silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.304 2016/03/05 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その1) さて今回から新たな文献めぐりということで、「唯名論の行方」というこ とについて考えてみたいと思います。前回まで見ていた、14世紀のパリ 大学の規約についての研究から、当時新しい言語観、認識論、学知論が生 まれていたことが浮き彫りになったわけなのですが、そのキータームをな すのがいわゆる「唯名論」でした。この名称で括られる一連の議論は、そ の後も長く続き、その一端は現代にまで及んでいます。そんなわけで、こ こで再び、唯名論というものは一体何だったのか、また何でありうるのか というあたりを、もう少し間口を広げて見直してみたいと思った次第で す。 取り上げるのは、フランスのヴラン社が出している「テクスト・クレ(キ ーテキスト)」シリーズから、『唯名論−−存在論、言語、認識』("Le nominalisme : Ontologie, langage et connaissance", ed. par Claude Panaccio, Vrin, Paris, 2012)という一冊です。このシリーズはテーマ 別に様々なテキストの抜粋をまとめたアンソロジーで、大学生向けの基本 文献という感じで編まれていますが、その収録内容はときに絶妙で、なか なか侮れません。今回のアンソロジーも、多彩な、それでいてしっかりと ポイントを抑えたテキストが収録されている印象です。ボエティウスやア ベラールから始まって、オッカム、ニコル・オレームなど中世思想、さら にはデカルトやジョン・ロック、ヒュームなどの近世、そしてプライス、 キャンベル、ネルソン・グッドマン、セラーズなど、より近年の思想家た ち。なかなか錚々たる面子です。 今回は初回ですので、全体の布置について見通しをよくするために編者ク ロード・パナッシオが冒頭で語っている口上(序文)を見ておきましょ う。そこではまず、唯名論の流れという観点から、中世の唯名論と現代の 唯名論との接合の可能性について触れています。唯名論の議論の様態は、 当然ながら中世と現代とでは大きく変わってしまっています。もはやアリ ストテレスの註解は必須とはされませんし、文献解釈をベースとして主題 の方向づけが決まるということもありません。ですが、と著者のパナッシ オは言います。アベラールやドゥンス・スコトゥス、オッカムなどのテー ゼや議論は、現代の議論を今なお下支えすることできるのではないか、ま た、セラーズやアームストロング、キャンベルなどの議論の展開も、中世 の議論の争点をよりよく理解するための支えになりうるのではないか、 と。 つまり、唯名論では結局何が問われているのか、という点は、今も昔もそ う大きくは違わないのではないか、というわけです。私たちは、時空間に 置かれた個別の事物を感覚的に知覚し、それを言語的に、あるいは心的 に、一般的な表象のもとにまとめ直します。ここで、外的な事物は個別の ものだけだと考え、カテゴリー分けや抽象化、一般的な概念化はすべて言 語または精神による作用だと考える立場があります。それが唯名論です。 一方の実在論は、個別のものとは異なる単位が現実世界に認められると考 える立場で、その場合の単位にあたるものが「種」であったり「類」であ ったり、一般的な「性質」、あるいは抽象的実体(数や集合体、共通本性 など)であったりします。 両者の議論はプラトンやアリストテレスの時代から現代まで脈々と続いて きたわけですが、これを唯名論の側の諸テキスト(中世・近世・現代)を 通じて眺めることによって、その統一性や豊かさを見出せるのではない か。パナッシオによれば、これが同書の目標なのだといいます。こう述べ た後、パナッシオはごく簡単に唯名論の略史を振り返っています。それに ついてもいくつかポイントをかいつまんでおくと、まず唯名論は、古代ギ リシアに端を発すると見られるものの、オッカムなどが主張していたよう に、たとえばアリストテレスにそのような明確な議論があるわけではない ということです。結局、それが再浮上するのは一二世紀のアベラールから なのですが、それもまた後世に影響を及ぼしたとは考えにくいとされ、結 局それが大きく進展するのはオッカムを待たなくてはなりません(それ以 前にも、たとえばドゥンス・スコトゥスは穏健な実在論者でしたが、普遍 は個物に潜む共通本性が精神内で現勢化したものというふうに、ある種の 内在論を採用したりしていました)。それに続くジャン・ビュリダンのほ か、一四世紀には様々な論者が唯名論を採用し、一大黄金期を迎えます。 これは一六世紀まで脈々と受け継がれていきます(スコットランドのジョ ン・メイヤーなどが挙げられています)。