silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.306 2016/04/02 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その3) 今回から、アンソロジー『唯名論』(ヴラン刊)に収録された論考そのも のについて見ていきたいと思います。論考は大きく三部(「普遍」「抽象 的実体」「一般的観念」)に分かれて収録されており、各部の冒頭には簡 単な序文が付されています。この序文を参照しつつ、収録論文を眺めてい くというのが作業手順になるかと思われます。このうちまずは第二部の 「抽象的実体」を見ていきたいと思います。 前回見た編纂者の口上によれば、唯名論が斥けようとするのはなにも「普 遍」に限ったことではないという話でした。ほかにも、時代ごとに、実体 とされていた諸カテゴリーがやり玉に挙がっていったといいます。極端な 場合には、時空間によって特定された具体的な事物以外は認めないとの立 場すらありえたというわけですね。その一例として、このアンソロジー本 では、数を実体として認めない立場の議論を取り上げています。二〇世紀 のネルソン・グッドマン、一七世紀のデカルト、そして再び現代のハート リー・フィールドなどが代表として取り上げられています。さしあたり、 これらを順に見ていくことにしましょう。 まずグッドマンですが、二〇世紀において唯名論を再定義した論者として 知られています。序文によれば、その基本的なスタンスは、存在論におい て「クラス」、すなわち「集合」を認めないというものでした。数学とい う学問は多くの部分が集合論で成り立っている学問ですから、これはまさ に数学の核心へと切り込む思想であるといえます。グッドマンはまた、集 合を参照元とするプラトン主義の体系に対し、より簡素な、個物しか認め ないとする唯名論の体系を対置してみせます。 収録されているテキストを見ていきましょう。グッドマンの『個の世界』 (1959年)です。そこではまず、グッドマン自身の立ち位置として、唯 名論を擁護し「クラス」もしくは「集合」を排することが高らかに宣言さ れています。そこで許容されるのは「個物」(個体)のみです。とはい え、個をなしているのであれば、一部の抽象名詞などもそこに含まれう る、としています(!)。グッドマンはクワインとの共著でそうした唯名 論を掲げ、その補足として同論考を記しているようです。では、個をなし ている実体であれば何でもよいのでしょうか。グッドマンは、体系化を考 える上で、明示的に解釈すべきはどのような項であるのか、共義的に解釈 するほうがよいのはどのような項なのかを検討していくと宣言します。 そもそも、クラスないし集合を斥ける原理とはどういうものなのでしょう か。グッドマンによれば、その唯名論は、内容面(実体を構成する要素) を区別することなく実体を区別することを拒みます。別の言い方をするな ら、二つの異なる実体が、同一の実体(要素)から構成されうるというこ とを認めません。それがプラトン主義者と異なる点だとされます。この後 者は実体がクラスに属し、それがまた別のクラスに属するといったふう に、入れ子での帰属関係を認めるのだといいます。Kというクラスに、a とbから成るクラスと、cとdから成るクラスがあるとします。次にLとい うクラスに、aとcから成るクラスと、bとdから成るクラスがあるとしま す。KもLも分解していけばa、b、c、dになります。唯名論はKとLのクラ スを立てることを拒否しますが、プラトン主義はその両者を認めるという わけです。 唯名論とプラトン主義とのそうした違いについて、グッドマンはさらに形 式論理的な議論も示しています。同一の基本単位(原子と称しています) をもつ二つの体系IとIIがあるとします。前者はクラスを認め、後者は個物 だけを認めるものとして、それ以外の関係性をなるべく排して両体系を限 りなく近いものにすると、基本単位xから成る実体yは、体系に位置づけ られるという関係Rを通じて、体系Iではクラス別に異なる実体となる可能 性がありますが、体系IIではすべて同一の実体になる、というのがその内 容で、これが論理式(ここでは割愛)で示されています。ここからグッド マンは、唯名論とプラトン主義が体系表記に関わる点だけで異なっている のだという通俗的な説を否定します。両者の間には、その論理式を満たす かどうかという原理上の根本的な違いがあるというわけです。 逆に任意の体系が与えられ、それが唯名論的なのかプラトン主義的なのか を判別するという操作についても、グッドマンはコメントしています。そ の場合にも、体系の構成要素を見て、たとえばa、b、cといった要素が、 dとfの基本単位になっているかどうか、もしくはdとfを生成する関係に あるかどうかを見ることによって、その体系が唯名論・プラトン主義のい ずれの体系をなしているのかを見極めることができるというのですね。も しそれらの要素がdとfに見られるなら、それはプラトン主義であるとさ れます。グッドマン流の唯名論の場合には、異なる実体であるなら、同じ 基本要素を共有していてはならないからです。