silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.297 2015/11/21 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その15) 規約の第六章を見ています。前回は、規約のこの箇所がオートレクールの ニコラを標的としているのではないかという説について、パケがその思想 的の総論的な面から加えた再検討を見てみました。それによれば、ニコラ は、自然についての学知において絶対的な証拠はありえず、代示による証 拠があれば十分だと考えている点で、ビュリダン(規約の起草者とも考え られている)などと軸線が一致している、ということでした。 続いてパケは、今度は各論的に、規約のこれまでの章を振り返りつつ、そ れらに関連したニコラの思想を再検討していきます。まず取り上げられる のは代示理論です。同時代的に出てきた新たな代示理論に対して、ニコラ はどういう立場を取っているのでしょうか。前に出てきましたが、オッカ ム以降の唯名論においては、個物を指すものが個別的代示とされます。そ れに対して、個物から抽象された概念そのものを指すものが単純代示とさ れました。もとは「普遍」を指すとされていたそれは、今や人間の認識に 内在するものになったのでした。ビュリダンともなると、この単純代示は 「非言語的」な象徴とも重ね合わせられ、あらゆる記号を指すものとして 「質料的代示」に内包されるようになっていきます。 オートレクールのニコラはどうでしょうか。実はニコラは「存在者」 (有)について実在論寄りの立場を取り、現実を外的事物がもたらす「効 果」(それがあるからこそ、代示を通じて外部世界についての知を得るこ とができるとされるわけです)に還元しようとはしていないのですね。現 実はそうした「効果」以上のものである、とニコラは見なします。そこか らさらに進んで、知覚される外的事物は、現実的に分離された「普遍」を なすことこそないものの、それ自身、形相と一体化している以上、不可滅 的でさえあると主張するにいたっています。 したがってニコラの場合は、オッカムのように普遍を人間の意識の内部に 位置づけ、いわば認識する行為と「客観的な存在」とを同一視したりする ようなことには与しません。オッカムが個別的代示に認めるような役割 も、受け入れようとはしません。あくまで、「普遍」は実在するという立 場です。ただしそれは個物と分かちがたく結びついており、普遍が単独で 存在するとは見なされていません。それら普遍と個物の結合・分離は、現 実世界で起きているというよりはむしろ言葉の世界でのみ起きていること なのだ、とニコラは考えているようです。 たとえば「Socrates est homo(ソクラテスは人間である)」といった 命題について、オッカム派的な唯名論ならば「ソクラテス」と「人間」が ともに個別的代示をなすのではなくてはならず、現実のソクラテスにとっ ては偽であるとされるのに対して、ニコラはこれを誤りと断じ、ここでの 「人間」は普遍を表すと考えます。さらに普遍は個別からは切り離せない 以上、そこでの「人間」は「ソクラテス」の一部をなしているとされま す。一方で普遍は個別よりも広範なものを指すのではなくてはならないの で、人間という項はソクラテス個人に属さないことをも表しえます。この ように、普遍は言葉の上で個物と結びつくことができ(ゆえに項同士が同 種の代示でなくともよいことになり)、それを言い表す命題は真でありう る、というのがニコラの議論なのですね。 こうして見ると、代示の問題に関する限り、ニコラの立場は規約が反動的 に対応している立場とはまったく別ものになっています。規約は全体的 に、個別的代示の濫用を戒めているわけですが、ニコラの議論にはそもそ も、個別的代示自体も、それを裏支えしている普遍の内面化といった思想 も登場してこないからです。というか、ニコラの考えに沿うなら、代示に は、質料的代示(記号全般を指すもの)と形相的代示(つまり普遍を指す もの)だけがあればよいことになり、個別的代示それ自体が不要になって しまう、とパケは指摘します。ニコラは形相的代示が現実的に質料と分か ちがたく結びついていると考えているので、個別的代示はすべてこの形相 的代示でカバーされうるというわけです。 言葉の世界と現実世界との乖離という時代の大きな流れについては、ニコ ラも踏襲しないわけにはいかなかったのでしょう。質料と形相の分離・結 合を、あくまで言葉の上の分離・結合と見なしている点に、そのことが窺 えます。で、まさにそこから、こうした代示理論の組み替えが導かれてい ることは、とても興味深く思えます。ニコラが参照元としているドゥン ス・スコトゥスと大きく異なるところでもあり、興味は尽きません。そう なると、さしあたり今度はニコラにおける認識論・学知論も気になりま す。というわけで、次回はそのあたりの話になります。