silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.301 2016/01/23 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その19) パリ大学の規約の第六章が具体的に誰を、どういう思想を批判しているの か……この問題をルプレヒト・パケの研究書に沿って辿っています。前回 の末尾のところでは、項が指し示すのは原則として個物でなくてはなら ず、さもなくば項は何も指していない、つまり無を指していることにな る、という唯名論の議論から、項が二つ以上連結されている場合、それら が個物を示すことは文法上・論理学上ありえないので、必然的にそれは無 を指しているという帰結が得られること、そしてそれを実在論側(規約の 起草者側)が論難しているという解釈が示されました。「神と被造物は無 である(何でもない)」という命題は、それらが二つの項が個物を表して いないがゆえに無であると考えられるというわけですね。 ですが、これはまたずいぶんと形式的な、ある意味極端な議論ではないか という印象です。パケもその疑問は承知していて、規約の六つの章のう ち、第五章において学知の対象という大きな問題を扱っておきながら、末 尾がこれではあまりに竜頭蛇尾にすぎるのではないか、というようなこと を述べています。その一方でパケは、ビュリダンのスタンスを例として、 「神と被造物は無である(何でもない)」という命題は形式的な扱い以外 に、(当然というべきかもしれませんが)神学的、あるいは存在論的な解 釈にも開かれている点に注意を向けます。 ビュリダンはその命題の形式的な議論に続けて次のような議論を持ち出し てきます。たとえば善性で述語づけるときには、神と被造物を合わせて言 う場合も、神だけについて言う場合と「善であること」は変わりません。 そこから、神と被造物を合わせても、神だけよりもよりよいわけではない とします。で、そのように考えるならば、神と被造物を並べて、それを受 ける述語(「善である」とか「無である」とか)が単数であることも選択 としてはありうるというのです。ここでのビュリダンは、大学の規約の勧 め通りに、言葉だけでなく、事物そのものを問題にしようとしています。 そして上の項の単複の問題のいわば裏をかいているわけです。命題を形式 論理的に(つまりは純粋に理性的な学知として)扱うのか、それとも神学 論的に扱うのかは、読み手の選択に委ねられているのですね。 そしてこの選択ということで開かれる自由意志の問題は、とても重要なも のになっていきます。たとえば、これは別の箇所でのビュリダンの議論で すが、アリストテレス的な「永続する世界」とキリスト教的な「神による 創造」の相反するテーゼなども、前者は理性的な学知にもとづくもの、後 者が信仰にもとづくものとなります。ここでもまた、どちらを選ぶのかは 読み手の選択(自由意志による)に委ねられます。とはいえ、もちろんビ ュリダンは信仰を重んじる立場を擁護します。そのようにするのは時代の 要請でもあったからです(そもそも人間の自由意志そのものが、神の似姿 として人間が神の絶対的自由意志を受け継いだものとされるのでした)。 このビュリダンの義論の中で興味深いのは次のような解釈です。もし前者 の重んじて、アリストテレスにしたがって第一動因は不動、かつ第一の動 体があらかじめそれによって動かされるのだとするなら、世界はつねに運 動していた(永続していた)ということになります。その議論では第一動 因は神と見なされるわけなのですが、ここでその動体を動かす第一動因 が、因果関係の原因としてあるのではなく、神のもつ自由意志であったと したらどうでしょうか。神は全能なのですから、その自由意志にあって は、動体がある瞬間には動かされ、またある瞬間には動かされないといっ たことすら可能だということになります。するとここから学知にもとづく 立場はほころび始め、世界は常に運動していなくてもよいということにな って、一挙に後者の信仰の立場へとなだれ込んでいくことになります。ビ ュリダンはまさにそのことを示してみせます。 ですがそうしてみると、神の全能性と自由意志との結びつきからは、逆に 神がある瞬間に世界の創造を打ち消すこともありうる、ということをも導 かれます。神という主体に結びついた世界は、それ自体が「無」に貫かれ ている(いつでも無に帰しうる)ということになるわけですね。あるい は、神みずからも無に貫かれているといってよいかもしれません。 いきおい、これはある存在論へと道を開きます。それはつまり、あらゆる 様態の多様性を削がれ、「何性」「本質」をもたないむき出しの個物とい うことです。個物という単一の存在がそのようなものとして掲げられるう ることになり、すると単複の区別も、単に形式的な区別以上の意味を持つ ことになっていきます。多様性を削がれた個物は複数ではありえません。 かくして存在者とはそのようなもの、多様性を削がれ限りなく無に近づい たものを指すということになります。これがビュリダンの極北の存在論の 背景をなしているのだとパケは考えています。 これに対してリミニのグレゴリウスやオートレクールのニコラなどは、存 在者の中に本質、すなわちなんらかの普遍を見出すという点で対照的で す。単複の違いも、時空間での限定のされ方の違いをもとに区別されるこ とになります。同じ命題でもどちらの教説にもとづいて解釈するかで、項 が純粋な個物を指すのか、本質をともなった実体を指すのかで揺らいでく る、というわけですね。