silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.307 2016/04/16 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その4) 前回見たように、グッドマンの唯名論は、とにかくクラスもしくは集合を 否定するということに尽きている感じです。同じ要素から構成される実体 は、同じ個物でなくてはならず、別のクラスで括るというのはあくまで認 識論的な操作であって、その実体が存在する現実世界そのものではな い……というわけですね。クラスを設定する立場(クラスが実在するとい う立場)は「プラトン主義的」だとして一蹴されます。グッドマンは論考 の後半で、自身のそうした立場に寄せられるであろう疑義や反論を掲げ、 想定問答を行っています。今回はその大まかな中味をざっと見ておきまし ょう。 まず、グッドマンの「唯名論」は伝統的な唯名論とはだいぶ異なるので は、という素朴な疑問があります。ですがグッドマンは、原則として体系 内に不必要に実体を増やしていかない点は同じであると強調し、それを唯 名論と呼ぶかどうかはたいした問題ではないというスタンスを取っていま す。 次に、現実問題として、同じ要素から構成されながらも実体として異なる 場合はありうるのではないか、という疑問もあります。その場合の実体の 違いがどこから生じるかといえば、それは現実世界における時間的な違い に集約されます。これについてグッドマンは、現実的・時間的な差異をも ち出すと、そもそも実体を構成する要素そのものすら、時間の中において 同じとは言えない事態になり、すると実体について一貫性のある話もでき なくなる、と反論します。グッドマンが問題にしているのはあくまで存在 論的な体系の記述で、それはすでにして抽象的な体系です。したがって、 現実世界の多様性を持ち出してきて、唯名論的な体系を否定するというの は、もとよりお門違いだというわけですね。 とはいうものの、「実体を構成する」とされる要素についても、グッドマ ンの言い方ではどんなものでも要素になりうるようなので、体系の記述と して難ありなのではないか、という疑問も生じます。グッドマンはこれ に、唯名論の原則は体系構築にとって十分条件ではなく、必要条件にすぎ ないのだ、と答えています。唯名論的原則を踏まえた上で、体系構築の要 素を各哲学研究者が見極め、定めていかなくてはならない、唯名論は、あ くまで体系構築の抑制的原理なのであり、それで体系の素材が選択できる わけではない、と述べています。グッドマンの唯名論の議論は、体系構築 の端緒の話なのであって、具体的な体系構築に踏み込んでいるわけはない のですね。 ですが、クラスで括らない、「個物」だけを認めよという原則では、要素 の雑多な寄せ集めだけを認めるよう、想像力が強いられ、それは哲学的に かえって「高くつく」(負の影響のほうが大きい)のではないのか、との 懸念も出てきます。それに対してグッドマンは、クラスを認める立場で も、想像力に強いることになるのは変わらないと反論します。グッドマン からすると、唯名論の体系は、プラトン主義の体系になんらかの特殊な制 約を追加したもの、と考えることができるというのですね。 次に取り上げられているのが、この唯名論が有限論者にとっては些末な問 題、無限論者にとっては無意味な問題ではないか、という異論です(対象 が有限なものであれば、ことさらに唯名論と言わずとも個物的に捉えられ るのに対し、無限なものは集合として考えるのでなければ対象として捉え られない)。これについてグッドマンは、有限・無限の違いは意味のある 特徴ではないとし、プラトン主義の枠組みを唯名論的に均すことが可能な らそうすればよいだけの話で、プラトン主義を警戒するような視座は端か らもっているわけではないと述べています。また、すべての体系が唯名論 的に均しうるのではないとし、世界全体におよぶような存在論の体系にお いては、唯名論のような均しの方法論は用いることができない可能性も認 めています。 このような唯名論は、数学などの諸科学の発展を阻害するのではないか (クラス分けを認めないがゆえに)という危惧もありえます。これはある 意味核心的な問いですが、いや、そうではない、とグッドマンは主張しま す。科学に制約を加えることは唯名論の意図ではなく、諸科学が成果を上 げるために、プラトン主義的にクラス分けを考えるのは自由だとしていま す(例の一つとして複素数が言及されています)。けれども、ひとたびそ うした成果が得られた後は、その成果は哲学の素材になる、つまりそうし た成果の意味づけを行うのは哲学の役割になる、というのがグッドマンの 立場なのですね。科学は事業を管理し、哲学はその会計処理を行うのだ、 とも述べています。唯名論はその際に哲学がみずからに課す制約というこ とになります。 強調されているのは、哲学の目的はあくまで体系的記述と、それによる事 象の理解にあるのであって、唯名論はその目的に向けて無用なものを排す るための原則・制約にすぎないということです。グッドマンは、その制約 を採用するのは、たとえば論理哲学が矛盾律を採用するのと同じで、原則 の必要性そのものを論証することはできないのだ、とも述べています。そ れはまさに体系の礎、要の部分だからです(体系の礎になるものはその体 系には含まれえないわけです)。その意味で、もし別様のかたちでより包 括的な体系が構築できるのであれば(ネオプラグマティズムなどがその候 補に挙げられています)、場合によってはその原理そのものを手放す、唯 名論を離れてしまうこともありうるかもしれない、とグッドマンは語って います。