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その7) マルシリウスの『擁護者小論』から、今度は続く第一二章を見てみること にします。 # # # Capitulum Duodecimum Amplius quoniam de concilio generali sermo factus est nobis, inquirendum utique est, quis sit supremus legislator humanus; et rursum ex quibus provinciis et qualibus constitui seu integrari habeat generale concilium supradictum. 第一二章 さらに、私たちは全体の教会会議についての話をしたので、とにかく次の ことを検討しなくてはなならない。人の最上の立法者とは誰なのか、また どの地方、およびどのような地方において、上述の教会会議が成立し開催 されるのが望ましいのか、である。 De primo quidem igitur iam propositorum inquisitionem aggredientes diceamus, quod supremus legislator humanus praesertim a tempore Christi usque in praesens tempus, et ante fortassis per aliqua tempora, fuit et est et esse debet universitatis hominum, qui coactivis legis praeceptis subesse debent, aut ipsorum valentior pars, in singulis regionibus atque provinciis. // したがってまずは最初の問いについて、探求を方向づけるべく、私たちは こう述べよう。人の最上の立法者は、とりわけキリストの時代から今の時 代まで、またおそらくは少し前の時代まで、人類全体であったし、今もそ うであるし、そうではなくてはならない。人類全体は強制力をもった法の 命令に、またはそれぞれの地域および地方における卓越した部分に従属し なくてはならない。// // Et quoniam haec potestas sive auctoritas per universitatem provinciarum, aut ipsorum valentiorem partem, translata fuit in Romanum populum, propter excedentem virtutem ipsius, Romanus populus auctoritatem habuit et habet ferendi leges super universas mundi provincias, et si populus hic auctoritatem leges ferendi in suum principem transtulit, dicendum similiter ipsorum principem habere huiusmodi potestatem, quorum siquidem auctoritas seu potestas leges ferendi (scilicet Romani populi et principis sui) tam diu durare debet et duratura est rationabiliter, quamdiu ab eisdem per universitatem provinciarum a Romano populo vel Romanum populum ab eius principe fuerint revocatae. // //そうした権能もしくは権威は、地方全体によって、あるいはその卓越 した部分によって、その突出した徳ゆえにローマの市民に伝えられたので ある。ゆえに、ローマの市民は世界全体の諸地方に対して、法を定める権 威を有していたし、今も有しているのである。また同市民が、法を定める そうした権威を君主に委ねたのだとすれば、同様に、その君主たちもそう した権限を持っていると言わなくてはならない。そのような法を定める権 威もしくは権限(すなわちローマ市民とその君主の)は、地方全体によっ てそれがローマ市民から、あるいはローマ市民によってその君主から撤回 されるまで、考えられるだけ長く続かなくてはならず、また続くことにな るだろう。// // Et intendimus debite revocatas aut revocandas esse tales potestates, cum provinciarum universitas per se vel per syndicos vel Romanus populus debite fuerint congregati, et talem deliberationem de revocando fecerint, aut eorum valentior pars, quemadmodum diximus et monstravimus 12 primae. //私たちはこう主張しよう。