silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.294 2015/10/10 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その12) ルプレヒト・パケによるパリ大学規約(1340年)に関する研究書を見て います。今回から規約の第5章に入ります。さっそくその内容を見てみる と、最初に「記号以外に事物ついての学知はない、などと誰も述べてはな らない」と記されています。さらに、記号(signa)というのは「名辞も しくは発話」(termini vel orationes)のことであるとしています。この 禁止の理由は「私たちは事物のために名辞を使うが、それを議論に付すこ とは私たちにはできないからだ」とされます。そして「ゆえに、名辞や発 話について省察するにせよ、私たちは事物についての学知を有するのであ る」と述べています。 これはつまり、人間の学知が名辞・発話のみに関係するのではなく、それ らが指す事物に関係しているのだということを述べているわけですね。と いうことは、この規約が批判している相手(オッカムなのでしょうか、オ ッカム派なのでしょうか?)は、学知というものが名辞・発話にのみ関係 すると述べていることになります。学知論そのものはとても大きな問題 で、パケもこの章についてはかなりのページ数を割いています。主にオッ カムにおける学知論・認識論を詳述しているのですが、ここではそのあた り、あまり詳細には触れないことにします(オッカムの認識論について は、以前このメルマガでも、文献購読シリーズで見た経緯があります)。 ただ、ポイントは押さえておきましょう。例によってパケは、この規約の 内容がオッカムの思想そのものに反対するのかどうかの確認から始めてい ます。 それによると、オッカムの学知論は基本的に、「現実的な知というものは 必ずしも事物そのものについての知ではなく、事物を代示する他のものに ついて(de aliis pro rebus tamen supponentibus)の知」であり、 「現実的な知とは、命題に関わるもののみである」としているといいま す。つまり、知の対象というのは外的な事物そのものではなく、それを表 すもの、いわば意識の内容物であるというのですね。そうであるなら、こ れは規約の批判対象の射程に見事に合致するように思われます。 でも、とパケは言います。よく見るとオッカムの論と規約の記述の間には なんらかの違いがあるのではないか、というのです。オッカムは知の対象 を意識内容のほうに置き、その表明として発話があると見ているのに対し て、規約の記述は、逆に発話こそが事物に関係している、と読めるという わけです。この微妙なズレの中に、パケは再び、規約の批判対象として、 オッカムのオリジナルの立場とは違うものを読み取ろうとしています。こ れまでの繰り返しになってしまうのであまり詳しくは見ませんが、やはり それはオッカムそのものではなく、その弟子筋の少し歪曲された議論なの ではないか、というわけですね。 従来、13世紀ごろまでのスコラの伝統の中では、学知の対象とは外的世 界の個物の本質、つまり個物に共通する「普遍」、個物から捨象され偶有 性をそぎ落とされた不変なもののことを言う、とされてきました。知ると はすなわち、そうした恒久的な存在、あるいは本質に与ることを意味して いたのですね。ところがオッカムにいたり、知の対象は「意識の内容」と 見なされるようになります。もっと言えば、外的事物の心的な表象という ことです。知るということは、そうした心的な表象を認識することにほか ならず、外的事象には間接的にしか関わることができないとされます。そ して言葉は、そうした心的な表象の認識を操作するために用いられるのだ と言われます。いきおい、命題の項こそが知の対象であるということにな るわけです。 ここでちょっと奇妙な反転があります。外的な事物に直接触れることはで きないとするにせよ、その操作に関しては言葉を使う以外になく、それを 通じて事物について理解する以上、それは構造的には事物についての学知 であるということもできなくはありません。ですがそうしてみると、上の 規約の後半部分が述べていることと、この事物に対する学知の関係性は必 ずしも相反するわけではなく、逆に重なって見えてきます。繰り返しにな りますが、規約は「私たちは事物のために名辞を使うが、それ自体を議論 に付すことは私たちにはできない」とし、「名辞や発話について省察する にせよ、私たちは事物についての学知を有する」と述べているからです。 オッカムが明示的に述べていることを、規約は付随的に述べているという だけだ、と見ることもできます。 パケはここで、オッカムにおけるこの外的な現実と内的な現実という二つ の領域を詳細に検討していきます。さしあたり私たちは、そこに深入りせ ずに先に進みたいと思います。いずれにしても、このようにオッカム本人 の考えるところと規約の定めとは、それほど正面から対立してわけではな いかもしれないというのがパケの見立てです。この点を再確認すべく、パ ケはやはり今回も、起草者とも目されるビュリダンの考え方、受け止め方 を検討していくことになります。それはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシウスによる政治論(その4) 『擁護者小論』の第一一章を見ています。ペトロが使徒の中でもとくに権 限を与えられた、という部分のマルシリウスの議論の続きになります。さ っそく見ていきましょう。 # # # Nam quibusdam videtur et dicunt, quod beatus Petrus auctoritatem habuerit in spiritualibus et fortasse in temporalibus sive civilibus super apostolos reliquos, et quod caput ecclesiae fuerit, et propterea Romanam ecclessiam aliarum esse principaliorem et caput per auctoritatem a Christo sive Deo immediate sibi traditam seu concessam; et quamvis videtur hoc persuaderi posse ex pluribus locis sacrae Scripturae, series tamen hic inducere omisimus, quoniam diffuse et sufficienter inductae sunt alibi, sicut infra videbitur. // ある人々はそう考えているし、彼らはこう述べる。聖ペトロは精神におい て、また世俗もしくは市民生活においても、残りの使徒たち以上の権限を もっていたし、教会の長であった。それゆえに、ローマ教会はこそが他に 勝って主要な教会なのであり、その権威はキリストもしくは神から直接に 与えられた、もしくは譲られたのである、と。このことは聖書の複数の箇 所から納得しうると考えられるが、私たちはここでそれを一々引用するこ とはしない。以下で考察するように、それはほかの箇所で広範かつ十分に 引用されているからである。// // Adducere autem volumus et apponere ad Scripturae series supradictas rationcinationem quorumdam, qui nituntur astruere conclusionem immediate praedictam; nam ut dicunt et asserunt, tota ecclesia christiana hoc hactenus dixit et credidit, dicit et credit, sed universalis Ecclesia errare non potest, ut dicunt; ex quo relinquitur beatum Petrum prioritatem praedictam super apostolos et Romanam ecclessiam super reliquas habuisse et habere, modo quo dictum est prius, ex quo etiam inferunt Romanos episcopos super reliquos omnes sacerdotes et episcopos hanc habere. // //私たちはむしろ、上に述べた一連の聖書の箇所に、今し方述べた結論 を裏付けようとする推論を導入し、付け加えたいと思う。彼らが言い、ま た主張するように、キリスト教会はそのことを、これまで言ってきたし、 信じてもきた。だが、言われているように、普遍教会が誤ることはありな い。そこから、聖ペトロが使徒に対して前述の優位を、ローマ教会がそれ 以外の教会に対して優位を持っていて、今なお持っている(先に述べたよ うに)ことが推測される。またそこから、ローマ教会の聖職者たちは、そ れ以外のあらゆる司祭や聖職者に対して優位にあることが推測される。/ / // Nos autem dicamus, quod Ecclesia universalis fidelium christianorum aliquid docere potest de his, quae sunt secundum sacram Scripturam de necessitate salutis aeternae credenda, quemadmodum sunt articuli fidei et reliqua secundum Scripturam praecepta similia sive per necessitatem ad ipsa sequentia, aut potest universalis Ecclesia dicere quaedam de his, quae pertinent ad ritum ecclesiasticum decenter servandum, quae convenientia sunt et expedientia in hoc saeculo ad pacificum convictum hominum et statum tranquillum, etiam disponentia ad futuri saeculi beatitudinem consequendam et poenam seu miseriam fugiendam. // //私たちならこう述べるところだ。キリスト教信者の普遍教会は、聖書 にもとづき永遠の救済に必要とされると信じられるものについて教えを示 すことができる。信仰箇条や、その他聖書に記された同様の教え、あるい は必然的にそこから生じる事柄などについてである。さらに普遍教会は、 教会のしかるべくなされるべき儀礼に関わる事柄、この世での人々の平和 な暮らしと落ち着いた状態に適し、かつ好都合である事柄、そして結果的 に来世の至福を得、罰や不幸を逃れるための定めについて、見解を述べる ことができる。