silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.303 2016/02/20 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その21) 前回までで一通り、1340年のパリ大学の規約について、ルプレヒト・パ ケによる研究書の大筋を追ってみました。その規約を誰が書いたのか、具 体的に誰を批判していたのかという、出発点の疑問については、決定的な 証拠こそないものの、可能性の高い回答として、起草者はビュリダンでは ないか、そしてその文言は、ある種の唯名論を批判する体裁を取りながら も、その実、新しい学術的知見を擁護するような、やや政治的とも言える 内容になっているのではないかという説を打ち出しています。 ここからはさらに、影の主役といいますか、ビュリダンの新しい考え方、 そして当時の思想状況が浮かび上がってくるのでした。新しい考え方と は、一つには従来の代示理論の変革です。ビュリダンはそれまでの単純代 示(意識の内容物を指す代示)を排し、質料的代示(文字そのもの、記号 そのものを表す)と合流させます。意識の内容もまた、記号であるという ことになったわけですね。さらに特定の個物を指すとされていた個別的代 示を拡張し、個物全般を指すものとしました(唯名論で実在するのは個物 だけです)。ビュリダンはそれを意味的代示と呼んでいます。こうして、 記号的存在と外的存在(たとえば言葉とモノなど)ははっきりと区別され るようになったのです。 これにより、人間と記号との関係性も変わります。事物との関係性からい わば「解放」された記号を、人間は自分の自由意志にのみもとづき、操作 することができるようになるのでした。そのことは、ビュリダンが重視し たような、原因と結果の制約などから離れて自然の対象を数学的に処理す るための大きな一歩にもなっていきます。たとえば天文学の理論の解釈に おいて、ビュリダンは自分の惑星の移動経路の計算が、厳密・絶対的に真 でなくてもよいと考えていました。天文学的実践に適うものであるなら ば、それで十分だというのです(!)。 言葉や仮説を自由意志で操作できるという人間観は、世界や秩序を自由意 志で操作できる全能の神がモデルになっています。人間もまた、あらゆる 可能性を組み合わせたり、構想したり、拒否したりできる自由を与えられ ている、というわけですね。後世の近代科学への、それは大きな布石とな っていくのだといいます。この意味で、一四世紀半ばというのは画期的 な、まさに一大変革の時代だったと言えるのかもしれません。そしてビュ リダンの思想は、その代表格ということになりそうです。 一方でビュリダンは、たとえば上の代示理論の変革にしても、ペトルス・ ヒスパヌスの伝統的な代示理論を枠組みとして保持し続けています。中身 は新しいものに刷新しているのですが、それを提示する大枠が温存されて いるというのですね。この、あえて古い袋に新しいワインを詰めるかのよ うなやり方は、「モダンな道」(via moderna)を学生に説く上できわ めて有益だったようで、ビュリダンが教師として、学生たちの間で高く評 価される所以にもなったようなのです。ビュリダンの書いたものも同様 で、オッカムなどの見るからに斬新で派手な議論とは裏腹に、長舌な文章 を丁寧に読み解くことで初めてその「モダンな道」の革新性が判明するよ うな、手の込んだ提示方法を採用しているといいます。 そのスタンスは、この大学規約にも生きている、とパケは考えています。 基本的にオッカム思想を踏襲するビュリダンですが、あえてその思想の形 式的な面・技法的な面を取り上げ、内容面を否定することなく、オッカム 派への批判を展開するような文章に仕立てている、というわけですね。そ うすることでビュリダンは、現実の新たな解釈と、その現実に対する新た な技術的行為(働きかけ)への途を、暗に、そして慎重に開いているの だ、というのがパケの見立てでした。もしそれが正しいとすれば、なんと も巧みな駆け引きがそこに働いていることになります。 パケは同書の末尾で、近代科学へと向かうその後の西欧思想の歩みを、他 の研究者たちを引きながらまとめていますが、それについては割愛しま す。それにしても、規約のごくわずかな文章から、ビュリダンを中心とし たこれだけの唯名論的な転回の構図を引き出してみせたという点で、同書 はなんとも魅力的な書著でした。多少とも力業にすぎるところもあるのか もしれませんが、それにしても面白い一冊です。同書はドイツの原著が 1970年刊行ですから、新たな証拠をもとに、これを実証的に裏付けるよ うな、あるいは真正面から論駁するような、発展的な研究がもうそろそろ 出てきても不思議ではありません。そうした展開をも期待しつつ、さしあ たりここではいったん同書を閉じることにしたいと思います。 (了) ……というわけで、今回をもってこのパケの本については一応終了とし、 また次回からは別のものを見ていきたいと思います。とりあえず考えてい るのは、唯名論ついでで、中世から現代までの唯名論がらみのテキストを 集めたアンソロジーを見ていこうかと思っています。またおつきあいのほ ど、よろしくお願いいたします。 ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その13) 『平和の擁護者』から第一五章を読んでいます。今回は第三節めです。さ っそく見ていきましょう。 # # # 3. Est autem hoc cum sua veritate probabile valde, si necessarium probabile liceat dicere. Cuius enim est generare formam aliquam, ipsius est determinare subiectum illius, ut in omnibus artibus operativis videre est. Unde et Aristoteles 2 Physice, capitulo 4 : "Eiusdem autem sciencie est cognoscere speciem et materiam, usque ad hoc, ut medici sanitatem et coleram et flegma, in quibus est sanitas. Similiter autem edificatoris est speciem domus et materiam quoniam lateres et ligna". // 三.必然的であることを蓋然的と言ってよいならば、このことは、その真 理ともどもきわめて蓋然的である。というのも、あらゆる実践的な技芸に 見られるように、なんらかの形を生み出す者は、その基体を定める者であ るからだ。ゆえにアリストテレスは、『自然学』第二巻四章でこう述べて いるのである。「学識というものは、次のようなところまで、形象と質料 を認識しなくてはならない。すなわち、医者が健康状態やコレラ、そして 健康状態をもたらす体液を認識できなくてはならないように。同じように 建築家は、屋敷の形象と素材を認識できなくてはならない。なぜなら煉瓦 や木材で作られるのだから」。// // Sic quoque in reliquis artificialibus et naturalibus apparet hoc induccione manifesta. Cuius quidem causa est, quoniam forme cum suis operacionibus sunt fines, et cuius causa materie sunt aut fiunt, ut eodem libro et capitulo dictum est. Cum igitur ad civium universitatem pertineat generare formam, secundum quam civiles actus omnes regulari debent, legem scilicet, eiusdem universitatis esse videbitur huius forme determinare materiam seu subiectum, cuius, secundum hanc formam, est disponere civiles hominum actus, partem scilicet principantem. // //このように、明白なる推論によって、このことはほかの技芸や自然に も見て取れる。同書の同じ章に記されているように、その理由はという と、形相の作用が完遂すると、それを原因として質料は存在する、もしく は作られるからである。ゆえに、形相の生成は市民全体に関係し、それに もとづいて市民の活動はすべて規制されなくてはならないのであるから、 それはすなわち市民の全体の法であり、その形相によって質料、すなわち 基体(主体)を定めなくてはならないと思われる。その基体(主体)とは 統治する部分であり、かかる形相にもとづき、市民の活動を割り当てなく てはならない。// // Et quoniam hec est formarum optima civilis communitatis, debet illi determinari subiectum optimum secundum disposiciones; quod eciam in precedente capitulo probabili racione conclusimus. Unde convenienter inferri posse videtur, electum principantem et absque generis successione simpliciter non electis, aut hiis qui cum generis successione statuuntur, policie prestanciori modo preferri. //これが市民の共同体における最善の形であることから、それにより、 能力にもとづき最善の基体(主体)が決定されなくてはならない。