silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.316 2016/09/24 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その13) ジョン・ロックが考える意味論について見ています。前回は、ロックが一 種節約型の議論でもって類としての名前を考察していること、そしてその 類への名前が捨象によって成り立っていることを見ました。ロックはその 後で、今度は定義の問題などを取り上げていきます。 まずその基本的なスタンスとして、一般もしくは普遍なるものは、理解力 による創造の産物であると規定されます。一般や普遍は外的世界の事物の 実在に存してはおらず、あくまで人間の理解力が便宜のためにしつらえた ものであり、言葉もしくは理念などの記号によってのみ担われているとい うわけです。一般的な理念を指す記号として使われるとき、言葉は一般的 なものとなり、多数の個物を区別することなくそこに適用される場合に、 理念は一般的なものとなる。ロックはそんなふうに述べています。意味と いうものは、人間の精神によって事物に加えられた「関係性」でしかな い、と。 では一般的な語がもつのはどのような意味作用なのでしょうか。ロックは それを「事物の類(クラス)」を指すものであるとします。事物のクラス であるからには、その本質は抽象的な理念(概念)にほかなりません。類 (もしくは種)としての本質がある(付与される)からこそ、個別の事物 はその類のクラスの構成要素に入るわけですし、付加される理念に言葉が 合致するからこそ、その語が用いられることの正当化もなされるというわ けです。「類に属している」と「類の名称を用いる正当性がある」とはま さに同義なのですね。抽象的な理念と本質もまた、ここにおいて同一と見 なされます。 さらにまた、抽象的概念、もしくは本質は、理解力が作り上げるもの、つ まり人間精神において個物の捨象がなされる結果だと、改めてロックは説 きます。自然は似たような事物を多数生み出します。ですがそれらを一般 的な名称のもとに分類する作用は、まさしく理解力の賜物です。理解力は その際、それら似たような事物の類似性を活用して、一般概念(理念)を 構築していきます。こうして一般概念と類を表す名称とが結びつくことに なります。個物はいわば、抽象的理念を介して、一般名称とつながってい くのです。 ですが、そうすると理解する人によって、類のクラスのもととなる個物の 集まりは微妙に異なってくるケースもありそうに思えますね。ロックはそ のあたりにも目配せしており、複合的な本質というものを話題にします。 これは単純な理念の集まりから成るものだとされるのですが、人が違えば その集まりも違ってくるということを認めています。ですから、ある人に とっては吝嗇だと思われることが、別の人にはそうは思われないといった ことが生じうる、とロックは述べています。理解する対象についてのニュ アンスの違いなどは、まさにそういう状況を反映したものだということが できそうです。とはいえ、やはり、大筋のところで、区別される抽象的理 念はそれぞれ区別される本質をなしている点は揺るぎません。 次にロックは、スコラ哲学などが考えていた実在論を批判的に取り上げて いきます。本質を語る場合、ロックの時代においてもなお、それが事物を 形づくるもとになっている(形相である)といった議論は当然ありまし た。それをロックは「実在的本質」と呼び、自分が説いている「唯名的本 質」と対置します。その上で、実在的本質は無意味だと説いていきます。 あらかじめ祖型のようなものがあるとしても、現実には異形の生き物がそ れなりの頻度で生まれること、同じ類に属していても相互にかなり異なっ たりする場合があることなどの説明がつかないではないか、というわけで す。あるいは、そのような本質は人知には掌握できないものだとする考え 方もあったようなのですが、するとそんな本質は、知識にとっては無意味 ではないか、ということになります。 また、実在的本質があると仮定すると、すべてのもの(被造物である限 り)は変化に晒されているので、生成消滅がありうるとされます(そうで はないとする立場ももちろんありうるわけですが……)。ですが本質が消 滅してしまうような事態はまさに不都合です。ロックはここでもまた、唯 名的本質のみが、そうした個物の生成消滅に関わることなく(なにしろそ れは人間の理解力が生み出している類概念なのですから)、同一のものと して恒久的に存続しうると主張します。このように、本質の不変性から も、本質が抽象概念でしかないことが証される、とロックは説いていま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その5) ビュリダンの『生成消滅論の諸問題』を読んでいます。前回取り上げた第 三問題までは学知の問題を扱っていました、参考にしたブラックハウスの 論文によると、この最初の三つの問題への回答は、ビュリダンのほかの著 書にも散見できる議論が示されているといいます。この論文著者は、それ ら三つの問題がこの著作の冒頭に置かれていることをとても重く見ていま す。それほどまでにビュリダンは、学知問題の意味論的側面にこだわり、 人間による世界の真の理解において、そうした学知を表す命題の適正な分 析が果たすべき役割を重要視していた、というのですね。 さて、今回からはより本筋寄りの問題へと接近していくことになります。 続く第四問題は、「元素の生成が不可能であるなら、その変化も不可能 か」です。いよいよ自然学的な議論へと話が進んでいくわけです。