// // Et rursum de praedictis potest universalis Ecclesia denuntiare secundum famositatem et consuetudinem quamdam, quae fortassis ex dicto cuiusdam aut quorumdam authenticorum virorum processerunt, et in modum ad alios divulgata fuerunt, aut dicere potest universalis Ecclesia de his praedictis secundum determinationem factam ex certa et debita congregatione generalis concilii supradictae ecclesiae seu fidelium omnium christianorum. //そしてまた、普遍教会は上記の事柄について、その名声と慣例にもと づき、おそらくは何らかの権威ある人もしくは人々の言葉から生じた命令 を、他の人々に流布した形で告げることができる。あるいはまた、普遍教 会は上記の事柄について、任意のしかるべき教会会議の全体会議もしくは キリスト教信者の全員によってなされた決定にもとづき、判断を下すこと ができる。 # # # キリストは神と人間の性質を併せ持つ存在だったのだから、人間の性質し か持たない者はそれを継承できない、というのが前段までの議論でした。 ですがこう述べてしまうと、そもそもペトロが使徒の中で優位性をもって いるというも解せないことになってしまいます。マルシリウスはここでそ の問題を扱っていくわけですが、まずはペトロの優位性を擁護する議論を 一通り述べ、それから自説を展開しようとしているようです。議論の構成 はスコラ学のいつものパターンですね。 さしあたり擁護論としては、ペトロの優位性は普遍教会(つまりはローマ 教会ということになるのでしょうか)によって認められており、普遍教会 は無謬であるとされ、救済に必要なことをすべて決定し意見することがで きるのだというわけです。マルシリウスがこれにどう対応していくかは次 回以降分となります。 さて、マルシリウスの議論の特徴について、再び参考書(ジャンルカ・ブ リグリアの研究書)を見ながらさらにまとめていきましょう。前回のとこ ろで出てきましたが、マルシリウスの議論は基本的に聖書の記述をもとに して問題の是非を判断しているようです。ですがもう一つ、その方法論を 支えている屋台骨があります。アリストテレスですね。著者のブリグリア は、マルシリウスの主著『平和の擁護者』の冒頭部分でそれを検証してい きます。 マルシリウスは、人間が真に何かを知るとは、その対象の原因や第一原理 を含めて知るのでなければないと考えます。これはアリストテレスの『自 然学』を下敷きにしていることが窺えます。さらに、これまたアリストテ レスに準拠して、自然とそれを模倣した人間の人為的な技術は、不完全な ものから完全なものへ、単純なものから複雑なものへと向かっていくと考 えています。こうした基本的な視座を適用するかたちで、人間社会につい ての考察も進められているというのですね。 かくしてマルシリウスは、人間が完全な(充足的な)社会を作るまでのい くつかの段階を、歴史・概念論的に再構成してみせます。そのそもそもの 始まりには、アリストテレスの『政治学』が述べるように、人間に内在す る「他者と自然に結束する本性」があります。「人間は市民生活を営む動 物である」というわけですね。それが社会が単純なものから複雑なものに いたる動因をなしているというわけです。マルシリウスはこれを聖書の記 述に当てはめます。最初に男女のペア(アダムとエヴァ)が家庭を作り、 それを中心にして人が増えていくわけですが、その家族的な集団ではまだ 十分に充足的な社会にはなっていません。やがてそこから「近隣住民」す なわち「村落形態」(vicus seu vicinia)が生じ、より組織化された社 会が構成されていかなくてはならない、とされます。 やがてその組織化された近隣の社会においては、一人の人物が統治にあた る必要が出てくるとマルシリウスは言います。基本的にここでモデルとさ れているのは家父長的なもので、その拡大版として王政があります。王政 もまた自然に生じるものとされます。ただ、マルシリウスの場合には、家 族と村落との間には大きな違いが存在することも強調されています。村の 場合には、原初形態の司法が是非とも必要になる、というわけです。 かくしてマルシリウスは、カインの罪を許すアダムの判断を、家族の長と しては正当なものであっても、村落の統治であったならば、重大な犯罪へ の罰を与えていないがゆえに、その村落共同体の存在自体を脅かしたこと になり、不当だったということになる、と解釈するようです。ここで一つ マルシリウスに特徴的なのは、彼が社会(共同体)につきまという解体リ スクをも直視し懸念していたことです。そのため、社会生活の発展プロセ スを監視する必要性を強調します。たとえ人間には社会生活を営む本性が 内在しているとしても、そこから離れてしまう可能性は常にあり、解体の 危険も常に存在しているのだというのですね。著者のブリグリアによれ ば、これは大きなポイントになるようです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------