silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.291 2015/08/29 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その9) 夏休みを挟んでしまいましたが、またボチボチと再開したいと 思います。ここでは14世紀のパリ大学自由学芸部が定めた規約 について、ルブレヒト・パケの研究書に即して見ています。こ の学部規約は、当時影響力を増していたオッカム派の思想を批 判する内容になっています。ところがその規約の発布前に総長 を務めていたのが、オッカム思想に連なるビュリダンだっとい うことで、規約をめぐって微妙な政治的駆け引きがあったので はないか、というあたりが前回までのお話でした。 今回は規約の第三章を見ていきます。大まかな粗訳ですが、そ れは次のようなものです。「いかなる命題も(意味を)区別し てはならない、などと誰も述べてはならない。さもないと前述 の誤りを導いてしまう。学生が命題の一つの意味を学び、教師 は別の意味を意図していたら、命題(の意味)が区別されない 限り、その学生は虚偽を学ぶことになってしまう。同様に、反 論する側が一つの意味で理解し、弁護する側が別の意味で理解 する場合、命題の意味の区別がなされなければ、純粋に言葉を めぐる空論になってしまう」。 これもオッカム派を意図した規定なのでしょうか。意味を区別 しないということは、命題の字義的解釈の当然の帰結です。前 に見たように、字義的解釈について規約は、端から否定しては ならないと定めていました。対するオッカム派は、従来の伝統 とは異なる独自の代示理論をもとに、字義的解釈を否定してい ました。 パケはここで、意味の区別(distinguere)とはどういうこと なのかを、例によってまずはペトルス・ヒスパヌス、次いでオ ッカム、さらにビュリダンの順に見ています。まずペトルスの 場合には、まだ意味の「区別」は命題理解の重要な役割を担う にはいたっていないとされます。区別が必要とされるのは、せ いぜい同形異義や同義語、撞着表現(命題の二つの語が互いに 矛盾するような場合)などで両義性が生じる場合に限定されて いるのですね。ところがこれがオッカムともなると、両義性は もっと定義の幅が広くなり、同義語や同形異議語に加えて代示 やそれ以外の観点なども含まれるものとなります。 オッカムも、同形異議や膠着表現の場合(「偶然的両義性」と 呼んでいます)や、同義語や複数の意味での仕様が可能な場合 をも挙げてはいますが、ペトルスにはないオッカムの独自の論 点として、命題が異なる複数の代示を表しうるような場合を考 えています。「人間というのは言葉である」という命題があっ たとして、「人間」を質料的代示(文字そのものを指すという こと)と取るなら、「人間」という語は言葉なので、命題は真 になります。ですが「人間」を個別的代示(個人ないし個物を 指す)と取るなら、特定個人・任意の個人は言葉ではないの で、命題は偽となります。また、上で代示以外の観点と言いま したが、オッカムは次のような例を挙げているといいます。 「isti asini sunt episcopi」という文があったとき、この episcopiを単数属格と取るか、複数主格と取るかで意味がまっ たく違ってきます。前者なら「それらの驢馬は司教のものであ る」ですが、後者なら「それらの驢馬は司教である」になりま す。 両義性を考える際に、代示の問題をも取り込んだのがオッカム の新しさだとするなら、ではオッカムは「区別」をどのように 考えているのでしょうか。パケによれば、膠着表現などの場合 には、基本的に両義的な意味のどちらなのかをはっきりさせる 必要があるとして区別を義務づけているといいます。また、同 形異議のようなケースでは、主語・述語関係で両義性が解消さ れないような場合に、とくに区別が必要になるとされます。た とえば「home currit」(人は走る)なら、homoは人間の意 味に限定されますが、「homo depingitur」(人が描かれる) の場合、homoには「人物像」の意味もあり、場合によって意 味の区別が必要になります。 個別的代示はあらゆる項に関係しますが、単純代示や質料的代 示は、その項が発声や文字そのものを指すような特定の場合に しか関係してきません。上の例を代示に絡めると、「homo currit」でhomoが単純代示・質料的代示となることはまずあ りません。currereが意識内容や文字について言われることは ないからです。ですが「homo est species」(人間とは種で ある)の場合、speciesは意識の表象としての種を表すと考え られるので、単純代示(その場合の意味は「人間という表象は 種的概念である」)と見なすことも可能です。また、個別的な 人間を指すことも当然できるので、個別的代示(「個人は一つ の種に含まれる」)での解釈も可能です。このように両義性が 生じていることから、意味の区別は必要になるはずです。 あれれ?でもそうすると、オッカムは、こうした意味の区別を せよと述べている印象になってしまいます。ですがパケはここ で注意が必要だと説きます。オッカムの議論では、区別が必要 となるのは、「命題の構成要素が二つの意味を含み、一方の意 味と結びつく別の二つめの要素が、もう一方の意味にも結びつ きうる場合」、あるいは「二つめの構成要素によって、一つめ の構成要素が意味の上で、個別的代示であるほかに単純代示で もありうるような場合」に限定されているのです。つまりオッ カムは、区別をするのは例外的な場合に限り、原則としては区 別はないという立場なのではないか、というのですね。 もちろん、だからといってオッカムが「意味の区別をしてはな らない」と述べたことにはなりませんが、パケの考えでは、オ ッカム派の人々がややこの部分を誇張的に解釈していた可能性 もあるのではないかということです。