silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.302 2016/02/06 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その20) 前回は、ビュリダンなどが唱える唯名論が、神の全能の自由意志(被造物 の創造すらいつでも撤回しうる)という議論から、「本質」のようなもの をもたないむき出しの個物という新手の(薄手の)存在論を導いたことを 見ました。パリ大学の規約の第六章は、そうした薄手の存在論を叩こうと していたかにも見えます。ここからパケは、規約の第六章についての議論 全体のまとめに入ります。 第六章が批判する命題の事例の一つ「神と被造物は無である(何ものでも ない)」に似た表現が、オートレクールのニコラが発した言葉(「神と被 造物は何ものかではない」)にあることは確からしく、その挑発的なもの の言い方もいかにもニコラらしいとされて、ここから規約の批判対象はニ コラではないかという説が出てきたわけなのですが、前にも触れたよう に、ニコラは実在論的なスタンスを保持しており、個物の存在論とは相容 れないことから、むしろそのニコラの論争相手側こそが、規約の批判対象 ということになるのではないか、という反論も可能なのでした。 その個物の存在論、すなわち純粋かつ端的な個物というのは、(一)普遍 に言及するあらゆる命題の再解釈を可能にし、(二)個別代示を優遇し、 (三)正しい意味と誤った意味の区別を要求し、(四)字義通りの意味に 個別代示に類する役割を与えて、言葉と事物とのつながりを解消し、 (五)普遍的な学知の対象を意識の表象へと変容させ、(六)間接的なか たちであれ、単一性および複数性を確立することに貢献するようなもの、 とされます。これら六つの特徴は、規約の六つの章それぞれから浮かび上 がってくるものです。別の角度、つまり思想史的展開から見れば、ドゥン ス・スコトゥスの「直観的認識」がオッカム的な変容を経て、ビュリダン の「認識的視座における認識」へと至り、そこから経験的な学知が扱う個 別の事物になった、と見ることもできる、とパケはまとめています。 こうして、ニコラが批判対象だという説はだいぶ後退したわけですが、パ ケはここでなんとも刺激的な、興味深い推論を加えていきます。ニコラの 発言は「神と被造物」だけに言及しているのですが、規約のほうはさらに 「ソクラテスとプラトン」を加えています。このことにパケは注目しま す。この付加によって、その命題を神学的な文脈からあえて引き抜いてい るのではないかというのです。つまり、その命題(神学的に扱うならきわ めて異端的な命題です)を、規約は中和しているのではないかというので すね。しかも、そうしておいて、その命題を正してみせることで、あくま で命題を哲学的に扱っているのだ、ということを宣言しているかのようで す。なぜそんなことをしているのでしょうか? これではまるで、規約がニコラの教説を後押しているようではないか、と パケは印象を語ります。ニコラの上の発言には異端の嫌疑がかかったわけ なのですが、この規約の起草の期限はちょうど、ニコラがアヴィニョンへ の出頭を命じられた期限と同じ月(1340年11月)にあたり、そこに、教 会権威への意図的な当てこすりが見いだせるのではないか、というわけで す。ニコラに対する係争は当時、広く知られるところとなっていたようで す。パリ大学の自由学芸部は、そうした異端的な教義を公式に糾弾すると ともに、それを形式的な議論へと中和することで、いわば公式のアリバイ (弁明)を作つつ、ニコラに弁解のための議論を提供していたのではない か……と、そんな推測をパケは巡らしています。規約は「何ものかではな い」というニコラの言を「何ものでもない(無である)」と言い換えて、 神学的に見れば異端の度合いを「膨らませ」ていますが、と同時に、形式 的な議論としては正しいといえる「ソクラテスとプラトン」の命題も並記 することで、偽りの意味の糾弾という覆いのもとで正しい意味にも言及 し、そうした神学的議論を「しぼませる」という芸当をやってのけている のではないか……と。 なかなか複雑な推測ですが(推測に推測を重ねている感じですね)、もし パケのこの推測がそれなりに当たっているとしたら、こういった微妙なさ じ加減、ある意味「離れ業」的な仕込みができる人物は、さしあたり一人 しか思い浮かびません。ビュリダンです。これもまた、ビュリダンの卓越 した政治的駆け引きの産物なのではないか……。パケは、表層的な前景 (議論の形式化、表面上の糾弾)の背後に、眩暈を覚えさせるような後景 (神学的な論難をしぼませる作為?ニコラへの密かな援軍?)を忍ばせ、 全体を曖昧な議論に仕立てるような芸当は、ビュリダンにしかできないだ ろうと見ています。 曖昧さを演出する手法は、ビュリダンの十八番と当時から考えられていた ようで、その伝説・逸話の数々にも登場するといいます。いわゆる「ビュ リダンのロバ」の喩え話(二つの干し草の山を前にして、どちらを食する のか決めることができずに餓死するロバの話)もそうです。この喩え話は ビュリダン本人の著した文書には見当たらないといいますが、これなど も、そうした曖昧さ・両義性を打ち出す戦略に通じているように思われま す。つまりこれを、二つの可能性を前にした決定のアポリアと見るのでは なく、決定する自由という観点から見るならば、どちらも選ばないという 第三の選択肢が浮上してくるというわけです。 ビュリダンは、哲学と信仰、伝統と進歩、王と教皇、アリストテレスの権 威と新しい学問における経験の重視、そしてパリ大学のエスタブリッシュ メントとオッカム派の新しい動きなどの間で、あえて自分をロバの立場に おき、とはいえロバのように餓死するのではなく、こう言ってよければ両 サイドにともに与する形で、その両義性にさえ市民権を与えるような開か れた未決定を、制度化・正当化してみせたのではないか……。