唯名論的には、dとfは同 じでなくてはなりません。 以上は全体としてそれ自体抽象的な話なのですが、ここではそれをさらに 簡素にまとめているのでさらにわかりにくい感じかもしれませんね。グッ ドマンの論文は、こうした概論を示した後に、後半で質疑応答形式で異論 に答えています。これでもう少し肉付けがなされるというか、見通しが良 くなるかもしれません。次回はそのあたりを見ていきます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その16) マルシリウスの主著『平和の擁護者』から、第一五章を読んでいます。今 回は第六節です。さっそく見ていきましょう。 # # # 6. Hiic autem proporcionaliter contemplandum in ciivtate convenienter instituta secundum racionem. Nam ab anima universitatis civium aut eius valencioris partis formatur aut formari debet in ea pars una primum proporcionata cordi, in qua siquidem virtutem quandam seu formam statuit cum activa potencia seu auctoritate institudendi partes reliquas civitatis. Hec autem pars est principatus, cuius quidem virtus causalitate universalis lex est, et cuius activa potencia est auctoritas iudicandi, precipiendi et exequendi sentencias conferencium et iustorum civilium, propter quod dixit Aristoteles 7 Politice, cap. 6, partem hanc esse omnium aliquarum necessariissimam in civitate. // 六.このことは、理性にしたがって適切に設置された共同体においても、 類比的に考察されなければならない。市民全体の魂、もしくはその最も価 値ある部分から、そこに心臓に相当する第一の部分が形成され、もしくは 形成されなくてはならず、それに伴い、そこになんらかの力もしくは形相 が、潜在的な活動もしくは、共同体の残りの部分を設置する権威とともに 敷かれるのである。その部分とは統治者であり、その普遍的な因果関係の 力とは法のこと、その潜在的な活動とは、共同体によって議論され公正と 認められた判決を決定し、命令し、実行する権限のことをいう。それにつ いてアリストテレスは、『政治学』第七書第六章において、その部分は共 同体においてほかの何よりも必要であると述べている。// // Causa vero eius est, quoniam sufficiencia que haqetur per reliquas partes seu officia civitatis, si non inexisterent, posset aliunde sufficienter haberi, licet non sic faciliter, ut per navigium et reliqua vectigalia. Sed sine principatus inexistencia civilis communitas manere aut diu manere non potest, quoniam necesse est un scandala veniant, ut dicitur in Mattheo. Hee autem sunt contenciones atque iniurie hominum invicem, que non vindicate aut mensurate per iustorum regulam, legem videlicet, et per principantem, cuius est secundum illam talia mensurare, contingeret inde congregatorum hominum pugna et separacio, et demum corrupcio civitatis et privacio suffientis vite. //ほかの部分もしくは共同体の職務によって得られる充足が内部に存在 しないとするなら、船舶その他による収入のように、簡単には手に入らな いにしても、他所から十分に手に入れることができるというのがその理由 である。だが、統治者が内部に存在しない場合には、市民の共同体を維持 すること、あるいは長く維持することはできない。というのも、マタイが 記しているように、躓きの石は必然的に生じるからだ。