ここで も、まずは否定的見解が示されます。元素の生成が不可能でも変化も不可 能なわけではない、という立場の議論です。一つめは、生成や変化がある ためには、まずはその「場」が指定されなくてはならいが、「生成が不可 能なら変化も不可能」と言ってしまうと、そうした場が指定できなくなっ てしまうという議論、二つめとして、二つの事物が互いに関連しあってい る場合、一方が生成しえないからといって、もう一方が変化しえないわけ ではない(空気や水は、その都度生成消滅をなさなくても、暖まったり冷 えたりする)という議論、三つめとしては、月(の満ち欠け)のように、 生成なしに変化しうるものはありえ、したがって生成が不可能なら変化も 不可能というわけではない、といった議論が挙げられます。 次に異論(つまり、生成が不可能なら変化も不可能という立場)として、 アリストテレスがエンペドクレスに対して述べた反論が取り上げられてい ます。アリストテレスは、元素の変化は救うことができない、なぜならそ れらは相互に生成可能ではないから、と述べているというのですね。ビュ リダンはこれに従い、上の命題「元素の生成が不可能であるなら、その変 化も不可能である」を肯定する立場を取ります。 ビュリダンはここでもまた、まずは表現の区別からアプローチします。意 味論的な精緻化ですね。可能性、不可能性、必然性は、それぞれ二重の意 味がある、とビュリダンは言います。まず一つめは、過去・現在・未来の 時制に関わらない様態での意味です。つまりそこで必然性と言えば、過去 から永劫的にそうだったし、今もそうで、未来永劫もそうだということで す。もう一つは、現在と未来については決定されているかのように取れる ものの、過去についてはそうではないという様態での意味です。これにつ いてはアリストテレスが『天空論』で、潜在性(可能性)は過去について は言えないと述べているといいます。過去の事実についてはすでに成立し ていて動かせないので、それについて可能性・不可能性を言うことはでき ませんし、必然と言うこともできません。ですが現在と未来についてはそ れらは開かれているというわけです。 前者の意味に取るならば、元素は生成可能であると言えることになりま す。過去において元素が生成したから現在もあるので、それは生成可能だ ったし、それは現在においても、また未来においても生成可能だというこ とになります。ですがその可能性を後者の意味に取るならば、すでに生成 して存在する元素は、その後でさらに生成することはできないわけですか ら、現在や未来においては生成可能ではないということになります。 しかしながら後者の意味の場合、「元素の生成が不可能であるなら、その 変化も不可能である」という検討対象の命題そのものが齟齬をきたしま す。上の話から前段は真となるのですが、一方後段については、変化はま だ起こっていないのでそれは可能なのですから、偽となってしまいます。 するとこの命題について問うこと自体が意味論的にそもそも有効ではな い、意味がないということになってしまいます(前段と後段の関係にかか わりなく、真偽が決まってしまうので、ということでしょう)。こうした 齟齬をきたさないようにするには、やはり前者の意味に取るしかありませ ん。実際、ビュリダンによれば、アリストテレスの文言は可能性を前者の 意味に取っているので、過去に生成して現在存在していれば、そこに生成 の可能性が認められるということになります。逆の場合には不可能性が認 められることになります。 かくして、前者の意味で取るならば、二つの帰結が導かれるとビュリダン は言います。ここからは論理学的(あるいは意味論的)というよりは自然 学的な議論です(本来そちらがメインなのです)。一つめは(エンペドク レスの立場からだといいますが)、元素が「実体的に」生成可能でないな らば、それは変化可能でもない、という帰結です。火は熱く上昇するわけ ですが、そうした性質を分離することができません。そのような性質をも たない火は生成不可能です。水はその逆の性質をもつわけですが、そのた め火から水へと転じることはできません。 もう一つは、必然的に反対物を取り除く(消滅させる)ことによって生じ る変化の場合、生成可能でないなら消滅可能でもなく、したがって変化も できないというのはそのまま適切な帰結となるということです。たとえ ば、熱する、冷やす、湿気を含ませる、乾かすといった変化はいずれもそ のような変化だとされます。それらは実体的な生成・消滅を前提としてい ます。自然というものは、無駄を作ることはしないという大前提があるわ けで(アリストテレスによります)、たとえば水が熱くなっても、その熱 は水にとっては無駄なものになってしまうので、その熱が適切なものとな るように、質料がなんらかの生成のために配置されなくてはならないとい うことになります。つまりそのような実体的な変化は、実体的な生成(も しくは消滅)のために目的論的に秩序づけられるというわけです。目的が 可能であれば目的のための秩序づけも可能、秩序付けが可能ならば目的も 可能、という双方向性が自然にはあるというのですね。不可能性も同じよ うに双方向的です。したがって変化が不可能であるとは生成が不可能であ るということであり、生成が不可能であるということは変化が不可能であ るということになる、というわけです。ーーこの話、次回も少しだけ続き ます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ 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