silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.313 2016/07/16 ============================== *お知らせ いつも本メルマガをご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは 原則として隔週での発行ですが、夏場にはお休みをいただいております都 合上、次号は来月末(8月27日)の発行を予定しております。間が空いて しまいますが、どうかご理解のほど、お願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その10) 前回は、フィールドの数学論が、単に数学的実体の有用性の議論にとどま らず、その必要性・必然性にまで踏み込んでいこうとする様を見てみまし た。最後のところでは、それを「プラトン主義」への批判にも用いている ことにも触れました。今回はそのあたりをもう少し細かく眺めておきまし ょう。 プラトン主義者が、数学はどんな可能世界においても真になる、と考える 根拠の一つは、前回挙げた原理C(保存の原理)を数学が満たすからだと いいます。ところが前回見たように、フィールドは数学が必ずしも原理C を満たさないことを指摘しています。というか、原理Cを満たすからとい って、その数学は真であるということに必ずしもならない、と考えている のでした。 たとえば連続体仮説というものがあります。現在の数学の枠組みでは、証 明も反証もできないとされる、カントールが提唱した仮説です。自然数や 実数はどちらも無限個の要素があるわけですが、その仮説は、それらの無 限の間で区別や比較ができる、というものです。そのために無限集合に 「濃度」(要素数の概念を無限にまで拡張したものとされます)というも のを設定し、自然数の集合には最小の濃度として「加算濃度」があり、実 数の集合にはそのような加算濃度ではなく、より大きな「連続体濃度」が ある、としています。これに関してはゲーデルとコーエンが1963年に、 集合論に連続体仮説を加えても無矛盾であることを証明しています。 フィールドはこの連続体仮説を、原理Cにも当てはめます。原理Cを満た すことをなんらかの理論の基本条件とした場合、連続体仮説が「現実的に 真」かどうかを問うことは意味がなくなってしまうことを論じているので すね。ゲーデルとコーエンによる無矛盾の証明にもとづくなら、標準的な 唯名論的議論の集合が原理Cを満たすとするなら、その集合論に連続体仮 説を加えたものも、逆にその集合論に連続体仮説を否定する仮説を加えた ものも、同様に原理Cを満たすというのです。すると、二つのどちらの仮 説を使おうと、とくに損失を被ることなく、唯名論的理論から具体的な実 体に関する帰結を得ることができ、翻って連続体仮説はその場合、どうで もよくなってしまうというわけです。 さらにこの連続体仮説の話は敷衍されていきます。ほかの理論、たとえば 標準的な数の理論、あるいは標準的な解析の公理なども、原理Cに影響を 及ぼすことなく修正・変更が可能だということになるなら、任意の理論が 採択されるのは、その理論が真であるからではなく、別の理由、つまりフ ィールドによれば、その理論が他の代替理論よりもいっそう利便性が高い から、という以外になくなるというのです。とするなら、もし世界が現に あるのものとは別であったなら(いわゆる可能世界論ですね)、別様の唯 名論的理論に私たちは関心を寄せるようになるかもしれず、現にある世界 で最善と考えられている数学理論とはまた違った理論が優遇される可能性 も否定できないことになります。 これはある意味、「経験論的な」数学観でもある、とフィールドは言いま す。もちろんここでは、どの理論を最も有益と見なすかという点が経験的 に確立されているということで、通常の意味とは異なります。同時に、そ れは「アプリオリな」数学観でもあるとフィールドは言います。それもま た通常の意味とは異なり、数学の公理もまた必ずしも真ではないかもしれ ないことが「アプリオリ」に規定されている、という意味でそうだという ことです。 で、まさにその点で、フィールドはこの立場が論理実証主義などとは異な っている、似て非なものであると強調します。論理実証主義とは、分析的 でなく無矛盾な命題の集合から論理的に導かれた命題のみが、経験的に意 味をもつという立場を取る考え方です。そのため論理実証主義において は、数学(論理はその一部門ということになるわけです)は分析的に真で あると見なされます(分析的であるとは「事実上・経験上の内実を欠いて いる」とイコールだということです)。それに対してフィールドは、数学 が(分析的うんぬんは取り払って)そもそもまったくもって「真」ではな いと考えているというのですね。両者の根本的な違いは、論理実証主義の ほうでは、数学を非経験論的な性格をもつものと捉えているのに対して、 フィールドはそれをあくまで「経験論的なもの」としている点にある、と いうわけです。 分析的である、経験上の内実を欠いていると考えるということは、得られ る結論がなんらかの形で前提の中にすでに「暗に含まれている」と考える ことを意味します。そのため、その場合、数学はなんら真に「新しい」結 論を導くことができない、ということになってしまいます。フィールドは それに異を唱えています。それは限定された場合にほかならないのだ、 と。フィールドは、自分の唱える数学観から次のことが明らかになる、と しています。数学が「真に新しい結論を導かない」との考え方とは、あく まで純粋数学(つまり数学的実体のみを参照するもの)の場合にすぎず、 そのような純粋数学をいくら応用したところで、非数学的な実体に関して 真に新しい結論は導かれない、と。フィールドはむしろ、数学が外的要素 を参照することにこそ、その創造的な豊穣性があると見なしているようで す。数学的な唯名論はこうして、論理実証主義の間隙をも突いて、まさに ある種の孤高の極みに立っているかのようです……。 またまた込み入った話になってしまいましたが、フィールドのやや錯綜し た議論をとりあえず追ってみました。必ずしも話が明確になったわけでも ありませんし、そもそもこのまとめが適切なものかどうかも怪しいもので すが(苦笑)、さしあたり、フィールドについてのまとめはここまでとし ます。数学的唯名論はなかなか手強く、従来の唯名論からすると、ずいぶ ん遠くにまで来てしまった印象ですね。