silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.317 2016/10/08 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その14) 前回はジョン・ロックの一般概念論を見てみました。今回は18世紀のフ ランスの哲学者、コンディヤックのテキストを見てみましょう。エティエ ンヌ・ボノ・ド・コンディヤック(1714 - 1780)は、経験論的な認識 論を確立したことで有名ですが、わけてもジョン・ロックの影響を大きく 受けているといいます。ちょうど最近、著書の一つ『論理学』の翻訳が文 庫で出ましたね(山口裕之訳、講談社学術文庫)。ここで見ているアンソ ロジー本に収録のテキストも、実はこの『論理学』からの一節、その第一 部第四章です。 「自然はいかに、私たちに感覚的対象を観察させ、異なる種についての理 念を与えるか」というのがその章の表題です。アンソロジー本の解説によ れば、そこではコンディヤックの認識論がまとめられているようです。ロ ックと重なる部分も大きいといいますが、理念の形成において「自然」が 果たす役割を重視している点や、私たちの「欲求(必要性)」との実践的 な関係に力点が置かれているのが特徴だとされています。 さっそく見ていくことにしましょう。コンディヤックはまず、知的な理解 は常に既知のものから未知のものへと広がっていくのだという原則を前提 とし、知的認識は感覚から始まるとしています。また、既知であるとは認 識をもつということですが、これは理念の集合、それも秩序立った体系を なす集合であると述べています。それらは厳密な理念であり、分析を通じ て秩序立てられているのだ、と。そして理念というものは、連続的に生成 していく(分析がなされていく)ものなのだ、としています。 最初の理念というのは、きわめて個人的な理念です。それは対象物を写し 取った感覚にすぎないとコンディヤックは言います。次いでそれらが分類 される(クラスに分ける)ことによって、類や種が形成されます。名前が 付くことでそれらのクラスは互いに区別されます。このように、人間は認 識に到達したあらゆる事物を、各種のクラスに分配していくわけですが、 もしそういうふうになされなければ、個物それぞれに名前が必要になり、 人間の記憶が疲弊してしまう、とコンディヤックは述べています。このあ たり、ロックの議論にそっくりですね。 いずれにしても、こうして複数の個物が分類されて、それらはすぐさま一 般化されることになります。既知の名前を使うほうが新しい名前を付ける よりも便利であることから、そうした一般化はごく自然に起こるとされま す。一般化は絶え間なく進み、すぐにあまりにも大きくなっていきます。 すると今度はその一般的クラスの下位区分が行われます。一連のプロセス はとくに意識することもなく、ごく自然に行われるというのがミソです。 コンディヤックは、この増大していくクラスが体系をなしていると述べて います。で、これが肝心な点ですが、その体系は、あくまで私たちの欲求 (必要)に応じた体系、私たちが事物を利用しようとするその利用法に則 した体系にほかならない、とコンディヤックは言います。それは自然に実 在するような体系ではなく、私たちが自分たちのためだけに、名前を与え ることでしつらえた体系にほかならない、というのですね。木という一般 的なクラスを私たちは自分たちの理解・利用のためにしつらえているので あって、自然の世界に木という一般的なクラスや体系があるわけではな い、と。ロックもそうでしたが、コンディヤックにとっても、自然には (つまり外界には)個物しか存在しないのです。 それを人間がどのように見るかによって、そのクラス分けがなされるとい うことです。クラスはいわば私たちの世界との関わり方そのものを反映し ていることになります。ですが、そうであるならば、個人個人によるクラ ス分けには違いも出てきそうです。中には混乱とか行き過ぎなども介在し てきそうです。コンディヤックはそのあたりにも周到に目配せしていま す。というか、そこでもまた、人間がもつ欲求・必要性に応じて、自然に 規制・修正がかけられる、と考えています。このあたり、どこかとても楽 観的な見方でもあります。 混乱についてもそうです。コンディヤックは、人間の精神はあまりに限定 されているので、あらゆるものが区別されている自然の詳細を明確な形で 把握することはできない、したがって分析できないものは必ずあり、人間 はどこか混乱した形でしか物事を見るしかないのだ、と述べています。ゆ えに分類もまた、ごく主要なものしかできない、中間部分などは闇の中 だ、というのですね。けれどもそれは人間の必要の範囲でなされているの であり、そこに不都合・不便はありようがない、と。ここにはコンディヤ ックの、どこか諦念と楽観を併せ持った、実にあっけらかんとした気性が 感じられるように思われます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その6) 『生成消滅論の諸問題』から、前回は第四問題を見てみました。そこでは 「元素の生成が不可能なら、その変化も不可能か」という問題が扱われて いました。