このように「神と被造物は無である(何でもな い)」という命題は、形式的な解釈のほかに神学的・存在論的な背景をと もなった解釈も可能です。すると大学の規約の第六章が、そうした唯名論 が極北的に導く「無性」を斥けようとしている、という解釈も可能になり そうです。このあたり、真相はどうだったのでしょうか? (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その11) 今回見る箇所は、いよいよ『擁護者小論』第一二章の末尾部分です。では さっそく見ていきましょう。 # # # Utrum autem generale concilium debite vocatum et consummatum in definiendis dubiis sacrae Scripturae, quae fidelibus omnibus, dum debite proponitur, credenda sunt de necessitate salutis aeternae possit errare, dicendum quod non, quemadmodum 19 secundae sufficienter certificatum est nobis. Nec obstat paralogismus, quod positiones et divisiones, quo quidam inferunt inducendo, hic et ille potest errare in dubiis circa fidem, et sic de singulis, ergo et omnes. Defecit enim haec illatio secundum formam, ut diximus, quoniam licet in sensu divisio sit orta in singulis, tamen compositis pronuntiata est falsa, et apparet hoc etiam evidenter in allis. // しかしながら、総会がしかるべく召集され、聖書の曖昧な点を規定すると き、その規定はしかるべく提案される限り、永遠の救済の必要から、あら ゆる信徒によって信じられなくてはならないが、そのような総会は誤りを 犯すことがありうるだろうか。これについては、第二部一九章で十分に論 証したように、否と言わなくてはならない。また謬論もそれを阻むことは できない。ある者は、定立や分割によって、しかじかの者は信仰に関する 曖昧さから誤りうると考え、謬論を導きいれてしまうとし、個人がそのよ うであることから、あらゆる人々がそうであると考えてしまう。私たちが 述べたように、この推論は形の上で背教的である。なぜかといえば、感覚 において分割は個々に現れるものの、複合体においてそれを述べるのは誤 りであり、そのことは別の場合に明らかに見てとれるからである。// // Non enim sequitur, quod si unusquisque seorsum ab aliis non potest navem trahere, aut aliam facere consimilem actionem, hanc non posse facere ipsorum multitudinem simul iunctam. Sic etiam et similiter seu proportionaliter in concilio fidelium multitudinis simul iunctae : nam ex auditu unius ad alterum excitabitur mens ipsorum invicem, ad considerationem aliquam veritatis, ad quam nequaquam perveniret ullus ipsorum seorsum existens sive ab aliis separatus : et rursum quoniam hoc videtur esse atque fuisse ordinatio divina, et factum in ecclesia primitiva. // //また、たとえ各人がそれぞれ他人から離れて、船を操ったり、ほかの 類似の行動をなしたりすることはできないにせよ、だからといって多くの 人が一同に会するなら、そうしたことができないことにはならない。総会 においても、同じように、あるいは同等に、多数の信徒が一同に会する。 在る者の発言を他の者が聞き、彼らの精神は相互に高揚し、なんらかの真 理の考察に至るのである。自分一人だけでいたり、他の人々から離れてい ては、彼らの誰もその考察には達しなかったであろう。さらに、それこそ が神の命じるところであるし、そうであった、しかもそれは初期教会にお いてなされていた、と思われるのである。