もちろんそれは、代わりに体系記述がより先にまで進む、あるい はまったく別様の体系へとシフトできる、といった厳しい条件つきではあ るのですが……。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その17) 今回は『平和の擁護者』第一五章の第七節です。早速見ていきましょう。 # # # 7. Debet eciam pars hec in civitate nobilior atque perfeccior esse in suis disposicionibus, prudencia scilicet atque virtute moris, ceteris partibus civitatis. Unde 7 Politice, cap 12 dixit Aristoteles : "Si tamen fuerint differentes alteri ab alteris, quantum deos et heroes extimamus ab hominibus differre, confestim primo secundum corpus multam habentes excellenciam, deinde secundum animam, ut indubitata et manifesta sit excellencia principancium respectu subiectorum, palam quidem, quia melius per eosdem, hos quidem principari, hos autem subici secundum semel", id est secundum vitam. Statuit eciam principium factivum civitatis, anima videlicet universitatis, in hac prima parte virtutem quandam causalitate universalem, legem scilicet, auctoritatem quoque seu potestatem agendi secundum illam iudicia civilia, precipiendi et exequendi de hiis, non aliter. // 七.さらに共同体のその部分は、その権能、つまり賢慮と徳性において、 共同体の他の部分よりも高貴かつ完全でなければならない。ゆえに『政治 学』第七巻第一二章においてアリストテレスは次のように述べているので ある。「神や英雄が人間から実に大きくかけ離れているほどに、まずは身 体の様々な美点において、次に魂において、ある人間が他の人間から異な るのだとするなら、従属する者に対して支配する者の卓越さは疑いなく明 らかであり、後者が統治する者たち、前者が従属する者たちとなるのは、 後者が優れているであるから、明らかに一挙に決まる」、つまり一生涯変 わらない。共同体の作用の原理、すなわち全体の魂にあたる部分は、この 第一の部分において、因果関係をなすなんらかの全体的な力、すなわち法 や市民が定める決定にもとづいて働きかけ、命じ、実行する権限もしくは 権能を定めるのであって、それ以外ではない。// // Quoniam sicut caliditas innata ipsius cordis tamquam subiecti, per quam cor seu forma eius omnes acciones complet, dirigitur et mensuratur in agendo per cordis formam seu virtutem, nec aliter ageret ad debitum finem : adhuc eciam sicut calor, quem spiritum dicunt, tamquam instrumentum ad complendas acciones, per totum corpus ab eadem virtute regitur, nec aliter horum calorum alteruter ageret ad debitum finem, quoniam deterius agit ignis quam organa, ut in 2 Perigeneseos et De Anima : sic quoque auctoritas principandi alicui hominum data, caliditati cordis tamquam subiecti proporcionata. Sic eciam ipsius armata seu coactiva potestas instrumentalis, calori, quem spiritum diximus, proporcionalis, debet regulari per legem in iudicando, precipiendo et exequendo de iustis et conferentibus civilibus; aliter enim non ageret principans ad debitum finem, conservacionem scilicet civitatis, quemadmodum demonstratum est 11 huius. //熱は従属するものとして心臓に内在し、それを通じて心臓もしくはそ のすべての作用の形相が完遂されるが、作用に際しては、心臓の形相もし くは力によって導かれると同時に制御されるのであり、達成すべき目的に 向けて別様に作用することはない。