ビュリダンは可能性・不可能性という用語を、それが過去・現 在・未来の時制に関わらないという意味での可能性・不可能性だと捉えま す(二つめの意味、とされているものです)。これを適用すると、生成が 過去においてなされたのなら、それは生成可能であったし、今も可能であ り、将来にわたって可能だ、ということになり、その意味において元素の 生成が不可能ならその変化も不可能だと結論づけていました。 ビュリダンは、みずからが最初に挙げていた異論に対して、自身の立場か ら反論します。まず最初に、「生成が不可能なら変化も不可能だと言って しまうと、生成や変化の前提となる場が指定できない」という異論があり ました。これについてビュリダンの反論は、場というのは目的因からその 作用へともたらされるものであり、目的が不可能であるなら(今の場合な ら変化)、その目的のための配置(生成)も不可能であり、逆もまたしか りである、と指摘しています。前回見た議論からのいわば派生形の議論で す。 第二点として、「二つの事象が密接に関係しているなら、その都度生成消 滅をなさなくても、変化することはありえる」という異論が提示されてい ました。ビュリダンはこう答えます。両者にそのような性向 (habitudo)があるならばそれは真だが、両者の関係が目的と目的のた めの配置である場合には、一方が不可能であれば他方も不可能だというこ とになる、と。したがって云々、というわけです。これも上の議論と基本 的には一緒です。 第三点は、「生成なしに変化するものもありうる」という異論でした。ビ ュリダンは、そのように言える場合でも、逆のものが取り除かれる場合の 変化についてはその限りではない、と述べています。譲歩案として、水や 人間は変化しうるが、それはその「可能性」を一つめの意味、つまり起き てしまった過去については言えないが、現在と未来については開かれてい る可能性という意味に取る場合に限る(二つめの意味、つまり時制に関係 なく開かれている可能性という意味に取った場合は、その限りではない) としています。これはきわめて論理的な応答です。ビュリダンによる言葉 の分割的解釈は、このようになかなか巧みになされていることがわかりま す。 さて、続いて今度は第五問題を見ていくことにしましょう。その表題は 「物体はどのような任意の印、どのような任意の点においても分割できる のか?ただしこの場合、それは終点ではなく、連続する点でという意味で ある。というのも線はその終点を越えて分割可能であるとは誰も言わない からだ」となっています。ここでも論述形式は同じです。まず異論とし て、物体は任意の連続する点で分割可能ではないという議論が紹介されま す。 そこではまず原子論の始祖とも言われるデモクリトスが言及されていま す。そして具体的議論として次のようなものが挙げられています。(1) 分割可能とは、分割できるということだが、物体は現実から言って、任意 の印において必ずしも分割できるわけではない。(2)可能であると規定 すると、不可能であるとは規定できなくなる。よって、物体が任意の点に おいて分割でき、その分割済みの物体がありうると規定すると、分割不可 能な点はありえなくなる。だが実際には、そのような分割の結果はなんら 生じないことがありうる、もしくは延長をもたない点で、分割できないこ とがありうる。ゆえにどのような任意の点でも分割は可能というわけでは ない。なるほどこれは、それ以上は分割不可能であるような点があるとす ると原子論の立場からの議論です。 次いで今度は逆の立場が紹介されます。物体は任意の点において分割でき る、という立場です。そこでは次のような議論が示されています。物体が 均一であるならば、任意の点での分割は、他の点での分割に比して大小に はならない(点が分割されたとき、その分割点がどの点であるかでの違い はない)、よって物体は任意の点で分割できるか、もしくはいかなる点で も分割できないかのいずれかである。けれども現に分割はできるのだか ら、後者は当たらない。したがって任意の点で分割は可能である……。 ビュリダンはこの問題を考えるにあたり、まず、直線上の任意の点は分割 可能なのか、それとも分割不可能な点があるのかという問題(原子論を否 定するか肯定するか)はここでは考えないとしています。ビュリダンは、 自分はあらゆる任意の点が分割可能であると信じる(アリストテレスに忠 実です)と述べていますが、ここではそれが問題になっているのではない と言い、問題はむしろ、物体はどの部分を取っても分割可能であるかどう かだ、と言い換えています。また、分割とは部分の不連続ということであ り、現実には分離という形を取ると規定します。そしてこの問題の扱いの 難しさは、主として論理的なものになる、と述べています。「可能である と規定すると、不可能であるとは規定できなくなる」という論理的な原理 をどう理解すればよいか(どう整合性をもたせるのか)が問題になるから だ、というわけです。 これらを前提にビュリダンは論を進めるわけですが、どのような理路とな っていくのでしょうか。その中味は次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------