パケはこの 推測を単なる空想として描いていますが(つまり具体的裏付けは得られて いないということで、なんらかの形での実証が待たれます……)、それに してもなかなか興味深いビュリダン像に思えますね。 以上でほぼ、パケとともに規約の全六章を一通り巡ったことになります。 というわけで、次回はその総まとめです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その12) 今回からは、マルシリウスの長大な主著『平和の擁護者』から、統治の制 度論にあたる第一部第一五章を読んでみたいと思います。この一五章は、 統治者の基本的な在り方について議論した部分で、マルシリウスの議論の 中核の一部をなしていると言えそうです。底本はイタリアで二巻本で出た 羅伊対訳本の第一巻(Marsilio da Padova, "Il difensore della pace, volume primo", trad. M. Conetti et al., Biblioteca Universale Rizzoli, 2001)です。では早速眺めていきましょう。 # # # Capitulum XV De causa factiva pocioris institucionis principatus, unde apparet eciam effectiva causa reliquarum parcium civitatis. 1. Consequenter autem dictis restat ostendere principancis factivam causam, per quam videlicet alicui vel aliquibus datur auctoritas principatus, qui per eleccionem statuitur. Hac enim auctoritate fit princeps secundum actum, non per legem scienciam, prudenciam aut moralem virtutem, licet sint hee qualitates principantis perfecti. Contingit enim has multos habere, qui tamen hac auctoritate carentes non sunt principes, nisi forte propinqua potencia. 第一五章 共同体の他の部分の作用因がもたらされる、統治の確立においていっそう 重要な作用因について さて以上の言説から結果的に、統治者の作用因の論証が残っている。その 作用因を通じて、任意の人物あるいは複数の人々に、統治するための権威 が与えられるのである。それは選挙によって確定される。その権威をもっ て、統治者は現実にそのようなものとなるのであり、たとえ法律の修得や 賢慮、道徳的な徳といったものが完全な統治者のもつ質であっても、そう した質によってそうなるのではない。そのような質を数多く備えていて も、権威を欠いているのであれば、そのような者は、おそらくは統治者に なる可能性を秘めてはいても、統治者ではない。 2. Ad quesitum ergo redeuntes, dicamus secundum veritatem et sentenciam Aristotelis 3 Politice, capitulo 6, potestatem factivam institucionis principatus seu eleccionis ipsius ad legislatorem seu civium universitatem, quemadmodum ad eandem legumlacionem diximus pertinere 12 huius, principatus quoque correpcionem, quamlibet eciam deposicionem, si expendiens fuerint propter commune conferens, eisdem similiter convenire. Nam hoc est unum ad maioribus in policia, que ad multitudinem civium universam ex dictis Aristotelis 3 Politice, capitulo 6, pertinere conclusimus 13 huius parte 4. Est enim multitudo dominans maiorum, ut dicebatur ibidem. // ここで問いへと戻り、私たちはアリストテレスの『政治学』第三巻六章の 真理および文面にもとづきこう述べよう。統治を確立するため、もしくは 立法者の選出のため、共同体全体のために作用する権能は、本書の第一二 章においてその立法について述べたように、それが共同体をもたらすため に役立つのであれば、統治の修正やなんらかの廃止にも同様に当てはま る。というのもこれは、『政治学』において、より重要な論点に向けたも のであるからだ。ゆえに『政治学』第三巻第六章の文言から、私たちは本 書の一三章第四節において、それが多くの共同体の全体に適合すると結論 づけた。『政治学』の同章には、より重要な論点においては複数の支配形 態があると記されている。