また、オッカム派に批判 的な勢力が、規約の起草に際して、批判対象の思想を故意に極 端視してみせた可能性もありそうです。この話、もう少し続き ます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その1) この連載では、新たにパドヴァのマルシリウスを読んでいきた いと思います。マルシリウスはパドヴァ生まれの14世紀の政治 学者ということなのですが、例によってその生涯は微妙に不明 な点も多いようです。生年なども明確には画定していないよう で、1275年から1280年頃と幅があるようです。没年も同様 で、1342または43年とされています。マルシリウスはパドヴ ァの名家の一つ、マイダルディーニ家の生まれで、まずはパド ヴァ大学で医学を修め、次いで1312年頃パリで学問を続け、 自然学に長けた人物としてパリ大学の総長も務めています。 その後はパドヴァで医者をしたり、放浪したりしていたような のですが、いつしかパリに戻り、そこで1324年に主著となる 『平和の擁護者』(Defensor pacis)を書き上げます。これ は反教皇的な立場の著作で、いわば「行動のための書」だとい います。教会が世俗世界をも支配するという従来の図式を完全 に否定し、むしろ教会の支配権こそ国家から与えられるものだ としていたり、あるいは教会がもつ支配権も、神から与えられ るのではなく民から与えられるのだと説いていたりする、なん ともラディカルな主張が展開されているのですね。 同書の完成後、マルシリウスはパリを離れます。従来、同書の せいで追われたなどと言われてきましたが、実際のところは今 一つはっきりしないようです。マルシリウスは、1324年に教 皇ヨハネス二二世と仲違いをして破門されていたルートヴィヒ 四世(バイエルン大公)のもとに赴き、同書を献上して、ジャ ンダンのジャン(ヨハネス)とともにその庇護下に身を寄せる ことになります。宮廷の相談役となったマルシリウスは、ルー トヴィヒ四世のイタリア遠征にも同行したようで、ルートヴィ ヒ四世に帝位継承を宣言(1328年)させる立役者になった、 ともいわれます。 『平和の擁護者』は上で触れたように「行動のための書」だっ たわけですが、それを地でいくかのように、ルートヴィヒ四世 はローマで人民の集会を開いて、教皇ヨハネス二二世の罷免を 宣言します。この宣言でのマルシリウスの暗躍も、必ずしも歴 然としているわけではないようですが、その後反教皇を選出す るプロセスには深く関わっているようです。いずれにせよマル シリウスは、自身をも破門に処した教皇ヨハネス二二世への復 讐を果たします。教皇を異端とし、その支持者たち(教皇派) を弾圧するのに成功したかたちです。 とはいえ教皇派も黙ってはおらず、しばらくすると勢力を盛り 返してきます。反教皇ニコラウス五世として選出されていたコ ルバラのペトルス(フランシスコ会)は、結局教皇ヨハネス二 二世に降伏します。このあたりでマルシリウスはルートヴィヒ 四世とともにバイエルンに戻ります(1330年)。その後はマ ルシリウスに目立った動きはなく、余生として宮廷生活を送っ たものと考えられています。とはいえ、ルートヴィヒ四世のそ うした動きは、教皇職すらも皇帝側の特権の対象になりうると いう前例を作り、教皇と世俗権力の間にパワーバランスのよう なものをしつらえた、と歴史的には評価されているようです。 ちなみに『平和の擁護者』はその後16世紀になって公刊された ものの、ほどなく禁書となっているとのことです。 マルシリウスの政治思想は、基本的にアリストテレス、そして とりわけアヴェロエス主義に依拠するものとされています。こ れは盟友のジャンダンのジャンと同様です。ここで言うアヴェ ロエス主義ですが、一般には信仰と理性とを別物と考えるとい った狭義の思想内容を指しているように思われます。当時のア ヴェロエスの全体像にそのまま与していたようには思えませ ん。それが具体的に、アヴェロエス思想の広がりのどの程度の 部分までを引き受けていたのだろうか、という疑問も生じてき ます。そのあたりも含めて再考してみるのは面白そうでもあり ます。 マルシリウスには『平和の擁護者』のほかに、小著作がありま す。代表的なものは二つで、一つは『擁護者小論』 (Defensor minor)、もう一つは『帝位の委譲について』 (De translatione imperii)です。これらはいずれもイタリア 遠征の後に書かれたものとされています。前者はとくにチロル の伯爵夫人マルガレーテ・マウルタッシュ(マルガレーテ・フ ォン・ティロル)の婚姻解消をめぐる議論が中心ですが、自然 法の考え方などが端的に示されていたりして興味深いテキスト になっています。 以上、主にブリル社刊の参考書『パドヴァのマルシリウス必 携』("A Companion to Marsilius of Padua", ed. Gerson Moreno-Riano & Cary J. Nederman, Brill, 2012)所収の論 考、フランク・ゴットハルト「パドヴァのマルシリウスの生 涯」(同書、pp.13-55)を中心に、全体をざっとまとめてみ ました。本連載では、主著『平和の擁護者』も基本的な内容を 概略的に押さえつつ、とりあえずは『擁護者小論』から、自然 法に関係した議論の箇所を拾い読みしていきたいと思います。 場合によっては、その後で『平和の擁護者』そのものを読んで いくかもしれません。というわけで、とりあえず次回からテキ ストに当たっていくことにします。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月12日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------