それは また前の章で、しかるべき理由をもって結論づけたことである。したがっ て、次のことを適切に推論できると思われる。選出されていない者、ある いは世襲により指名された者よりも、『政治学』が示すやり方で、世襲で はなく端的に選出された統治者のほうが望ましい。 # # # 前回見たのは一節目(第一段落)と二節目(第二段落)でした。そこで は、統治者には権限が与えられなくては統治者たりえないという話がなさ れていました。そして、その権限を与えるのは共同体の全体であるとされ ていました。今回の箇所では、また違った視点から、今度は質料形相論的 に、共同体の統治というものを考えています。 共同体での形相、すなわち形をもたらすものとは、法であるとされていま す。そしてそれによって質料に形が与えられます。共同体の場合の質料に 相当するものとは何でしょうか。それは基体(主体)であるとマルシリウ スは言います。基体とは、いわば統治の構造体ですね。形を与えることに よって統治の機能が構造化するということで、その形を与えられる当のも のは統治者(あるいは統治する集団)ということになります。そしてその 法や統治者をもたらす抜本的なもの(質料形相論でなら、それらをもたら す神の位置づけに相当するもの)とは、共同体の成員の全体(あるいはそ の委託を受けた立法者)だと考えられています。統治者もまた、選挙とい う法に則った手続きを経て選出されることで、しかるべき権能が与えられ ることになるのでしょう。 マルシリウスが今回の箇所の二段落目で参照しているのは、アリストテレ スの『自然学』194a.22から26です(底本の注を参照しています)。 『自然学』のこの箇所の前後は、まさに質料形相論の基礎が示されている ところです。自然というものが質料と形相の二つの相から成るとされ、人 為的な技芸もまた自然を模倣するのであるから、それもまた二つの相から 成ることになります。ゆえにアリストテレスは、技芸をなす人は「次のよ うなところまで形相と質料を認識しなくてはならない」として、上でも出 てくる医者と建築家の例を示しています。 アリストテレスのテキストではその後の部分で、自然は目的因をなし、そ れに向かうべく、技芸においては質料への人為的な操作が加えられるの だ、という図式が示されています。このあたりの話も共同体の統治に当て はめることができそうです。共同体もまた自然を模倣しようとする人為的 操作で作られるものにほかなりません。 この一五章の議論について、前にも参考としたジャンルカ・ブリグリアの 研究書では、マルシリウスが、共同体の各部をすべてつなぐ、第一原因と 第二原因、つまり作用因と形相因の関係について議論しようとしていると 見ています。マルシリウスはそこから一貫性をもった体制と政治理論を引 きだそうとしている、というのですね。マルシリウスにとっての直接的な モデルとなっているのは、どうやらイタリア中部・北部の都市国家らしい のですが、マルシリウスはそれを敷衍し、都市国家と帝国の関係など、 様々な権力レベルやモデルを含めているのだといいます。 作用因・形相因の話は次回に見る四節以降になるようなので、詳しいこと は追々見ていくことにしますが、もう一つ、前回と今回の本文に関係する アリストテレス『政治学』の参照箇所(1282a.38)も見ておくと、そこ では統治に関わる職種が挙げられ(参事官、議員、裁判官)、個人ではな くその所属する役職こそが権威を有するということが示されています。そ の前後の部分では、そうした職務の者たちの監査や選出がきわめて重要で あることが指摘されています。それらを導くのは優れた法であるとも記さ れています。監査や選出を行うのはもちろん共同体の成員です。 『政治学』には質料形相論のような議論は出てきませんが、その基本的な 構図が質料形相論の構図に重なることをマルシリウスは看破しているので しょう。加えて、目的因と作用因の議論も重ね合わせているとなると、こ のあたりにマルシリウスの方法論が見えてくるような気もします。アリス トテレスの基本的議論を巧みに重ね合わせて用いること……著作横断的 (?)な方法、と言ってもいいかもしれません(笑)。些細なことです が、これはちょっと面白い点でもあります。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------