silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.310 2016/06/04 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その7) 今回からはハートリー・フィールドの数学論を見ていきます。ここで取り 上げているアンソロジー本に収録されているのは、フィールドの著書『数 なき科学−−唯名論を擁護する』(Hartry Field, "Science Without Numbers. A Defence of Nominalism", Oxford, Basil Blackwell, 1980)の冒頭部分(16ページ分)の仏訳です。少しわかりにくいです が、とりあえず見ていくことにしましょう。 まずフィールドは、唯名論の立場を次のように要約します。すなわちそれ は、抽象的実体というものは存在しないとする立場だ、というのです。次 いでフィールドは、この抽象的実体というのが何かを示すのは難しいが、 と前置きした上で、その実例がたとえば数だとしています。それに類する ものとして、関数や集合というものも「存在しない」というのが自分の立 場だと表明しています。いきなりの高らかな宣言ですね。 フィールドがそれらの存在を否定するのは、世界が実際にどのようにある かを「最終的」に記述するにあたって、それらは抽象的にすぎるからだと しています。ですが、その「最終的」な世界の記述においては、当然なん らかの物理法則も必要になるはずです。で、そのためには、数学が必要に なり、結局唯名論はそうした記述においては堅持できないものになるので はないか、という疑問が生じます。 これについてフィールドは、その疑問にはいくつかの解決策があり、最も ポピュラーなものは、数学が用いる用語や量化子が指すものを別様に再解 釈する議論だと指摘しています。つまり、そうした用語、量化子を抽象的 実体と捉えず、別種の実体、つまり物理的対象や言語表現、心的構築物な どの実体を指すものと考える、というわけですね。これはグッドマンの唯 名論を指しているように思えます。ですがフィールドは、それとは別の独 自の解決策を提案します。それはつまり、物理世界への応用において問題 となる数学は、抽象的実体への参照をそもそもまったく含まないものでな くてはらない、というものです。逆に言うと、抽象的実体を参照する数学 は、いかなる理由からしても「真」の数学の一部をなしているとは思えな い、とフィールドは断言します。そんなものはフィクションにすぎない、 というわけです。よりラディカルな唯名論なのでしょうか? ですが、すると今度は、そのような抽象的実体(数や関数、集合など)を 参照しない数学というものは、本当に可能なのだろうか、という疑問も出 てきます。フィールドは可能だとほとんど即答しています。たとえばニュ ートンの引力の法則の「唯名論バージョン」のようなものは十分に構築可 能だとしています(通常の同法則はプラトン主義的だとされています)。 ただ、具体的なことは本文(アンソロジー本には未収録の部分ですね)に 示されているようで、この冒頭部分を見る限りは不明です。 フィールドは自分が到達したその「唯名論バージョン」が、ある種の唯名 論者たち、とくに有限論や操作主義を奉じる人々からはよく思われないだ ろうと考えています。フィールドは次のような例を出しています。一本の 光線上に二つの点があると考えるとき、両者の間に三つめの点があると推 論することを、有限論的もしくは操作主義的な傾向をもった人々は、それ では点は無限にあることになってしまう、あるいはそれは直接的には検証 できない、と批判することになるといいます。しかし、とフィールドは言 います。この批判は、定立された実体の性質についてではなく、その実体 に対して考案された構造的な仮説を問題にしているにすぎない、と。そし てそうであるなら、それは「唯名論的な」(フィールドが考えるところ の)批判になっていない、というのですね。フィールドからすれば、そも そも光線上に「点」という抽象的実体を設定してはならない、ただ光線と いう実体があるだけだ、ということなのでしょう。 ただしフィールドは、自身もそうした構造的な仮説を用いていることは認 めています。そうした構造的な仮説までもまた別のものに帰する、縮減す るというやり方は、実際上、巧くいかないからだ、と述べています。そも そも循環論法に陥らない唯一の議論は、物理世界への「数学の応用可能 性」にもとづく議論であるとされます。ある公理が与えられたとき、それ が真であることを擁護するやり方は、その公理が物理世界に応用できる (当てはまる)ことを証明することだ、というわけですね。ですがその一 方で、たとえばその公理が、数学の内部でシンプルかつ一貫性があること をもって真であるとする考え方も当然ありうるでしょう。