silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.298 2015/12/05 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その16) 規約の第六章において、標的ではないかと考えられたオートレクールのニ コラですが、少なくとも代示理論がらみでは、ニコラの考え方(実在論) は、規約の批判対象にはならないのではないか、というのが前回見た部分 でした。今回はパケが続いて検討している、認識論・学知論がらみでのニ コラの思想を見ていきましょう。著書『秩序は十分に求む(satis exigit ordo)』において、ニコラは外的事象についてのこんなコメントを記し ています。人はたとえば白の色を認識する場合、それは事物の像として認 識しているのであって、事物そのものを認識しているのではない、と。 これは一見、前に見た規約の第五章の議論に抵触するかのように思われま す。そこでは「記号以外に学知はない」とする教説を糾弾していたのでし た。パケのまとめによれば、ニコラの認識論は、見かけと「事物それ自 体」とを対立させ、感覚と理解とを「直観」と明証的な概念とにおいて広 く統合するというものだといいます。また、パケのコメントとして、知と いうものが意識による自己認識、自己省察から成るという近代的な特徴を 備えている、とも記しています。 ですが、パケはその後で、ニコラの立場は規約に抵触してはいないのでは ないか、と主張します。ニコラの言う「見かけ」(apparentia)は、外 部の個別事象に対立するものではなく、むしろ「内的事象」(res in se)に対立するものなので、認識対象、学知対象を記号にのみ認めると いうのとはちょっと違っているというのです。どういうことかというと、 個物の「見かけ」(つまり感覚的な像)の背後には内的事象(つまり知的 な像)があって、そこに実体の不可知性(外部のものを直接には知れない ということ)と個物についての直観(それでもなんらかの認識が得られる ということ)とが結びついている、というのがニコラの認識論的図式なの だというのですね。外的事象は外の世界に存在してはいるのですが、その 実体そのものは認識できず、ただ見かけを通じて自己内に直観的に形成さ れる内的事象(いわば概念)のみを主体は認識できる、というのでしょ う。これはニコラが唱えている原子論にも通じる立場です。物体を構成す る原子は、実体としては認識できません。ただ直観のみが、それ相応の認 識をもたらしうる、というわけです。 規約が批判していたのは、普遍を、外部に直接の対応物をもたない純粋な 意識の内容物に還元するという発想でした。ですがニコラの場合には、も とより普遍の実在を認めているのですから、この批判には当たりません。 ではニコラにおいては、上の内的事象(概念)と普遍はどういう関係にな っているのでしょうか。ニコラの考えでは、普遍についてもまた、それに 対応する概念(内的事象)があることになります。たとえばアリストテレ スが示していた十の範疇であろうと、それぞれに対応する概念があるがゆ えに、それぞれは現実的・形相的に区別されるといいます。唯名論のよう に、普遍が意識の内容物に還元されるということは決してないのですね。 一方で、ニコラも唯名論の論客たちと同様に、従来の権威者の文書にもと づく学知はあまり重視しなくなります。むしろ「事象」そのものに関わっ て、真理をめぐる自律的で自由なやり取りを行うとしているようなので す。文書よりも観察などを重視する立場ですね。認識や知識の確実さは、 おのずと確証されるということでしょうか。それはつまり、パケが指摘す るとおり、後世において主体の役割が大きく躍進していく、その端緒をな しているということなのかもしれません。 ニコラは実在論を擁護したり、普遍についての伝統的な理解を示したり と、多くの領域でオッカムやビュリダンよりも「中世的」(とパケは述べ ています)に見える一方で、このように存在者(有)を像と見なし、主体 の側に位置づけるという点では、とてもリベラルな側面を併せ持ってもい ることになります。その前者の側面、伝統重視の保守的な面において、ニ コラは規約の批判の射程外にいたのかもしれません。 さて、これらの迂回路を経て、パケは規約の第六章との絡みに戻っていき ます。パケの議論は再度、規約が否定している「神と被造物は無である」 という命題に向かいます。これに近い「神と被造物は何ものかではない」 という教説がニコラにあることが問題となっていたのでした。これは口頭 でなされた議論における一節であり、文書にはそれに相当するものはない といいます。文脈から切りとられて膾炙しているので、ニコラがもともと 何を意図していたのかは正確にはわからないようなのですが、どうもこれ に関して、ニコラが、リミニのグレゴリウスの教義の代弁者として糾弾さ れたのではないかという説もあるようなのですね。というわけで、パケは ここでまた別の回り道に入り、リミニのグレゴリウスについて検証してい きます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その8) 『擁護者小論』から、第一二章を見ています。今回はちょっと短めです が、続く部分です。 # # # Sic enim collata fuit praefata ferendi leges potestas Romano principi et populo veluti ex approbatis apparet historiis. His autem testantur Scripturae divinae. Nam ut apparet 4 et 5 secundae per dictum Christi et apostoli Pauli, Romanus populus et princeps praefactam potestatem et iustam monarchiam habuerunt super universas mundi provincias, et propterea tam Christus quam apostolus Paulus et Petrus, prima canonica, secundo capitulo, testificantes potestati iam dicatae obedire monuerunt omnes et subiici, et obedire tam populo quam principi supradicto etiam sub poena damnationis aeternae, unde Christus : "Reddite quae sunt Caesaros Caesari", et Paulus ad Romanos 13 : "Omnis anima subdita sit potestatibus sublimioribus" et cetera, et "qui potestati resistit, Dei ordinationi resistit; et qui ipsi resistunt, damnationem sibi acquirunt", aeternam videlicet. // このように、立法の権限はローマの君主および市民に与えられたのであ り、それは正式な歴史に見られる通りである。