silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.300 2016/01/09 ============================== *年頭のご挨拶 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。奇しくも今年は300 号という切りの良い番号でのスタートとなりました。2003年の2月に 細々と始めた、マイナーな分野のきわめて限定的な話題を取り上げている 本メルマガですが、皆様のおかげをもちまして、300号を迎えることがで きました。ちなみに、現在メルアドベースで300人強の方々にご購読いた だいております。誠にありがとうございます。遅々たる歩みではあります が、今年もまた、ぼちぼちとやっていきたいと思っておりますので、どう か引き続きごひいきのほど、よろしくお願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その18) 前回見たように、リミニのグレゴリウスとジャン・ビュリダンは、複合的 意味対象をめぐって見解が分かれています。たとえば「神は存在する」と 「神は存在しない」という二つの命題があるとき、グレゴリウスに従うな ら、それらの命題における神という項は、存在する神、存在しない神とい う別々の「事態」を表すことになります。ですがビュリダンからすると、 そこでの神という項は個物としての神を表すので同一です。と同時に、後 者のような否定的命題の場合、個物の存在が否定されているので、それは 何も表していないことになる、とされます。これはつまり、命題に含まれ る項そのものは同一のものを指すのだけれども、命題そのものはそこに含 まれる項の「事態」を表していることになります。グレゴリウスとビュリ ダンでは、「事態」の捉え方が違っているのですね。 ここで読んでいる研究書の著者ルプレヒト・パケによれば、オートレクー ルのニコラの場合も、おそらくはこのビュリダンの考え方に近いのだろう といいます。おそらく、というのは、複合的意味対象に対するニコラの直 接的な言明は見当たらず、批判的な見解(ピエール・ダイイなど)から間 接的に知れるのみだからです。ニコラの立場は推測されるしかないような のですね。そしてその立場とは、項は同一のものを指し、命題が「事態」 (仮に事態の存在を認めるとして、ですが)を表す、というものではない かというのです。 この推測そのもののについては、ここでは割愛しますが、いずれにして も、アヴィニョンにおいてニコラを糾弾した神学者たちは、ニコラをグレ ゴリウスの一派に与していると見た、という仮説(ニコラがグレゴリウス の一派のスケープゴートになったという説)は、どうやら的を外してい る、とパケは主張しています。そもそもニコラは穏健な実在論に立ってい るわけですし、その点からしても、「事態」などは存在していない、複合 的意味対象など無でしかないと考えていても不思議はないことになります (実在論的には、項が指すものは抽象的なものであろうと「存在」するわ けなのですから、事態をもちだす必要などありません)。そこからしても ニコラはグレゴリウスとは一線を画しています。で、パケによれば、この あたりを含めて、ニコラの議論はむしろビュリダンの側に接近しているほ どだ、というのです。 ですがそうすると、大学の規約の第六章が誰を、あるいは何を批判してい るのかまったくわからなくなってします。一応、実在論側からの唯名論側 への批判という大枠はあるわけですが……。というわけで、パケはここで いったんその第六章を振り返ります。規約の第六章は「「ソクラテスとプ ラトン、あるいは神と被造物は無である(=いっさいない)」という命題 を説いてはならない」と規定していたのでした。無であるとは、(まった く)存在しない、とも読み替えられます。たとえばビュリダンなどは(こ こでは規約の起草者としてのビュリダンではなく、唯名論の代表格として のビュリダンです)、アリストテレスという名辞が命題で使われていると き、それが指すのは歴史的人物としてかつて存在していた人物で、項がそ れを代示していることを認めます(そうなっていなければ、アリストテレ スについて語ることができなくなってしまいます)。ただ、それが命題で 使われた時点では、アリストテレスは実在していないことが言外に含まれ ている、と解釈します。したがってなんらかの命題で名指されるアリスト テレスは「無である」といえるのだ、と。 ですがこのような解釈は「神と被造物は無である(存在していない)」と いう命題には適用できません。少なくとも被造物は、無神論者にとってさ え現に存在しているわけなのですから。そこでパケは規約第六章の残りの 部分に着目します。上の命題が意味的に偽であるという理由として、規約 は「nichilでで表される否定は、個別の存在者(ens singulariter)にの み及ぶのではなく、複数の存在者(entia pluraliter)に及ぶからだ」とし ています。これはどういうことなのでしょうか? パケの解釈に従うなら、当時の唯名論において「存在者」(ens)という のは、「今ここに」在るもの(個物)をなんらかの項が指し示す、という のが基本でした。逆にnihil(無)であるというのは、そうした「存在 者」、つまり今ここに在る個物を否定するということ、つまり「存在者で はないもの」を指すとされていました。存在者は個物であり、「在るも の」(aliquid)と言い換えることもできます。同じように、nihilも、 aliquidでないもの(non aliquid)と言い換えることができます。で、こ こで重要なのは、そこで問題になっているのが、あくまで「単独の」(単 数の)個物の肯定・否定なのだということです。 