近代になると哲学自体が一種の パラダイムシフトを起こし、まさに革新の時代を迎えるわけですが、その 時代を代表する思想家の中にも、いわゆる「唯名論者」と評してしかるべ き人物たちがいました。一七世紀で言えば、普遍などというものはないと 喝破したホッブス、存在するのはすべて個物だとしたジョン・ロック、普 遍は私たちの思考に依存していると述べたデカルトなどです。一八世紀 も、経験論者(ヒューム、リード、コンディヤック)にロック的な唯名論 的立場が見られるといい、また「啓蒙思想はすべて唯名論的な味わいをも っている」とする研究者もいるのだそうです。 一九世紀になると、ドイツ観念論やロマン主義が一世を風靡し、「唯名 論」という括りはもはやあまり使われなくなってしまいます。ところが二 〇世紀に入り、分析哲学が登場すると、普遍概念の問題系が再浮上し、唯 名論もまた新たな注目を集めます。チャールズ・サンダース・パースはド ゥンス・スコトゥスを着想源として、近代的精神の一部となってしまった 唯名論を批判し、バートランド・ラッセルはプラトン主義的な普遍概念を 擁護します。一方で前期ウィトゲンシュタインやフランク・ラムジーなど には、明示こそされないものの、唯名論といっても差し支えないような議 論を展開しているといいます。二〇世紀半ばになると、唯名論には大きな 刷新がほどこされます。その口火を切ったのは、クワインとネルソン・グ ッドマンで、その後もプライス、セラーズなどが別の形の唯名論を擁護し ます。このあたり、具体的は話は今後追っていきたいと思います。 さらに最近の唯名論の展開では、「相似の唯名論」やトロープス理論など が、一般性とは何かといった問題を説明しようとしていたりします。その 様々な戦略や議論には、どこかアベラールやオッカム、ジョン・ロックな どを思わせるものもある、とパナッシオは述べています。このように様々 な断絶や変化を伴いつつも、唯名論にはなんらかの連続性があることを同 著者は指摘し、それをもって中世、近代、現代の文章から成るアンソロジ ーの意義を強調しています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その14) マルシリウスの主著『平和の擁護者』第一五章から、今回は第四節を見て みましょう。 # # # 4. Huius ergo partis efficiente monstrato, habitum esse dicere secundum proposita frequenter a nobis, causam effectivam, instituentem et determinantem reliqua officiorum seu parcium civitatis. Hanc autem primam dicimus legislatorem, secundariam vero quasi instrumentalem seu executivam dicimus principantem per auctoritatem huius a legislatore sibi concessam, secundum formam illi traditam ab eodem, legem videlicet, secundum quam semper agere ac disponere debet, quantum potest, actus civiles, quemadmodum ostensum est capitlo precedente. // 四.その部分の作用因については示したので、私たちがたびたび提示して きたことにもとづき、それ以外の役職、もしくは共同体のそれ以外の部分 を制定し決定する作用因について述べなくてはならない。私たちはその第 一の作用因は立法者であると言い、また第二の作用因、つまり手段に準じ るもの、もしくは執行する因を、私たちは統治者であると言おう。その者 は立法者から委ねられた権威により、また同じくその立法者から託された 形式、すなわち法に則って統治し、前章で示したように、その法にもとづ き、市民の活動を、つねにあたうる限り導き、管理しなくてはならない。 // // Quamvis enim legislator, tanquam prima causa et appropriata, determinare debeat, quos qualia in civitate oportet officia exercere, talium tamen execucionem, sicuti et ceterorum legalium, precipit et si oportet cohibet pars principans. Fit enim per ispsum conveniencius execucio legalium quam per universam civium multitudinem, quoniam in hoc sufficit unus aut pauci principantes, in quo frustra occuparetur universa communitas, que eciam ab aliis operibus necessarius turbaretur. // //第一の適切な作用因として、立法者は共同体の中で誰がどのような職 務を果たすのか決めなくてはならないが、そうした決定の執行は、ほかの 法の決定と同様に、その統治する部分が命じ、必要があれば抑制するので ある。