ですがそれは、 あらかじめ真理の概念が数学の任意の一部分に、自明ではない形で適用さ れる場合に限る、とフィールドは考え、これをプラトン主義的であるとし て一蹴しているようです。その公理が重要であり、恣意的に設定されたも のでないとしても、だからといって真であること自体はそこからは導けな い、さらには、たとえ一貫性があるとしても、その公理が正しく記述する ような数学的実体が存在することは自明とはならない、というわけです。 ここまでをまとめると、フィールドが考えているのは、「構造的な仮説を 用いつつも、抽象的実体は排除するような、物理世界を記述しうる学知」 ということになります。そうした実体(数学的実体、抽象的実体)の定立 は、物理世界に関してごく普通の推論を行うために必要になるというクワ インの議論を受けて、フィールドは、もしそうした実体の存在を切り崩せ るのであれば、そのような実体が実在するという考え方(プラトン主義的 な)は、正当化できないドグマということになるだろうと述べています。 ではフィールドは、そうした切り崩しにどう取り組んでいくのでしょう か。それはまた次回。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その20) 『平和の擁護者』から第一部第一五章を見ています。今回は一一節と一二 節で、いよいよこの章のほぼ末尾部分に相当します。ある意味、まとめの 部分と言えるかもしれません。ではさっそく見てみましょう。 # # # 11. Debet rursum pars hec, principans scilicet, auctoritate sua secundum legem precipere iusta et honesta, et hiis contraria prohibere, tam opere, quam sermone, premiis aut penis afficiendo merita vel demerita observancium aut transgrediencium precepta legalia. Quo modo conservabit in esse debito unamquamque parcium civitatis, et a nocumentis ac iniuriis preservabit; quod si paciatur aut agat iniuriam ipsarum aliqua, curari debet per principantis accionem, inferens quidem iniuriam sustinendo penam. Est enim pena sicut medicina quedam delicti. Unde 2 Ethicorum, capitulo 2 : "Monstrant autem et pene facte propter hoc", id est propter delectationes, que habentur in male agendo, "medicine enim quedam sunt". Cui vero illata fuerit iniuria, curabitur emendam recipiendo, quomodo reducentur omnia ad convenientem equalitatem aut proporcionem. 一一.またこの部分、すなわち統治者は、みずからの権威でもって、法に 則って正義と誠実さを命じなくてはならない。また、それに反すること は、行いでも言葉でも禁じなくてはならず、報酬もしくは罰でもって、命 じられた法を遵守する者、違反する者の功績ないし過失に対応しなければ ならない。共同体のどの部分も、このような形でしかるべき状態に保たれ るであろうし、損害や不法行為から守られるだろう。共同体のいずれかの 部分が不法行為を受ける、もしくはなす場合、それは統治者の行動によっ て手当てされなくてはらない。不法行為をなした者は罰を受けなくてはな らないのである。罰は違反者にとっての治療のようなものである。ゆえに 『ニコマコス倫理学』第二巻第二章はこう述べているのだ。「それゆえ に」つまり、不正な行動において感じる喜びゆえに、「なされる罰につい て彼らは定めるが、それらは治療であるからだ」。その不法行為を受けた 側は、あらゆるものが公正と調和の取り決めに帰されるように、補償を受 け取ることで癒される。 