// // Modus autem conveniendi ad institucionem seu eleccionem predictam variatur fortasse secundum provinciarum varietatem. Verum qualitercumque diversetur, hoc in quolibet observandum, ut talis eleccio seu institucio semper fiat auctoritate legislatoris, quam civium universitatem aut eius velenciorem partem persepe diximus. Potest autem et debet convinci propositum hoc eisdem demonstracionibus, quibus legumlacionem, mutacionem et reliqua circa ipsas ad civium universitatem pertinere conclusimus 12 huius, sola tamen harum demonstracionum minori extremitate mutata, ut videlicet pro termino qui lex dicitur, summatur terminus principantis. //上述の統治の確立もしくは選出に適した方法は、おそらくは各州の違 いによって異なるだろう。いかなる形で異なるにせよ、いずれにしても次 のことを見て取らなくてはならない。そのような選出もしくは確立は、つ ねに立法者の権威においてなされるものであり、それを私たちは何度も、 共同体の全体、あるいはその優位な部分のことであると述べてきた。だ が、その命題は論証によって立証できるし、されなくてはならない。それ により、立法や変更、あるいはそれに関わるその他の事象は、共同体全体 に適合するのであると、私たちは本書の一二章で結論づけた。ただし、そ れら論証の小前提の末端部分は変更し、法という用語に代えて統治者とい う用語を用いている。 # # # 『平和の擁護者』は大部な書物です。全体は三部に分かれていて、第一部 が19章、第二部が30章、第三部が3章という構成になっており、各部の 長さはアンバランスです。ちなみに内容的には、第一部が地上世界におけ る政治的権威の起源と性質を扱い、第二部が教会がもつ諸権利の批判、と りわけ教皇が世俗の権力を振るうことへの批判と、それに代わる教会会議 を中心とする教会論を論じ、第三部はそれらの総まとめという感じになっ ています。 以前取り上げた論考(『パドヴァのマルシリウス必携』所収の、モレノ= リアンノ&ニーダーマン「パドヴァのマルシリウスによる世俗政治の原 理」)によれば、この第一部と第二部の分け方は、世俗の政治論と教会の 事案で分けている点で、当時としても異例なものだったといいます。ま た、『平和の擁護者』は個別の二つの論考から成るというよりは、中心的 な単一のテーゼが全体を結びつけている構造になっていると指摘していま す。そしてその中心的なテーゼとは、教皇の統治が世俗の生活に干渉する ことにより、人間の幸福、すなわち平和的で充足的な共同体の在り方が脅 かされているという危機意識にほかなりません。 その意味で、マルシリウスと同時代、もしくはそれ以後の当時の読者は、 同書の第二部にとりわけ注目したものと思われるわけですが、逆に近現代 の研究者は、第一部の世俗政治論を重んじる傾向が強いといい、第二部の 詳細な検証、あるいは第一部との絡みでの研究は思いのほか少ないとも言 われています(たとえば同じ『必携所収の、ベッティナ・コッホ「パドヴ ァのマルシリウスによる教会と国家論」)。でも、確かに私たちからする と、第一部の革新性がやはり強烈ですね。ここでマルシリウスを囓ってい る私たちは、さしあたり今回はこの第一部の中枢部分を読んでみることに 専念したいと思います。 その第一部ですが、以前ブリグリアの研究書を通じて概要だけはざっと押 さえておきました。執筆意図を記した第一章、王政の定義を記した二章を 序として、マルシリウスはまず、共同体というものが成立した原因につい て議論を展開します(三章)。そこではアリストテレスの議論をベースに しつつも、人体との比喩をもとに、共同体が常に解体のリクスを含んでい ることに力点が置かれているのでした。続いて議論は、その人体の比喩に 沿って、全体と部分の機能、役割に及んでいきます(四章から五章)。そ こでとくに問題とされるのは聖職の役割です(六章)。次に今度は政体の 類型(七章から九章)、さらには立法と立法者の問題へと進んでいきます (一〇章から一四章)。専門集団に立法の権限が委ねられはしても、それ を司るのは共同体の全体なのだということが明確に打ち出されています。 さて、今回のテキストには一二章と一三章への言及があります。一二章で は立法者についての議論がなされ、その立法者の権威というものが、民に よる選挙(選出)によってのみ与えられるのだということが示されていま す。議論の下敷きになっているのはアリストテレス『政治学』第三巻(と くに六章から七章あたり)で、それをもとに民こそが法律の第一の作用因 であると論じられています。一三章では、前章への異論を反駁しつつ、そ の敷衍を図っています。 こうしてここで読んでいく一五章へと繋がっていくわけですが、今回分の 具体的な中味についてのコメントは次回にまとめたいと思います。ブリグ リアの研究書は、この章を含む、政体の全体と部分の議論を、制度のいわ ば「発生学」として読んでいくという読み方を試みています。そのあたり も、次回から順次取り上げていくことにしたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------