同様に、精気的と称される熱もまた、 作用を完遂するための手段として、身体の全体によって同じ力で制御され るのであり、どちらの熱も、達成すべき目的に向けて別様に作用するので はない。なぜなら、『生殖について』第二巻と『魂について』に記されて いるように、火は手段である以上に悪しき作用を及ぼすからだ。このよう に、なにがしかの人に与えられる統治の権限は、従属するものとしての心 臓の熱に類比的なものとなるのである。手段として武装した権能、もしく は強制的な権能は、私たちが精気的と称する熱と類比的関係にあり、裁定 者の法によって規制され、市民の正義と利益のために命じられ実行されな くてはらない。統治者は、達成すべき目的、すなわち共同体の維持のため に、別様に働きかけてはならない。それは本書の第一一章で論じた通りで ある。 # # # 今回の箇所では、二種類の熱が言及されています。一つは心臓に宿るとさ れる熱で、これは物質的な熱を指しているものと思われます。もう一つは 「精気的」な熱です。精気的、とここでは訳出していますが、「精神的」 としてもよいかもしれません。要は、魂にまつわる熱で、エーテル由来の いわゆるコズミックな熱というものかと思われます。 ちょっと脱線しておくと、これについては、ストア派にまで遡ることがで きるといいます。世界を構成する原初の物質は気息(プネウマ)であると され、そこから力と物質とが分離して、後者がエーテル、つまり神の火と なった、というのがストア派のコスモゴニーなのでした。人間の魂もその エーテルから発出しているとされます。この議論は哲学諸派に取り込まれ るかたちで後代に伝えられ、中世においても綿々と引き継がれていまし た。前にも触れましたが、マルシリウスの直接の参照元はアーバノのピエ トロで、そこでもそういった天空由来の熱が言及されているのでした。 今回のマルシリウスのテキストで重要なのは、それらが制御され抑え込ま れたかたちで作用している、という話でしょうか。もとの形、つまり火の 形では、悪しき作用をもたらしてしまうというのですね。同じように統治 の権限もまた、野放しの状態にするわけにはいきません。統治・支配の力 というのは基本的に荒ぶる力なので、それが規制され制御されて行使され るのでなくてはならないという発想は、逆に言えば共同体はつねにそうし た力によって破壊・解体されうるものである、ということにもなります。 マルシリウスの議論が、そうした共同体の危うさのようなものにとても敏 感であるということは、大分前に研究者ブリグリアの指摘として取り上げ たとおりです。 そうした荒ぶる力に関連して、前回見た将基面氏の論文の末尾部分を紹介 しておきましょう。心臓のメタファーで統治者論を語るマルシリウスは、 その一方でそうしたメタファーの限界をも見越していたといいます。『平 和の擁護者』のもう少し先の部分、つまり第一八章にあるようなのです が、マルシリウスは、身体における心臓の場合と違い、共同体でそれにあ たる部分、すなわち統治者は、知性と欲望をもった存在であり、それゆえ に法が定めたこととは逆の悪しきことをなす可能性がある、とも述べてい るのですね。また、そのような逸脱が生じた場合、心臓とは違い統治者の ほうは、同様に権限をもった他の成員によって修正されうるとも考えてい ます。 修正がなされず、そうした逸脱が重なっていくとどうなるのでしょうか。 それはときにいびつな形をなすようになります。その最たるものとして、 専制君主の体制があります。マルシリウスの観点からすると、その顕著な 例が当時の教会制度ということになるのでしょう。マルシリウスはそれを 「いびつな形の怪物」とまで言い切り、「四肢が直接頭にくっついてい る」といった表現を用いているといいます(『平和の擁護者』第二部二四 章)。将基面氏によれば、このような形の怪物性は、セビリアのイシドル スに言及があるというものの、中世における奇形の記述としてはきわめて 珍しいものだといいます。そもそも、医学的な観点からの奇形学的アプロ ーチというのは中世にはまだなく、マルシリウスのこの描写が当時の医学 的見地に立脚しているかどうかは確証がないのだとか。 一方で、将基面氏は次のような興味深い指摘を行っています。マルシリウ スは「理性」と「信仰」の領域をきっちりと分けている(それは『平和の 擁護者』の一部と二部がはっきりと分かれていることからも窺えます)こ とから、アヴェロエス主義に深く関わっていたというような言い方が一般 になされているわけですが、これがもしかすると、マルシリウスが受けた 医学教育の帰結だった可能性もあるのではないか、というのです。モンペ リエなどにおける医学の伝統では、ガレノスとキリスト教の調和・融合が 図られているのに対し、マルシリウスも連なっていた北イタリアの医学的 伝統では、健康や病気の問題をあくまで身体の常態・非常態と見なすのが 主流で、身体の状況と宗教とを結びつけるような話は、もとよりほとんど なかったというのですね。 もしマルシリウスの「二重真理説」的立場が、北イタリアで行われていた 医学教育の賜物だとするならば、アヴェロエス主義云々という部分も相当 に修正されなくてはならないでしょう。アヴェロエス主義であるとする、 それ以外の根拠が見出されなくてはなりませんが、これは結構難しいので はないかという印象を受けます。いずれにしても、少なくともそのような 新しい解釈を示す研究もいくつか出てきているようで、マルシリウスの政 治理論にも新しい光が投げかけられつつあるようです。そのあたり、今後 の研究の展開に大いに期待したいところです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月30日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------