かかる権限は、地方全体がみずから、ある いはその代理者によって、あるいはまたローマの市民がしかるべく集う場 合に、しかるべく撤回されるし、撤回されうる。また、かかる撤回につい ての決議は、彼らによって、もしくはその卓越した部分によってなされる のであり、それは私たちが第一部の第一二章で述べ、論証したとおりであ る。 # # # これはマルシリウスにおける「民政論」のいわば核心部分かもしれませ ん。人間全体の総意は特定の地域の総意へと委ねられ(いわば縮減さ れ)、それがまた君主という単独の人物へと委ねられ(再度の縮減)、か くしてその者が最高位の立法者として立ち振る舞うようになるというわけ なのですが、それが委譲されたものであればこそ、その最高位の立法者と しての権威は撤回されうるし、その最高位の地域の権威もまた撤回されう ることになる、というのですね。 ですがここだけでは、どのようなかたちで委譲もしくは撤回がなされるの か、その様相についてはよく分かりません。というわけで、少しまたマル シリウスの主著『平和の擁護者』からも、そうした考え方に対応する部分 を見ておくことにしましょう。例によってブリグリアの参考書に沿って整 理します。 前に見たように、独自見解を挟みつつも、マルシリウスはアリストテレス の議論に沿って持論を展開します。人間の共同体は相互の必要を補う形で 成立したとされますが、共同体には解体の危機がついて回り、全体として 脆弱なものでしかありません。それらを保持するために、人はそれぞれの 気質にもとづく分業体制を確立したとされます。マルシリウスの議論はこ の後、人間の適切な暮らしを保障する共同体の、各部の機能についての分 析になります(農業、手工芸、防衛、金融、統治、そして聖職)。そこで まず注目されるのは、聖職全般についてなのですが、それはひとまず置い ておきます。 その後に続くのが統治の問題で、そこで立法者についての分析がなされて いきます。マルシリウスはまず、「法」の定義を四つに分けて示します。 (1)自然本性的なある種の傾向、(2)心的に抱くなんらかのモデル、 (3)生活を豊かにするためのルール、(4)都市における正義や有益性 の教義や判断、という具合です。この四つめはさらに、法学の理論と「強 制的な命令」に下位区分されます。本来的な意味(法律としての)での 「法」で重要になるのが、「強制力」をもつという点です。 強制力をもった法が運用されるには、まずその前提として、正義とは何で あるかについて真正なる知識がなければならない、とマルシリウスは考え ています。そうでなければ、不正な、あるいは不完全でありながら強制力 だけはもっている法が施行されてしまいます。ただしこの正義の問題は、 突き詰めていけば形而上学へと遡る問題でもあります。マルシリウスはさ しあたり、そちらに立ち入ることはしません。あくまで強制力のほう、つ まり法にその実効性を与える作用因(立法者)のほうにこだわります。 では、法の強制力はどこから来るのでしょうか。神の法の場合には強制力 は問題になりませんから、これは考察から除外されます。問うべきはあく まで人間の法についてです。ブリグリアは、同じように法の強制力につい て考察した人物として、14世紀前半ごろのブルターニュのドミニコ会 士、エルヴェ・ネデレック(ヘルヴェウス・ナタリス)を挙げています。 そちらにおいては、法がその本来のかたちで存在しうるのは、立法者がし かるべき権限をもっている場合のみだとされている、といいます。 マルシリウスも同じような考え方に立脚しています。そして、そうした立 法者を考える文脈で、おそらくは最も有名とされる一節が登場します。す なわち、立法者とは民、あるいは市民の全体(populus seu civitum universitas)、あるいは選出されたその市民の優勢な一部(valencior pars)、さらには委託を受けた一人もしくは少数の者たちだ、というく だりです(今回の本文にも呼応しています)。主権在民の萌芽を示すよう な部分でもありますが、ここで重要なのは、マルシリウスが「優勢な一 部」を、数の上でのマジョリティとして考えているわけではないというこ とです。そうではなく、「(立法に)関与する者の数と質」にかかわる基 本的な基準として考えているということです。要はそれらの一部の人々 が、各種の社会的階級・序列を代表できる権能(数の上でも、人格を含む 質の上でも)をもっているかどうかが問われる、というわけです。具体的 にはどういうことになるのでしょうか。この話、まだ続きます。以下次 回。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------