ちょっと疲れを癒す意味でも、私 たちはここでより基本的にところに戻り、次回からは同じアンソロジーか ら、一般概念がどのように精神にもたらされるのかという問題をめぐる、 歴史的な展開(中世後期、近世)を追っていきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その2) さて、今回からビュリダンによる『生成消滅論の諸問題』の本文を見てい きたいと思うのですが、そのうちの最初の三つの問題に関しては研究論文 がありましたので、そちらを眺めていくことにしたいと思います。その研 究論文というのは、ティッセン&ブラックハウス編『アリストテレス生成 消滅論の注解の伝統』("The Commentary Tradition on Aristotle's De generaitone et corruptione", ed. Thijssen and Braakhuis, Brepols, 1999)に所収の、ヘンク・ブラックハウス「学術知と偶発的現 実−−ビュリダン『生成消滅論の諸問題』における知識、意味、自然代 示」(Henk A. G. Braakhuis, 'Scientific Knowledge and Contingent Reality, Knowledge, Signification and (Natural) Supposition in Buridan's Questions on De generatione et corruptione, pp. 131-161)というものです。 まず『生成消滅論の諸問題』そのものについて触れておくと、これは全体 が二部に分かれ、第一部は二四の問題、第二部は一四の問題が各章に分か れて議論されています。で、その第一部の第一問題ですが、それは「まず 生成消滅論第一巻冒頭について、生成可能・消滅可能なものについての学 知はありうるかを問う」(Quaeritur primo circa primi libri De generatione et corruptione utrum de generabilibus et corruptibilis sit scientia)となっています。各章の議論は、いつものスコラ学的な形 式に則り、まずは肯定・否定のいずれかの議論と異論が示され、それを受 けてビュリダンの分析と解決策が示されていきます。 この第一問題については、まず否定的見解として各種の議論が取り上げら れています。「存在しないものは学知の対象にはなりえない(生成可能な もの、消滅可能なものは、生成したもの、消滅したものではないので、学 知の対象にならない)」「個別的なものは学知にはなりえない(生成消滅 するものは個別的なものなので学知の対象にならない)」「学知の対象と なるのは必然的なもののみである(生成消滅するものは偶有的なものなの で、学知の対象にならない)」「知的対象でないものは学知の対象ではな い(生成可能なもの、消滅可能なものは知的対象ではない)」という感じ ですね。 論文著者のブラックハウスによれば、ここに掲げられている議論はどれも 伝統的なものだといいます。エギディウス・ロマヌスなどが示している否 定的見解に類似しているのだとか。そもそも14世紀の唯名論にとって、 何が学知の対象となるのかは大問題で、盛んに議論されていたといいま す。アリストテレスの見解では、学知の対象は普遍、必然、永続的なもの だとされていたわけですが、現実的なものは具体物だけだとする唯名論か らすれば、それはそのままでは受け容れられません。一方で彼らもまたア リストテレスに忠実であろうとし、そのため普遍や永続の担い手となる別 筋の何かを探し出さなければならなかったわけです。 そのような状況にあって、ビュリダンが『生成消滅論』の注解の最初にこ の学知問題をもってきているのは、きわめて意義深いことなのだというこ とがわかります。さて、否定的な議論の後には異論が来るわけですが、こ こでは唯一、アリストテレスは『生成消滅論』で実際にそうした学知を提 供しようとしている、という議論だけが示されています。 そしていよいよビュリダン個人の見解です。ビュリダンはこの問題に、分 割(区別)と統合という、いわば哲学的思考の王道でもある方法を駆使し て臨みます。学知とは論証的な知であることを前提に、ビュリダンは三つ の知(知識)を区別します。一つは論証の結論としての知、二つめは結論 を構成する各項の知、三つめはそうした項が指す意味論的な事象の知で す。前二者の知識はあくまで命題とその意味を担う項についての知識にす ぎませんが、三つめの知識は、天であるとか神であるとか、あらゆる永続 的な事物の知識となるのだ、とビュリダンは言います。 そしてまた、必然や永続するもの、あるいはその対立物となる偶有や消滅 可能なものなどについて、前者は「ほかにありようがないもの」 (impossibile aliter se habere)、後者は「ほかにありようがあるも の」(possibile aliter se habere)に帰着すると考えます。ここからビ ュリダンは、必然というものは、存在において捉えられた「事物」に帰属 するもの、あるいは命題が「真であること」(いつ形成されるかにかかわ らず、命題がつねに真で、偽はありえないという意味で)に帰属するもの をいう、と考えます。必然に二つの定義があるというわけなのですね。 ここからビュリダンは次のような帰結を導きます。それは、この二つめの 定義、つまり「命題が真であること」は、生成可能なもの、消滅可能なも のをめぐる学知にも適合する、ということです。「必然」や「学知」の意 味をこのように「正しく」用いるなら、消滅可能なものについても、永続 的なものの場合と同様に、学知はありうる、というわけですね。 まさにこれは、必然や永続といった学知の基準と、現実世界における偶有 のものとが折り合いを付けられるということを示しています。偶有的で個 的なもの、トークンについて省察する命題を通じてすら、必然的な学知と いうものが存在しえることを示している、と論文著者のブラックハウスは 述べています。そしてそれは、ビュリダンのほかの著作とも一致する見解 だということを、論文著者は指摘しています。この話はまた、続く第二問 題へと繋がっていくわけなのですが、それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は夏休み明けの08月27日の予定 です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------