silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.292 2015/09/12 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その10) 前回は、規約の第三章が「命題の意味の区別をしてはならない、などと述 べてはいけない」としていることに関連して、論敵とされるオッカムは必 ずしも命題の意味の区別を否定していたわけでないことを見ました。規約 起草側がやや誇張ぎみに事態を捉えたか(?)、あるいはオッカム派の一 部の先鋭化のせいで(?)、なんらかの論者たちが意味の区別を禁じてい るとされて規約の攻撃対象になった可能性を、研究書の著者パケは示唆し ていました。 オッカムが「意味の区別をしてはならない」と考えている命題も、もちろ んあります。それは通常の命題の場合です。オッカムが言うところの通常 の命題とは、要するに項が指すものが一義的に個物であり、意識の内容で も、発話や文字そのものでもないようなものをいいます。つまり、明らか に個別的代示であって、単純代示でも質料的代示でもない、という場合で す。そのような場合には、意味の揺らぎは原則的にないはずなので、もし 主語と述語の間で齟齬があるのなら、その命題は端的に偽であるというこ とになります。そしてそういう命題についてのみ、オッカムは「命題の区 別をしてはならない」としているわけですね。その場合にのみ、規約はオ ッカムと対立しうることになります。 逆に言えば、規約の立場はむしろ単純代示や質料的代示、つまり意識内容 とか発話・文字とかを指すことが前提になります。これはつまり、個物し かないというオッカムの立場に反する、普遍を前提とする立場です。普遍 論争でいう実在論側の立場ですね。パケはここで再び、規約の起草側とさ れるビュリダンの考え方についても再考し、そこにもまた、ビュリダンの 巧みな外交戦術が働いていると結論づけています。詳しいことは省きます が、ビュリダンの基本的立場は明確で、前にも出てきた「言葉とモノとの 分離」を前提とし、意味の区別の必要が必要な場合と、そうでない場合と をきっちりと提示しているのですね。オッカムと重なる基本認識です。ビ ュリダンは加えて、「良識」をもとに、ある種の行き過ぎた議論を牽制し ようとしているようです。 * さて、続いて規約は第四章となります。今度は「本来の意味において真で ない命題は認めてはならない、と誰も述べてはいけない」と謳っていま す。なぜなら「そう述べることは上記(第三章など)の誤りを導くことに なるから」です。「聖書も古来の著者たちも、必ずしも本来の意味におい て言葉を使っているわけでなはない」とし、その上で、「本来の意味より も、その基底をなす意味に注意すべきである」と訴えます。「本来の意味 にばかりこだわり、本来の意味では誤りとされる命題に価値を見出さない のでは、詭弁に陥ってしまう」「真理の探究にほかならない弁証法的・教 義的な議論では、言葉そのものにこだわりすぎてはならない」というわけ です。 なにやら上のオッカムの個別的代示についての立場を、真っ向から否定す るような記述にも思えますね。パケによれば、オッカムはもちろん、本来 の意味ではない(improprie)メタフォリックな用例が多々存在すること を認めています。その上で、本来の意味なのか、比喩的な意味なのかを識 別するこはとても重要だとし、いくつかの意味の転移の可能性を列挙して いるのだとか(具体的な内容は煩雑になるので省略)。 「本来の意味において真でない命題」をオッカムはどう扱っているのでし ょうか。本来の意味で解釈するなら端的に偽、比喩的意味に取るなら真に なる場合がある、というふうに、あたかも規約の前章の勧めに応じるかの ように意味を区別して対応しているといいます。どう区別するかを見てみ ましょう。上述の繰り返しのようになってしまいますが、「本来の」 (proprie)という語を、オッカムは、言葉が個物を指している場合、つ まり個別的代示の場合と捉えます。それは命題が字義通りの意味に理解さ れる場合でもあるわけですね。すると、個物として表せない項が含まれて いる命題は、文字通りの意味では偽とされることになります。 例として次のようなものが挙げられています。「父は父性によって父なの である」(pater paternitate est pater)という命題では、「父性」なる ものが個別的代示になっていません。オッカムはそのような、父を父たら しめるようなものを特定することはできないとし、一義的にそうした命題 は偽であると言ってかまわないと考えます。一方でそのような「抽象語」 を含む命題は、解釈を通じて、その抽象語に代えて名辞的な定義が与えら れうるのであれば、偽であるとは言えなくなることを認めてもいます。 「父は父性よって父なのである」は、たとえば「父は、子をもたらしたの で父なのである」と解釈されれば、その命題は真ということになります。 さらに別の可能性もあります。抽象語が個物と同じものを指すと考える可 能性です。父性というのは父そのもののことを言うのだと捉えるなら、上 の命題は「父はそれ自身によって父なのである」ということになり、こう して真になりえます。もう一つの解釈例も見ておきましょう。「被造物の 知解対象としての存在は永遠の昔からあった」(Esse intelligibile creaturae fuit ab aeterno)。