// // Unde Actuum 15 legitur, quod in quodam dubio circa fidem congregatis apostolis et senioribus, cum omni ecclesia quae fuit Ierosolimis, ex Spiritus sancti virtute processisse deliberationem ipsorum, sicut ibidem Scriptura testatur, dum dicitur : "Visum est Spiritui sancto et nobis" et cetera, quod de generali concilio fidelium supradicto repraesentare congregationem praefatam similiter et verisimiliter opinandum. Unde : "Ego autem vobiscum sum usque in saeculi consummationem" ad apostolos Matthaei 28 et ultimo inquit Christus. Quod tam de apostolis quam ipsorum successoribus et omnibus fidelibus dixerit firmiter est credendum, eo quod bene noverat ipse apostolos dudum ante consummationem saeculi morituros. //ゆえに、使徒行伝の第一五章には、信仰をめぐるなんらかの曖昧な点 について、使徒と長老たちが、エルサレムにあったすべての教会とともに 集まり、聖霊の力を借りて、その決議を定めたと記されており、それは次 のように述べている聖書の同じ箇所に証されているとおりである。「聖霊 にも私たちにも[よいことと]思われた」云々。上に述べた信徒の総会に ついても、前述の集まりを同じように、またもっともらしく表していると すべきである。ゆえに「私は世紀が完了するまであなたがたとともにいよ う」と、マタイ伝二八章および末尾でキリストは使徒たちに述べているの である。使徒について、またその後継者、あらゆる信徒について言われた ことは、固く信じるべきである。なぜならその者は、諸世紀が完了するは るか以前に、使徒たちが死することをみずから知っていたのだから。 # # # 個が単独ではできずとも、共同体としてならばできることもあるのだか ら、逆に個が誤りうるからといって、共同体も誤りうるとは推論できな い、というのがここでの基本的な議論ですね。第一節で批判されている 「ある者」とは、底本の注によれば、オッカムを指しているとのことで す。上の「文献探索シリーズ」でも前に触れたように、オッカムは個別を 重視しそれ以外を認めようとはしません。集団といったものは、対象を定 立し(概念化し)分解することで得られる個人の集まりにすぎず、そこか ら、集団が行う行動もまた個人に帰せられることになるのでしょう。 マルシリウスは逆に、個の論理と集団の論理は別であると考えているよう です。集団というのが一種の抽象概念なのだとするなら、マルシリウスは むしろ実在論の立場に立つことになるのでしょうか。このあたりは検証が 必要になりますが、いずれにせよオッカムは、マルシリウスの『平和の擁 護者』に批判的だったという経緯もあるようですし、両者はともにルート ヴィヒ四世の宮廷に集う知識人グループに所属していたこともあって、両 者の間にはなんらかの確執があったのかもしれません。 マルシリウスが個と集団とで行動が異なるとしているのは、前回にも触れ たように、理性の働きに大きな信頼を寄せているからだろうと思われま す。個人は単独では誤ることがあっても、複数の者が集うことによってそ うした誤りは正されうるというわけです。前にも出てきたことですが、マ ルシリウスにあっては対話、すなわちコミュニケーションこそが、真理へ の道をなしているとされていたのでした。 とはいうものの、目下の議論は個と集団といった抽象的なものであるより は、むしろ具体的に教会会議の無謬性をめぐるものです。その観点からす ると、オッカムとマルシリウスの対立も教会会議についての見方に起因し ている、と考えるほうが素直かもしれません。これまでも見てきた参考書 『パドヴァのマルシリウス必携』の第八章「小品的マルシリウス:パドヴ ァのマルシリウスのその他の作品」(ジャンルカ・ブリグリア)が、この 問題にほんのわずかですが触れています。それによると、やはりというべ きか、両者は教会会議をめぐって対立的な見方をしているようなのですね (p.301)。オッカムが、信仰の問題は個々人にまかせればよいとしてい るのに対して、マルシリウスは教会会議の組織的な統制が必要だと見てい るというのですね。 ちなみにオッカムがマルシリウスを批判しているのは、『対話 (Dialogus)』という著書の第三部、第一区分、第三書と第四書という ことです。これも長大なので個人的にはまだ読めていませんが、http:// www.britac.ac.uk/pubs/dialogus/31dText.pdfにPDFがあります。そ の概要を記したJohn Kilcullen & George Knyshの「Ockham and Dialogus」(ttps://www.britac.ac.uk/pubs/dialogus/wock.html)に よれば、第三書はペトロが教会の長であるかどうかという問題について参 照すべき出典と、教会会議が無謬かどうかという問題が扱われているとい い、第四書はペトロが教会の長であるかという問題を扱っているといいま す。 * さて、『擁護者小論』の第一二章は以上で読了ですが、マルシリウスのテ キストはもう少し読んでみたいと思います。次回からは主著『平和の擁護 者』の民政論の核心部分を眺めていくことにします。もうしばらくお付き 合いのほど、お願いいたします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------