silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.314 2016/08/27 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その11) 夏休みで少し間が空いてしまいましたが、ぼちぼちと再開したいと思いま す。今回からは、ここで読んでいるアンソロジー『唯名論』の第三部、一 般概念の問題を見ていくことになります。まずはその冒頭部分を飾る、編 者が全体を概観した解説です。そこで指摘されているように、外界の個物 しか存在を認めない唯名論では、当然ながら「いかにして一般概念が生じ るのか」が大きな問題として立ち現れます。過去の時代から、多くの論者 がその問題に取り組んできました。 編者によれば、アベラールの『知解論』、オッカムの自然学的概念形成論 などもそうですし、なんといってもこのアンソロジーの第三部を構成する テキストの数々もそうだというわけですね。収録テキストには、ニコル・ オレーム、ジョン・ロック、デーヴィッド・ヒューム、エティエンヌ・ボ ノ・ド・コンディヤック、そして20世紀のウィルフリド・セラーズが並 んでいます。解説はそれぞれのテキストの概要・ポイントをまとめていま すが、それらも参考にしながら、私たちも各テキストを眺めていくことに したいと思います。 というわけで、今回はニコル・オレーム(1325頃〜1382)です。オレ ームは14世紀を代表する哲学者・自然学者で、地動説の可能性をいち早 く示唆したことでも知られています。占星術の批判者でもあり、また数学 者としても有名で、数学の自然学への応用や貨幣論なども当時高く評価さ れていました。アンソロジーに収録されているテキストは、『アリストテ レス『霊魂論』の諸問題』という注解書の第三部、問題一四です。そこで は「知性は個物よりも前に普遍を認識するのか」という問題が扱われてい ます。 まずオレームは、個物と普遍の定義についていくつか分類を試みます。た とえば個物か普遍かは命題について言われることがあり、その場合のよう に、個物が先に認識されることもあるといい、また数学の場合のように、 普遍が先に知られる場合もある、とも述べています。次いでオレームは、 問題は個物と普遍のどちらを先に認識するかではなく(概念の獲得という 意味では、個物が先なのはオレームにとって歴然としているからです)、 むしろ、事物の認識に際して、知覚されたものに個的概念が適用される以 前に、共通概念が適用されるのかどうか、と言い換えるほうがよいとして います(知覚された像に概念が適用されることで、知的な理解が得られ る、というのが前提になっています。また「適用」と、「獲得」ないし 「形成」とは、ほぼ同義というか、同じ理解のプロセスの二側面、裏表を 表しているようです)。 ここで問題とされるのは、適用される概念の性質や一般性、さらにその先 行性であるとオレームは言います。そしてまずは概念の下位区分を考えて います。概念には、(1)個物が関与しないような普遍概念、(2)「今 ここ」といった状況を伴う事物の概念(遠方の対象物を見る場合など、具 体的な色や形などが判然としないものの、物体があることはわかるような 場合で、そこで適用される概念は個物と普遍の中間的なものとされま す)、(3)具体性を伴った個的概念、があるとされます。編者の解説に もありますが、(2)の中間的な領域を設定していることが、オレームの 独特な部分とされます。確かにこれはとても興味深い分類です。 この(2)の場合、概念は知性と感覚の両方にまたがっているとされま す。つまりその概念は、可知的形象と可感的形象から成る複合的なものだ というわけです。ゆえにそれは単純な概念ではなく、「共示的 (connotatif)概念」と言われます。概念としてはやや不明瞭ながら、 他の概念からは区別されているという意味では個的です。オレームはま た、概念はもともと外的な事物の知覚をもとに形成されるものだが、その 際の感覚の関与は概念の違いによって異なる、とも述べています。(1) の普遍概念では、知性は幻影の像のほうを向いたりはしませんが、(2) においてはなんらかの形で像のほうを向いているというわけです。ゆえに (2)の概念は、部分的に普遍的でありながら、部分的には個物的だとい うことになります。 次いで適用に際しての先行性についてですが、オレームはまず、(1)の 普遍概念がいきなり適用されることはないとしています。まずは個物の像 が知覚によって得られるわけですから、先に(3)のような個的概念が適 用される以外にない、というわけですね。(2)の場合は、普遍寄りの概 念、個物寄りの概念というふうに幅があり、まずはより普遍的な概念の適 用が先行し、次により個的な概念が適用されることになります。遠方の対 象物をおぼろげに認識する場合には、まずは普遍寄りの概念を当てはめて 認識するからです(最初は「ものがある」と認識してから、次に「動物 だ」と認識していくわけですね)。認識はあまりに短時間でなされるの で、その作用自体を認識することはありません。また、この中間的な概念 の場合、最初に知覚されるのは諸々の状況(それは個的なものです)であ り、そこで知覚される状況が少ないと、適用される概念はそれだけいっそ う普遍寄りのものとなります。 以上、オレームのテキストをざっと見てみました。