12. Amplius conservat hec pars reliquas civitatis partes, ipsasque adiuvat in ipsarum operibus tam propriis quam communibus exercendis. Propriis quidem, ut que provenire habent ab officiis earum propriis: communibus vero, ut communicacionibus que sunt ipsarum invicem, quorum utraque turbarentur principantis accione cessante a violentorum correpcione. 一二.より広範に、統治者は共同体の他の部分を保つ。固有の活動、ある いは共同で行うその活動において、それらを支援するのである。固有の活 動とは、彼らに固有の業務に由来するようなものを言う。共同での活動と は、相互の意思疎通でもって行うものを言う。どちらの場合も、統治者の 活動が暴力の矯正を中断すると、混乱をきたすことになる。 # # # これまで身体とのメタファーで統治構造を語ってきたマルシリウスです が、ここではさらに、不正行為を罰し正す行為は、一種の医学的な治療行 為に重ね合わせることができるとしています。そしてそのような治療行為 をなし得るのは、やはり最重要の部位、すなわち統治者ということになる わけですね。これまでのまとめのような一節です。 さて、今回も引き続き、マルシリウスの後世への影響について見ていきま しょう。参照しているのは、『パドヴァのマルシリウス必携』(ブリル 版)から、第九章にあたるイズビキ「マルシリウスの受容」です。16世 紀になると、宗教改革の文脈でマルシリウスはやや前景化します。とはい え地域別のばらつきは顕著で、たとえばイタリアでは、反教皇派がマルシ リウスの議論を援用する例はほとんど見当たらないといいます(マキアヴ ェッリなども、似たような考え方を抱きつつも、マルシリウスを参照して はいないようです)。逆に教皇派、あるいは反宗教改革のカトリック側 が、マルシリウスを敵側のソースとして取り上げ批判するという事例はい くつか見られるようです。これは17世紀の例ですが、たとえばトマソ・ カンパネッラが教皇による神権政治を擁護する際、教皇に反対した異端と して、フスやウィクリフと並べてマルシリウスを挙げていたりするのです ね。また同じく17世紀には、マルシリウスの肯定的な影響も、パウルス 五世に対抗していたヴェネツィア共和国を擁護する人々の文書に見られる ようになります。 フランスでは、16世紀初頭の教皇とパリ大学との諍いにおいて、マルシ リウスの名が再浮上しているといいます。パリの神学者たちはピサ教会会 議の主たる擁護者で、同会議(1511年)は教皇ユリウス二世を罰するた めにフランス国王ルイ一二世などが要請して開かれたものでした。ユリウ ス二世側が対抗して第5回のラテラノ教会会議を招集し、結果的に教会会 議は正当な教皇を判断できるかどうかという論争が持ち上がります。この 文脈で、マルシリウスが取り沙汰されます。とくにその批判者として、ジ ャック・アルマンという若いソルボンヌの神学者がいました。世俗の手は 教会には及ばないという立場で、真っ向からマルシリウスを批判していた ようです(詳細は割愛)。また、その後のガリカニスム(教皇からのフラ ンス教会の独立を求める運動)の議論では、マルシリウスが好意的に参照 されているケースが散見されるようです。 スペインでも、新大陸の原住民支配をめぐる議論において、短期間ながら マルシリウスの名が再浮上したといいます。原住民の地所の制圧を否定す る文脈において、世俗の財についての教会の支配を否定するマルシリウス の議論などが参照される(ここでもまた、ウィクリフなどとともに参照さ れているようです)一方、聖職者の自由に関するマルシリウスの議論など は、批判の対象として引き合いに出されているといいます。 こうしてみると、まさにそれぞれの政治状況において、マルシリウスが批 判されたり持ち上げられたりしていることがわかります。とはいえ、直接 的な影響関係というのは微妙ですね。ドイツでも、ルター派を敵視する 側、つまり反宗教改革のカトリックの論者たちが、ルターの議論の下敷き にはマルシリウスがあるとして、これまた徹底的な批判を繰り広げます。 ルター自身がマルシリウスの著作を知っていたかどうかは不明で、全体と して思想的類似性以上の証拠はないとされています。一方、『平和の擁護 者』はルター派の手によって、印刷本のかたちで流通していたようで、ア ルベルト・ピギウスなどのカトリック系の論者はその点についても批判し たりしています。ほかにも多くの反宗教改革系の論者たちがマルシリウス に批判的に言及しているようです。 もう一つ、イングランドにおける論争でもマルシリウスは大きく取り上げ られることになるのですが、それについては次回見ていくことにします。 次回はいよいよ、このマルシリウスについての探訪も最終回になります。 お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------