これもesseが引っかかって、文字通りに は偽とされてしまいそうな命題ですが、これが「神は永遠の昔から被造物 を知解していた」という命題の「言い換え」をなしていたと考えるなら、 真であるとも解釈できます。 でも、こうしてみると、本来の意味、あるいは文字通りの意味で偽である ような命題を、解釈によって真とするというわけなのですから、オッカム がやっていることはまさに規約が推奨していることにほかなりません。こ こでもまた、規約が攻撃対象としているのはオッカム本人ではなく、その 弟子筋のある種の人々なのかもしれない、ということになっていきそうで す。ですが、前もそうでしたが、話は単純にそこで終わりとはなりませ ん。それについてはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシウスによる政治論(その2) 今回からテキストを読んでいきたいと思います。取り上げるテキストは 『擁護者小論』(Defensor minor)です。マルシリウスの主著『平和の 擁護者』は長大な作品ですが、こちらの小論は後になって書かれたもの で、ある意味、『平和の〜』の補論と考えてよいかもしれません。ここで はまず11章と12章を見ておきたいと思います。ペトロやそれに連なる教 皇がキリストの後継者であると見なされるのは正当か、という問題を扱っ ています。さっそくテキストを見てみましょう。底本は"Marsile de Padoue - oeuvres mineurs"(ed. C.Jeudy et J. Quillet, Centre National de la Recherche Scientifique, Paris, 1979)です。 # # # Capitulum undecimum Utram autem Romano pontifici papae vocato conveniat in ministrandis spritualibus plenitudo potestatis aliqua, ultra reliquos apostolos sive sacerdotes ex successione beati Petri, et utrum beatus Petrus habuerit super apostolos reliquos a Deo sive Christo immediate sibi concessam aliquantulum restat inquerere. 第一一章 父と呼ばれるローマ教皇が、ほかの使徒や聖職者たち以上に、聖ペトロの 後継として精神を管理するに十全な権限をもつに相応しいかどうか、ま た、聖ペトロはほかの使徒以上に、神もしくはキリストから直接、その後 継を委ねられたかどうかが、問うべき問題として残されている。 Nam plenitudinem potestatis Christus habuisse legitur, dum Matthaei 28 dixit : "Data est mihi omnis potestas in caelo et in terra". Cum igitur beatus Petrus fuerit Christi successor, et Romani pontifices vocati papae successores sint et fuerint beati Petri, ut communiter dicunt, videtur quod beatus Petri tamquam Christi succesor et Romani pontifices successores ipsius praefatam habeant plenitudinem potestatis. キリストには十全な権限があったと読むことができる。マタイ書二八章は こう述べているからだ。「私には天と地のあらゆる権限が与えられた」。 したがって、ペトロがキリストの後継者とされ、父と呼ばれるローマ教皇 がこれまで聖ペトロの後継者であったし、また今もそうであると一般に言 われているのであるから、キリストの後継者としての聖ペトロとその後継 者としてのローマ教皇は、十全な権限をもつものと考えられる。 Nos autem dicemus, quod Christus fuit unum suppositum ex duabus naturis, divina videlicet et humana; unde verus Deus fuit et homo et propterea Christo potuit convenire aliquid, inquantum Deus fuerat, utpote mundum fabricare, cuncta visibilia et invisibilia creare, ac in ipso mundo super naturam miracula facere, ut mortuos succitare, et similia reliqua quaedam; rursum et legem divinam humanibus pro statu futuri saeculi ferre seu dare, et secundum ipsam transgressores arcere iudicio coactivo et observatores salvare. Unde Iacobus 4 ut supra induximus : "Unus est legislator et iudex, qui potest perdere et salvare"; et secundum hanc considerationem, verificatur de Christo, quod scriptum est Apocalypsi 19 : "Rex regum et dominus dominatium"; secundum quam etiam considerationem, nullus apostolorum neque hominum potest aut potuit esse Christi successor. // しかしながら、私たちはこう述べよう。