ところが複数の項を一括して扱うような場合、状況はまったく異なりま す。一括して扱ったとたんに、それらは唯名論的に否定されてしまうので す。「ソクラテスとプラトン」は二つの個物をつなげて表現しており、そ れらは統一的な「単独の」個物ではありません。「神と被造物」という場 合も(被造物がすでにして単独の個物ではないのですが、ここではさしあ たりそれを創造されたすべてのものを一括して個物と見なしている、と捉 えておきましょう)、二つの個物は統一的な単独の個物ではありません。 こうして唯名論的には、それらは単独の個物を表していないがゆえに、存 在者を指していない、つまりは無であるということになるというのです ね。名辞が単独の個物を表さないような場合はすべて、それらは存在しな いとされます。実際ビュリダンなどは、自著のある箇所で、たとえば 「家」などというものは存在しない(無である)、存在するのは個々のブ ロックだけである、というようなことまで述べているのだとか。 このように、規約が問題視している一連の命題において、唯名論側の解釈 では、否定されているのは存在者そのものではなく、その単独性にすぎな いのだ、というのがパケの見立てです。唯名論側は「神と被造物」が個物 の存在者ではないことから、その組み合わせでは何も個物を指さない、つ まりは「無である」としているのに対し、実在論的なスタンスを取る規約 の側は、もっと素直に、その命題は複数の存在者そのもの(神と被造物の それぞれの存在)を否定しているとして、これを問題視しているというわ けですね。うーん、これは解釈としてなかなか興味深いですが、どこか 「たったそれだけのことなの?」という感じも抱いてしまいます……。い やいや、そこには神学的・哲学的な背景が控えているのだ、とパケはさら に論を進めていきます。そのあたりはまた次回。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その10) 『擁護者小論』第一二章の続きです。さっそく見ていきましょう。 # # # De reliquo vero, ex quibus scilicet integrari seu constitui debeat generale concilium fidelium Christianorum, dictum est nobis 21 secundae; et cuius sit haec auctoritas congregandi sive vocandi, et per quem modum tale concilium debeat consummari. Addendum praedictis quod quibusdam videtur, quod concilium generale nullum possit aut debeat appelari, nisi ecclesia Graeca tota fidelium ad hoc fuerit debite convocata; docetur autem hoc ex quattuor principalibus conciliis, Niceno, Ephesino, Constantinopolitano et Chalcidonensi. // キリスト教信者の総会どのような人々を迎え入れるべきか、あるいはどの ような人々で構成されるべきかという残りの問題については、私たちは第 二一章の後半で述べておいた。また、その総会を召集もしくは呼びかける 権威は誰のもとにあるのか、いかなるかたちでそのような総会が執り行わ れるべきなのかについても述べた。そこで言われたことに、次のことを追 加しておくべきだろう。一部の論者は、すべてのギリシア教会がしかるべ く召集されるのでなければ、総会という言い方はできないし、してはなら ないと考えている。このことは、四つの主要な公会議、つまりニカエア、 エフェソス、コンスタンティノプリ、カルケドンの公会議から導かれてい る。// // Ad quae concilia convocati fuerunt debite per Constantinum primum et alios principes succesores, episcopi et praelati, sacerdotes Graecorum. Nam Christi Ecclesia sive fides prius fuit apud Graecos quam apud Latinos. Unde Apostolus ad Romanos prima ipsos in salutatione praemisit Latinis, dum dixit : "Iudaeo primum et Graeco." Graeci enim, secundum dicta multorum sacrae legis doctorum, (et videtur Magister Sententiarum in hanc quasi declinare sententiam), realiter et in vera credulitate non discrepant a Latinis circa processum Spiritus sancti, sed solum secundum verborum apparentiam quamdam. // //それらの公会議は、コンスタンティヌス一世およびその後継者の諸 王、司教および高位聖職者、ギリシアの祭司たちによってしかるべく召集 されたものである。「ギリシアの」というのは、キリストの教会もしくは 信徒は、ラテン人よりも前にギリシア人のもとにあったからだ。そのた め、『ロマ書』において使徒は、救済における箇所でそれらの人々をラテ ン人よりも前に置き、こう記したのである。「まずユダヤ人、そしてギリ シア人」。