法の執行は統治者によるほうが、多数の市民全体によるものも適切 になる。というのも、執行のためには一人もしくは少数の統治者があれば 十分で、それを共同体全体が占めても無意味であり、そのせいで必要な他 の業務に支障が出てしまうからである。 // Nam et hoc facientibus hiis, id facit communitas universa, quoniam secundum communitatis determinationem, legalem scilicet, id faciunt principantes, qui eciam pauci aut unius existentes legalia facilius execuntur. //統治者がそれを行うことで、それはまた共同体全体が行うことにもな る。なぜなら、共同体の決定、すなわち法の決定にもとづき、それは統治 者をなすからであり、また少数もしくは一人であるほうが、法の執行をよ り容易にできるからである。 # # # 前回の箇所では質料形相論的に統治者と法の関係性を描き出していました が、今回の箇所では、今度は第一作用因、第二作用因という括りで、立法 者と統治者の関係性を描いています。それを通じて、統治者が一人もしく は少数で十分、さらにはそうでなくてはならないことを説いています。 この点に関して、底本の羅伊対訳本には註があり、それによると、この統 治者を切り詰める考え方を研究者のアラン・ジェウィスは「マルシリウス の剃刀」と称しているのだそうです。もちろんオッカムの剃刀に倣っての 言い方ですが、いずれにしても統治者が一人でよいという考え方は、『平 和の擁護者』の他の箇所にも散見されるようです。また、単独の統治者と いう考え方自体は、ダンテやオッカムなども用いているといいますが、マ ルシリウスの特質は、なんといっても共同体の成員である「民衆」に、管 理・監査の役回りを与えていることだと同註釈は述べています。 さて、この同じ箇所について、たびたび参照しているブリグリアの研究書 は、まず作用因を二つに分けた議論の精緻さに注目しています。マルシリ ウスは『平和の擁護者』の冒頭のあたりで、すでにアリストテレスの四因 を援用しつつ共同体の構造の問題を示しているといいますが、論が進んで きたこの一五章で、第一作用因と第二作用因を分けるに至ったというわけ です。第一作用因は立法者で、それが法(統治構造の形相に相当するので した)と統治者(すでにして実体化している質料に相当?)をもたらし、 すると今度はその統治者が第二の作用因として働き、法の執行(形相の現 勢化)、すなわち共同体の各部分の機能の実現を図るというわけです。 第二作用因は第一作用因の「結果として」存在するわけで、第一作用因は 第二作用因を介して働きかけている、と見ることもできます。するとなに やらこれは発出論的な図式にも思えます。共同体を成立させる力は、第一 作用因から末端へと広がっていき、いわば分散化していくわけです。ブリ グリアによれば、この点がマルシリウスの斬新な議論なのだといいます。 そしてさらに、マルシリウスはその先にまで歩を進めます。ちょっと先取 り的になってしまいますが、そうした共同体の機能相互の関係性を論じる 段になって、マルシリウスはそれを、生き物とのアナロジーで語ってみせ るというのですね。生き物の身体と人間の集団とを、同じ論理が組織化し ている、というわけです。人間の不安は自然を模倣させ、こうして生物に 息吹きを与える自然の作用と、完全な共同体を構築しようとする働きかけ の間には類比の関係が生じる、ということのようです。 前にも少し触れましたが、こうして生物学と政治学の双方に、同じ統辞論 が意味を与えることになり、したがって共同体の力学や生成を、初期段階 の動物のシステム、および機能を理解するかのごとくに研究することがで きるようになるというのです。胚において生命が構造化していく過程こそ が、マルシリウスにとってのモデルなのだとブリグリアは指摘し、アリス トテレスの動物誌やガレノスの胚芽形成論などが参照元になっているとい います。また、より近い時代の著者としては、アーバノのピエトロやアル ベルトゥス・マグヌスなどが引かれているのだとか。このあたり、次回に 読む箇所で確認していきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------