キリストは神と人間の二つの本性 から成る単一の主体である。ゆえに彼は真の神であり真の人間でもあった のであり、その結果としてキリストは、神であるという意味において[十 全な権限をもつのに]相応しかったのである。すなわち世界を作り、可 視・不可視の全体を創造し、その世界において、死者を蘇らしたり、その 他同様のことなど、自然を越えた奇跡をなすといったことである。さら に、未来の世界のために神の法を人間に対して伝え、もしくは与え、それ をもとに違反者を強制的な司法によって罰し、法に従う者を救済すること である。ゆえに、先に私たちが引用したヤコブの手紙第四章には、次のよ うに記されているのだ。「立法者と裁判官はひとりである。その者は罰す ることも救うこともできる」。この考察にしたがうなら、黙示録第一九章 に書かれている「王の中の王、主の中の主」は、キリストについても真で ある。そしてこの考察からすれば、いかなる使徒も、いかなる人間も、キ リストの継承者ではありえないし、ありえなかったのだ。// # # # この『擁護者小論』は、全部で16の章から成っています。全体は大きく 二つの部分に分かれ、前半をなす1章から12章までは『平和の擁護者』を 補完する個別的議論が展開し、後半となる13章から16章までは、前回も 少し触れたように、婚姻問題が論じられています。この後半はチロルの伯 爵夫人マルガレーテ・マウルタッシュの婚姻解消についての論陣をなして います。マルシリウスは、マウルタッシュとルクセンブルクのヨハン・ハ インリッヒの婚姻を皇帝ルートヴィヒ四世が無効にできる可能性を擁護し ているのですね。皇帝の意図は、マウルタッシュを皇帝の子息(同名のル ートヴィヒ)と新たに結婚させることにありました。 参考書の一つであるジャンルカ・ブリグリア『パドヴァのマルシリウス』 (Gianluca Briguglia, "Marsile de Padoue", Classiques Garnier, 2014:Carrouci 2013の仏訳)によれば、同じくルートヴィヒ四世の宮 廷の知識人集団の中にいたオッカムも、『結婚についての助言』 (Consultatio matrimonialis)を著して、そうした「再婚」を正当化す る権限が、例外的な場合に限り、皇帝にあることを論じているといいま す。皇帝の子息とマウルタッシュの婚姻は1342年に行われました。 で、この後半の内容は、マルシリウスの著書が書かれた年代特定を若干混 乱させたようです。つまり、両者の婚礼の前に書かれたのではないかとい う説が唱えられたわけですね。ここに再びオッカムも絡んできます。オッ カムは自著『対話』第三部で、マルシリウスの『平和の擁護者』の主要な 論点を批判しているといいます。それが書かれたのが1338年から40年ご ろとされ、マルシリウスはその批判への反論を示したかったものと考えら れ、そのため同書が1340年から41年ごろに書かれたのではないかという 説が取り沙汰された、というわけです。 ですが現在では、同書は上の1342年の婚礼の後に書かれたという説のほ うが一般的のようです。教会制度の政治構造を論じた前半部分は、必ずし もオッカムの批判に触発されただけのものではないとされ、上の説はだい ぶ後退しているのですね。前半で中心となるのは立法(とくに教会法)と 聖職者の権威の問題です。上のブリグリアの参考書によれば、法律に関す る基本的な考え方は『平和の擁護者』がソースとなっており、目立って新 しい要素は付け加えられていないとのことです。ただ議論の密度は深まっ ているのだとか。 マルシリウスは基本的に、教会法という形での「法的権限」 (juridictus)は人間に許されるのかと問います。神の法のもとではいか なる人間も法を告げる(定める)ことはできない以上、神の法を開示する のがせいぜいであり、したがっていかなる聖職者といえど、法の発布や強 制はできないのではないか……。マルシリウスのこの立場は、カトリック の伝統とされてきた、法的権限と聖職者の赦しと罷免の権限との関係につ いて、きわめてラディカルな問い直しを突きつけます。 上の本文はそうした一連の議論の後に来る部分ですが、全体的トーンの一 端が窺えます。なにしろ、使徒も含めて人間は、キリストの後継者にはな りえないと論じているわけなのですから……。果たしてマルシリウスは、 生来の反権力・反権威の徒なのでしょうか?なにゆえにそうした立場を取 るのでしょうか?……というわけで、しばらくはこの継承問題についての 箇所を読みつつ、そのあたりのことを考えていきたいと思います。どうぞ お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月26日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------