それはまた、神聖なる聖書 にも記されている。キリストと使徒パウロの言葉をもとに第二部の四章と 五章に記したように、ローマ市民ならびにその君主は、世界の全地方に対 して、そうした権限と正当な君主制を手にしており、それゆえにキリスト も、使徒パウロやペテロも、教会法の第一書簡第二章において、今したが 述べた権限について証言し、あらゆる人々がそれを聞き入れ、従うよう忠 告している。また、上に述べた市民も君主も、それに従わなければなら ず、さもなくば永劫の罰を受ける、とされている。ゆえにキリストは「皇 帝のものは皇帝に返せ」と述べ、パウロはロマ書一三章において「すべて の魂はより高きものに従属せよ」云々、さらに「権威に逆らう者は、神の 秩序に逆らうのであり、それに逆らう者は、みずから罰を受ける」と述べ ている。つまり永劫の罰を、ということだ。// // Et rursus ad Timotheum : "Obsecro primum orationes" et cetera, "fieri pro regibus et his qui in sublimitate sunt." Amplius ad Titum : "Admone illos"; scilicet quibus praedicas, "subditos esse principibus et potestatibus"; adhuc beatus Petrus ubi supra : "Subiecti estote" et cetera, "sive regi tamquam praecellenti, et ducibus tamquam ab eo missis", Deo scilicet, "ad vindictam malefactorum, laudem vero honorum, quia sic est voluntas Dei." //また、ティモテへの手紙では、「まずは祈りを勧める」云々、「王と 高潔である人々に」と記されている。さらにティトスへの手紙では「彼ら に忠告せよ」、つまり先に述べた人々へ、「君主とその権限に従属してい るのだということを」と記されている。聖ペテロもまた、上に引いた箇所 で、「従うがよい」云々、「卓越した王に、そしてその王から遣わされた 君主に」と述べている。つまりは神ということだ。「悪事をはたらく者を 罰し、正しき者を讃えるために。なぜならそれが神の意志だからだ」。 # # # 今回は、キリスト教世界でのローマの市民および君主(教皇)の立法権に ついて、文献的な論拠を挙げている箇所です。ティモテへの手紙は第一の 手紙の第二章第一節です。ティトスへの手紙は第三章第一節、ペテロにつ いては、ペテロの第一の手紙第二章第一三節から一五節です。 本文に関してはそれほどコメントすべきところもありませんので、今回も また、主著『平和の擁護者』のほうから、同じ権限委任の議論を引き続き 見ていきたいと思います。例によって、ブリグリアの参考書に即して進め ていきましょう。マルシリウスによれば、市民とは政治共同体に参加する 者のことを言います。つまり、「みずからの階級に応じて」審議および司 法の職務に参加する者、ということです。それは成人男性だけに限られま す。ブリグリアは、マルシリウスがイタリアの諸都市の伝統について省察 する中で、「卓越した部分」の数と質という両面を強調するようになった のではないかと見ています。市民全員のうちのそうした卓越した部分、支 配的な一部の人々こそが、立法者として、理性的な動機の「作用因」をな すというわけです。 理想を言えば、法は市民全体によって策定されるのが最善と言えます。で すが現実問題としては、法は限定された数の人々が策定するというのが実 利的です。その観点からすれば、限定された数の人々はできるだけ多いに 越したことはないということになります。多くの人がかかわるほどに、審 議される法も、いっそう万人にとって有利なものとなり、共通善のために なる、というわけですね。また、共同体全体で承認されるなら、その法を 遵守させることもいっそう容易になっていきます。 ですが当然ながらこれには異論も出てきます。まず、人々はもとより無知 で悪意をもっていて、多く集まったからといってよりよい法ができるわけ ではない、という反論がありえます。また、賢者とされる人々の少数のグ ループでも合意は難しいのに、無知な多くの人々がどうやって合意を得ら れるというのか、という批判もありえます。少数の賢明な人たちに委ねる ほうがましというものではないか、と。マルシリウスはこれらを自問し、 まずは一つの原理を掲げることでそれらへの答えとしています。その原理 とは「あらゆる人は人としての尊厳ある生活を望み、その逆を避けるもの である」というものです。それゆえに、共同体において社会生活を営む必 然性が生じるのだというわけです。 共同体が解体しないためには、多数の人々がその維持を望み、解体を防ぐ 努力をしなければなりません。それができなければ、自然そのものに欠陥 があるはずだ、とマルシリウスは考えます。なぜならその場合、社会生活 の前提を自然が下支えしていないことになってしまうからです。マルシリ ウスは、自然はそうした人間の社会生活を促し、決定づけていると考えて いるのですね。こうした考え方からすると、卓越した少数の市民が、共同 体の維持を欲していながら、一方でよりよい法を定めようとしないのは矛 盾だということになります。 マルシリウスはもう一つ、「全体は部分に勝る」という原理をも掲げま す。これら二つの原理によって、上の諸反論は中和できるというわけです ね。原理上は、人が本来的に抱く望みのためには、より多く集まるならよ りよい法ができ、また少数グループで合意できないものも、全体に諮るな ら合意にいたる可能性は高まるのだ、というわけです。これは私たちから すれば一種の理想論にすぎません。どうやらマルシリウスも、こうした原 理を、現実世界ではなかなか多くの人々が見出さないものと認識している ようです。とはいえ、仮にひとたび見出されたならば、それは人々を理想 に近づくよう促していくだろう、というのですね。言ってみれば、これは いまだ現働化していない可能態を描いているということなのでしょう。そ ういった意味でも、マルシリウスはアリストテレス的な思想圏の一端に位 置づけられるということが言えるかもしれません。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------