というのもギリシア人は、多くの教会法の博士たちの言によれ ば(命題集の師もこの考え方にほぼ傾倒しているように思われる)、聖霊 の発出に関して実際に、かつ真の敬虔さにおいて、ラテン人と一致しない のではなく、ただ単に言葉の見かけにおいて異なるにすぎないからであ る。// // Unde non debent schismatici iudicari, quamvis Romanus episcopus cum suorum fratrum seu cardinalium coetu, id et fortassis inutiliter dicere videantur, quod per Romanum populum et principem corrigi debet, et utrorumque tam Graecorum quam Latinorum concilium convocari, quemadmodum fecit primus Constantinus, ut per idem concilium tolleretur huiusmodi schisma seu apparens dissensio, et in unitatem Christi reduceretur ecclesia tam sententiae quam verborum. //ゆえに、彼らは分裂志向だと判断してはならない。たとえローマ司教 が、その兄弟や枢機卿たちの集団ともどもそう述べたとしても、それはお そらく無意味な言であると思われる。ローマの市民および王によってそれ は正さなくてはならないのであり、コンスタンティヌス一世が行ったよう に、ギリシア人とラテン人双方の会議が召集されなくてはならないのだ。 その同じ会議によってそのような分裂もしくは見かけの不和が解消され、 教義においても言葉においても、教会をキリストの統一へと回帰させるよ うに。 # # # 総会(全体の教会会議)を執り行うに際して、ギリシアの教会を含めるこ との重要性を説いているのが今回の箇所です。リファーされている第二一 章の後半というのは、主著『平和の擁護者』のその部分ということでしょ う。確かにそちらにはギリシア教会の話は出ていないようなので、これは その補遺という扱いになっています。ローマの司教がたとえギリシア教会 を排除しようとしても、ローマ市民(populus)がそれを正さなくてはな らない、というのが印象的ですね。世俗政治を越えて、教会組織において さえも、市民の力をこそ重視しようとしていることの現れです。 さて、これとも関連しますが、今回は参考書としているブリル版『パドヴ ァのマルシリウス必携』から、第四章をなす論考「パドヴァのマルシリウ スにおける世俗政治の原理」(G. Moreno-Riano & C.J. Nederman) を見ておくことにします。主に『平和の擁護者』におけるマルシリウスの 基本的スタンスが要約されています。そこでのキーポイントをなすのは、 なんといっても、マルシリウスが人間の理性を高く評価し信頼しているこ とに尽きます。 人間の理性は、神から与えられた、生活のための様々なアレンジメントを 構築し組織する能力であるとされ、それゆえにこそ、人は共同体を立ち上 げることもできたというわけなのですね。単なる自己利益の追求にとどま らず、人間が協力関係や社会的責任を果たすことができるのは、まさにそ の理性の能力のおかげだとされます。それはきわめて創造的な能力であ り、法律の制定など、市民社会的組織体を構築する上で十分に発揮される ものなのだ、と。 この流れで、マルシリウスは市民(populus)というものを、「洗練され た政治的当事者」と見なしています。これもまた、理性の能力を信頼する ことの現れです。市民というものは、正義や利益についての真の知識を見 出すことができるとされるわけですね。ただ立法などの政治の運用面につ いては、より年配で時間的余裕があり、経験豊富でもある人々に委ねるほ うが得策だとして、いわゆる「専門家」への委任をよしとします。とはい え、そうした委任によって作られた法を認めるかどうかは、やはり市民の 承認に委ねられなくてはならないとされます。 市民にこれほどまでに高い意義と信頼を与えるというのは理想論にすぎな い、という批判も当然出てきそうですが、マルシリウスはそうした批判に 対して、改めて理性への信頼を強調し、共同体の全構成員がその理性の能 力を発揮し、最善の共同体の成功と実現に貢献するには、そうした民主的 な行動、合意の理論こそが最適なのだと主張します。なるほどこれは、完 璧な政治体制(つまりは徳による統治)という理想を構築するための、ま さに真の理想論なのだというわけですね。理想論に「すぎない」のではな く、理想論をこそ掲げなくてはならない、という論法なのでしょう。哲人 皇帝という古代からの長い理想像から、徳による統治という面のみを抽出 し、そこに市民による合意という新たな、より近代的な要素を撚り合わせ ていることこそが、マルシリウスの議論の特色なのでしょう。 マルシリウスのこの「合意の理論」は、さらに統治者の選挙や評価にまで 拡張されていきます。適切な法の性質を判断するのみならず、市民は統治 者がどのような資格を有するべきかについても最良の判断を下せるし、真 に徳をもった統治者も選出できるはずだ、というわけです。マルシリウス はそのような統治者は単なる理想ではなく、実際に存在しうると考えてい るといいます。同論考の著者たちも言うように、これはなかなか驚くべき ことですね。マルシリウスは、人間理性の創造性、潜在力をきわめて高く 評価・設定し、それによって優れた政体がありうることを強く主張してい るのです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------