普遍(一般概念、共通 概念)の生成というよりも、それが知覚・認識においてどう位置づけられ るのかが、オレームにおけるこのテキストでの関心事だということがわか ります。その文脈で出てきた独自の共示的(connotatif)概念は、いわ ば個物と普遍との橋渡しのようなものです。編者の解説での言い方では、 「感覚的知覚と抽象的思考とのインターフェース」とされています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その3) ジャン・ビュリダンの『生成消滅論の諸問題』から、前回は第一問題を見 てみました。そこでは、生成・消滅が可能なものについての学知というの はありうるかどうか、が問われていました。学知は永続的なものについて のみある、というアリストテレスのスタンスは、個物しか認めない唯名論 者にとっては大きな問題でした。生成・消滅可能なものについても学知が あることを論証しなくてはならなかったわけです。ビュリダンはこれに、 「学知」や「必然」などの定義をより細かく区分することで対応し、見事 に折り合いをつけてみせた、というわけでした。 続く第二問題は「消滅可能なものが消滅するとき、それについての学知も また消滅するか」というものです。前回も併読したブラックハウスの論考 でも指摘されていますが、この問題への肯定的な答えの一つに、知性と事 物の一致こそが真理をなすのであって、存在しないものは真とはなりえな いのだから、事物が消滅すれば学知もまたありえなくなる、というものが あります。そのような考え方が、まさにこの問題をビュリダンが改めて掲 げている理由でもあるわけですね。 一方、それに対する異論として挙げられているのは、もしそうならたとえ ば日蝕や雷、流星といった、珍しい自然現象や、移りゆく自然現象につい ての学知もありえないことになってしまう、といった議論です。ビュリダ ンはこの問題について、ここで賭けられているのはまさに自然についての 学知そのものだ、と述べています。例によってこうした両論併記の後、自 説を開示する段になるわけですが、ビュリダンはまず、一部の人々が、 「学知は論証による結論によって獲得されるのであり、魂の外に論証可能 な学知の対象があるのではない」としている、と指摘します。ブラックハ ウスは、ここで言う「一部の人々」はオッカムおよびオッカム派ではない かと述べています(少しこれは単純化した見方かもしれませんが……)。 それに対してビュリダンは、別のもう一つの考え方を支持するとしていま す。学知の直接的な対象は論証の結論だと認めつつも、その結論を手段と して、人は外的世界についての知識をも獲得していく、という考え方で す。論証の結論が意味する、あるいはそうした結論の一部をなす項が意味 する、具体的な事物についても知識が得られるのではなくてはならない、 というわけなのですね。ビュリダンは、たとえば形而上学を研究する者 が、動物や石について何も知らないということはありえない(不条理であ る)と考えています。知識は、主に事物そのものをその対象とする、とい うのがビュリダンのスタンスということになります。 結局、学知の対象は二種類に区分できることになります。一つは論証の結 論、もう一つはそれが意味する外的な事物です。前者は、当然ながら魂に おいて形成されるわけですが、ビュリダンはその結論には現実態のものと 可能態のものがあると下位区分しています。それはつまり、学知にもそう した現実態のものと可能態のものがあるということになります。また、論 証の結論は常に学知に先行していることも指摘しています。 学知の対象が後者(外的な事物)の場合、それはさらに三つに下位区分さ れる、とビュリダンは言います。つまり(1)その対象は魂の中にある場 合、(2)その原因のもとにある場合(論証によって知られるという場 合、論証は原因を介してなされるわけなので、対象となる事物は原因のも とになくてはならない、ということです)、(3)それ自身のうちにあ る、または現実態として産出されている場合のいずれかだというわけで す。当時は(2)しか認めない、つまり何かが論証によって知られるとい うのは、その対象が原因のもとにあることによってのみ知られるのだ、と いう議論もあったというのですが(これはエギディウス・ロマヌスの議論 だったようです)、ビュリダンはこれに対して、自然学は基本的に(3) を認めなくては成立しないとし反論しています。 これらをもとにビュリダンが引き出す結論は、対象となる事物が消滅した 場合、それでもなお次のような学知は存続するというものでした。(1) 否定的な知(「AはBではない」)、(2)条件つきの仮定的かつ肯定的 な知(「Aが存在するなら、AはBだろう」)(3)時制つきの仮定的か つ肯定的な知(「Aが存在するときはいつもAはBだろう」)(4)可能 性についての定言的な肯定的な知(Aがなくとも「Aは可能である」)、 (5)存在(inesse)についての肯定的な知(Aという個体が消えても、 Aを含む種は残る)(6)be動詞をあらゆる時制から独立して捉えた場合 の、存在(inesse)についての定言的かつ肯定的な知(Aがたとえなくと も、「AとはBのことである」など)。このあたりはあまり詳細に語られ ているわけではないのですが、いずれにせよ、こうして事物にまつわる真 理は、その事物が消滅しても変わらずに残るということを、ビュリダンは 説いています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------