「外に出ようとせず、おのれのうちに止まり、理性的魂を越えよ。理 性の魂によって照らされる場所へと進んでいくのだ」。したがって、「ア ウグスティヌスはその原理に見いだせることを永遠の規則にも見いだそう としていたが、とはいえそれは永遠の光の特殊な照射によって刻まれるわ けでない」、というのは正しい見識ではない。 # # # 底本としている仏訳対照本によれば、今回の箇所で批判されているのはト マス・アクィナスその人です。底本の訳注には次のように解説されていま す。トマスの場合、認識の第一原理というのは、神によって人間の精神に 吹き込まれ、あらゆる学知の起源をなす種子的理性のことを言います。そ の原理は、神にもとにある恒久的な理性との類比により、直接的な明証性 をあらかじめもっているとされます。 他方、神は人間に能動知性の力を注ぎ込んでいるといいます。自然な認識 のプロセスにおいて、それが人間知性を「照らし」、潜在から顕在へと移 行させるというのですね。したがってヘンリクスによれば、トマスは認識 における神の業を、「生み出されたのではない自然の光」、つまり能動知 性の働きに縮減してしまっているというわけです。これがヘンリクスのト マス批判ということになります。 ですが前にも触れたように、ヘンリクスは後期になると照明説から後退 し、能動知性の働きを考えるようになります。以前見た加藤雅人氏の研究 書によれば、ヘンリクスは能動知性を二つに分けています。一つは神その ものとしての能動知性、もう一つは魂に属する能動知性です。前者が照ら すとき、人間知性は「対象の純粋真理を見」、後者が照らすときには、 「対象の想像的真理を見る」とされます(『ガンのヘンリクスの哲学』p. 103)。この想像的真理を見るというのは、「対象が神のイデアと一致し ているかどうかを知ることなしに普遍を見る」(同)ということを意味し ます。 さらに、前者の神の能動知性は、「射し込む光」ではなしに、むしろ質料 に形相を与える「技術知」であると加藤氏は指摘しています。「可知的形 相の貯蔵庫として、人間知性に真なる知を刻印する技術知」(p.104)だ というのですね。この刻印する技術知という論点は、これまで読んできた 箇所にも似たような議論があり(蝋に印璽で形が刻まれるという比喩があ りました)、前期の論点の発展形であることがわかります。 こうしてみると、能動知性をめぐってもトマスとヘンリクスの間には、一 元論的な認識構造か、他律的な二元構造かの違いがあるように思われま す。このトマスとヘンリクス、両者の関係・関連性もまた興味深いところ です。加藤氏の著書の第4章はヘンリクスの存在論を扱った章ですが、こ こにとても興味深い指摘があります。トマスのエッセ概念がもっていた 様々な固有の性格は、20世紀のトマス研究によって明らかになっていっ た経緯があるわけですが、逆にそうした豊かな性格が中世以降、どのよう にして見失われていったのかはほとんど検証されていないといいます。 で、トマスのエッセがもっていた意味の崩壊は、トマスの直後くらいから 始まっていたのではないか、その第一歩に、実はヘンリクスの解釈があっ たのではないか、というのです。「トミストたちの間違ったトマス解釈 は、ヘンリクスにその源泉を見ることができる」(p.134)。これはなん とも刺激的なテーゼです。 そのあたりの話、とても面白そうなのですが、ここでは踏み込む余裕があ りませんでした。今後また別の形で振り返っていきたいとと思っていま す。今回はヘンリクスの照明論を中心に眺めてきましたが、ヘンリクスの 思想内容は、とりわけ『自由討論集』などを見れば実に多岐にわたってい ますし、経年的な思想内容の変遷もあります。その全貌・全体像はなかな か掴めないところですが、今後もまた折りに触れ、見ていけたらと思って います。 * さて、以上でとりあえずのヘンリクスの読みは了とさせていただきます。 次回からは、14世紀のパドヴァのマルシリウスの政治論を読んでみたい と思っています。主権在民思想の先駆とも言われるマルシリウスですが、 その先駆性といったあたりは特に注視してみたいところです。どうぞお楽 しみに。ちょっと早いかもしれませんが、皆様もよい夏休みをお過ごしく ださい。 *本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みを挟むため、次号は08月29日 の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------