つまりそれは人同 士の諍いや不正行為であり、それらは正義のルール、すなわち法によって 罰したり調停したりされなければ、また、かかる法によって調停する権限 をもつ統治者によってそうならなければ、そこから人間集団の争いや分離 が生じ、しまいには共同体の腐敗や充足的生活の剥奪が生じるのである。 # # # 今回の箇所でも、身体と共同体とのアナロジーが語られています。心臓が 第一の部分とされ、それが全体の調和を図る役割を担い、必ずや生じる 「躓きの石」としての不調を調停する働きをなす、というわけですね。な るほど、機能としては心臓も統治者も、全体の調整を図る(心臓に関して はアリストテレスの伝統からそう考えられていました)という点で、同一 の役割を担っていると考えることもできます。マルシリウスは本当に、有 機体とそれがつくる人工物(共同体というのは一種の人工物です)とが、 同じ機能的論理に貫かれていると考えていたのでしょうか。この箇所から は確かに、研究者のブリグリアが述べているように、身体と共同体は単な るアナロジーを越えて、同じ機能性、同じ役割を果たしているというふう に読み込むこともできそうな気配が感じられます。 でもそう言い切ってよいのでしょうか。前に一度見た、ブリル版『パドヴ ァのマルシリウス必携』所収の将基面貴巳氏の論考「『平和の擁護者』に おける医学と身体政治」をもう一度見てみることにしましょう。そこでも また、この心臓についての議論が取り上げられています。同著者がとくに 注目しているのは、心臓と統治者を比較することで、教会が共同体の統治 に関わる役割を担っていないということが暗示されている点です。教会は ほかの部門、たとえば農業や軍隊や商業活動などと同じ一部門にすぎない とされます。これはアリストテレスの『政治学』(第七巻)での聖職の位 置づけを踏襲しているように思われます。 マルシリウスにおける心臓と統治者のメタファー(と同著者は評していま す)は、中世の伝統からすると少数派であったようです。統治者を頭 (脳)に関連づける議論のほうが主流で、それにはたとえばソールズベリ ーのジョンがいます。またそれは教会論的な長い伝統があり(キリストが 教会の頭とされるわけですね)、13、14世紀以降も長く受け継がれてい きます。心臓と統治者を結びつけることは、明らかに伝統に則ってはいな いとされるのですが、先例がないわけでもないといい、たとえばトマス・ アクィナスが、キリストは教会の頭ではなく心臓に喩えられるべきだとい う見解を示している例などが挙げられています。心臓は秘められた場所で あり、キリストや聖霊の神性を意味することができるというのがその要旨 です。 ほかにも、たとえばエギディウス・ロマヌスも、同じく心臓への重視など を含んだ人体とのメタファーを用いて統治論を展開しているといいます。 ただ、エギディウスは教皇主義の論者で、世俗的権力に対する教皇の優位 を弁護しているようなのですね。聖俗の二つの統治者がそれぞれ人体の最 重要部とされる頭と心臓に割り振られているのです。頭が教皇、心臓が君 主であるということで、どちらの部位がなくても人体は死にいたる(共同 体も)とされるわけですが、前者が精神的、後者が肉体的という区分けに なり、前者の優位はおのずと明らかです。 こうしてみると、マルシリウスの特殊性はさらに際立つようにも思えま す。心臓に優位を置く議論も、たとえばアヴィセンナなど、アリストテレ ス思想の継承者たちの間で取り沙汰されていたといいます。西欧では13 世紀のフィレンツェの医者タッデオ・アルデロッティなどがそうだったと いいます。それに続くのが、アーバノのピエトロです。ピエトロの論で面 白いのは、三位一体を持ち出して、それとのアナロジーで三つの器官の重 要性を説いている点です。三つの器官とは、心臓、脳、そして肝臓です。 この三つを重視する立場はガレノスからのものですが、三位一体は一つ (つまり神)に帰着するというわけで、身体においても心臓が最も大事と 見なされることになります。 将基面氏はほかにも、モンドヴィルのアンリ(13世紀に活躍した医者 で、モンペリエの外科的伝統の先駆者)などを挙げ、やはり同じように社 会を身体の解剖学的な連携に重ねていることを指摘しています。そこでも また、身体における心臓の中心性と、政体における君主の中心性が重ねら れているといいます。マルシリウスについては、このような心臓の中心性 の議論と、重要な器官の複数性との議論が両立している点を、同著者はと りわけ重視しています。それを共同体へと移しかえたかたちで、マルシリ ウスは機能的な各部の統合を論じているというのですね。ブリグリアの解 釈とは少し異なり、ここではマルシリウスの身体・共同体論はあくまで引 用の織物に根ざしたアナロジー、もしくはメタファーとして受け止められ ています。このあたり、解釈の微妙なニュアンスの違いという感じでもあ りますが、個人的にはブリグリア解釈に惹かれつつも、少し留保も必要な のかもしれない、などと考えてしまいます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月16日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------