silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.318 2016/10/22 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その15) ロック、コンディヤックに続いて、唯名論のアンソロジー本に収録されて いるのは、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)です。イギリス経験 論のいわば頂点に立つ人物ですね。懐疑論のアプローチから、とりわけ認 識論に大きな足跡を残しています。収録テキストは、主著の一つである 『人間本性論』から、第一巻第七部です。 では、さっそくテキストを見ていきたいと思います。ヒュームもまた、一 般的な理念がどう形成されるかを問うています。まず、通常そのような一 般的な理念が形成される際には、個別のレベルの質や量は捨象されると考 えられます。ところが、個物の延長や持続、その他の属性をわずかに変え たところで、それが個物であることは変わりません。ここにジレンマが生 まれます。「人間」という抽象的な理念は、背丈などの性質がまったく異 なる複数の人間を表すわけですが、そうできるのは、(1)ありうるすべ ての背丈や性質を表すか、もしくは(2)個物をまったく表さないからの いずれかの場合なのではないか、と考えられるからです。 (1)はあきらかにあり得ません。それができるなら精神の力は無限(神 にも等しい!)でなければならないからです。では(2)ということにな るのでしょうか。一般的な理念は、個物がもつ質や量をまったく表さない のでしょうか。ヒュームはそれは誤っていると述べています。ある程度一 般的なレベルの概念がなければ、そもそも質や量というのは認識できない のではないか、とヒュームは言うのです。また、人間の精神は無限ではな いが、そうした質や量が認識可能なレベルの概念を抱くことはできるはず だ、とも述べています。 捨象という操作には、すでにして分離という作用が含まれています。です が、たとえば直線の長さという属性は、その直線の概念から分離すること はできません。概念にはその両者が合わさって含まれているはずです。直 線という概念が精神に浮かび上がる際には、そのように一定の度合いの質 や量(ここで言えば長さ)を含んでいます。別様の直線を思い浮かべる際 には、また別様の質や量がそこに含まれて思い浮かぶわけです。 当然、感覚において対象の像(印象)が与えられる場合、その像は質や量 によってなんらかの度合いの限定を受けています。理念は感覚の像から派 生すると考えられるわけですから、こうしてみると、どうやらそうした感 覚的印象と理念は、強度や鮮明さだけの違いにすぎないということになり そうです。理念というのは、いわば弱まった印象、質や量の度合いが薄ま っている印象だというのですね。 ここから帰結することは、抽象的な理念ですら、それ自体としては個人的 なもの、個人が個別に抱くものだということです。たとえ表象としてそれ が一般的なものになるにせよ、またそれが普遍であるかのように推論に用 いられるにせよ、基本的にはそれは個物について個人が個々に抱くものだ ということになります。この、あたかも感覚像(表象)一元論のような議 論は、ロックやコンディヤックなどの経験論には見られない点のように思 われます。それらの著者では、抽象前の感覚像と、抽象後の理念とははっ きりと分別されていました。ところがヒュームは、それがオーバーラップ していることを前面に出しています。 ヒュームはさらにその先へと進みます。この抽象作用を貫いて存続する質 や量の様々な強度は、そもそも人間が生きていく上で役立てるために集め られるものです。人間は複数の対象物が互いに似通っている場合、質や量 の強度が違っていようと、それらに同じ名前を付与します。するとその名 前を聞いただけで、それら似通った対象物のどれかが浮かび上がり、想像 力によってそれを個物の状況や個人的な関係ともども復元しようとする、 とヒュームは言います。問題はそうした名前によって、具体的な対象物が 浮かび上がらず、むしろその収集と名づけの慣習そのものが想起される場 合があることです。その場合、対象の像は潜在的にのみ精神に浮かび上が ってくる、とヒュームは述べています。 この、対象がおぼろげに示される場合こそが、また新たな鍵になります。 というのもヒュームはこれを敷衍し、上の議論で質や量の強度が感覚像で も理念でも維持されるとしたように、この慣習の想起もまた、そうした対 象の像の想起に、程度の差はあっても、必ずつきまとってくるものなのだ としているからです。この、はっきりとしない部分、どこか曖昧な中間部 分を見事に取り出してくるのが、ヒュームの真骨頂というべき部分なのか もしれません。なかなか見事な手際ですね。この話、もう少し続きます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その7) ビュリダンの『生成消滅論の諸問題』から、第五問題を見ています。ここ では「物体はどのような任意の印(点)においても分割可能か」が問われ ています。前回触れたように、ビュリダンはアリストテレスに立脚する形 で、これを肯定する立場を取ります。分割を分離の意味に取ると、現実的 には分離できない部分があるように思われるわけですが、論理の上では、 ひとたび可能であるとするなら、不可能であるという結論は導けなくなる という問題がある、とビュリダンは指摘していました。で、その齟齬をど う取り扱うのかが今回の話です。 ビュリダンはまず、任意の印(点)という場合の点を、数学者が想像する ような直線上の点と考えるなら、物体はどのような点においても分割可能 だということになる、と述べています。ですが、そのような点は現実には 存在しないので、ビュリダンはそのテーゼを次のように言い換えてみせま す。「どの部分をとっても、両方の外側に位置がありうるような物体は分 割可能である」。つまり、そのような物体ならいくつに分けようとも、そ の残りの部分が終わりにならないので、どの部分においても分割可能だと いうことが成り立つ、というわけです。またその場合、いくつに分けるの か、残りの部分をどれだけ取るのかに応じて、分割は無限にできるという ことにもなります。これは可能態における議論です。 ですが、「物体はどのような任意の点においても分割される」という命題 はあり得ないということには、誰もが譲歩するとしています。デモクリト スが言うように、分割されて残る部分が無もしくは延長をもたない大きさ であることはありえず、またそうであるからには、実際の分割が無限に行 われることもありえないことになります。こちらは現実態にもとづく議論 ですね。このように、可能性としては(条件付きながら)任意の部分での 分割はありうるものの、現実態としては任意の部分での分割はなされな い、これこそがまさにアリストテレスが意図した(デモクリトスへの)譲 歩的議論だったのだ、とビュリダンは述べています。 ビュリダンは、譲歩するのであれば、それは真理にもとづいて譲歩すべき であるという原則を掲げています。そしてそれはここで十分に活かされて います。可能態と現実態の議論が区別され、もとの問題(表題)の命題が 可能態での議論として明確化され、一方で現実態での議論へは譲歩すると いう形で、両論を活かしつつアリストテレスの真意を酌むという戦略的な 議論をしています。 とはいえ、論理学的に整合性をなすためには、可能態を扱う命題と現実態 を扱う命題との関係性を考察しておく必要もありそうです。そのためにビ ュリダンは、そのような命題について考えていきます。まず挙げられてい る事例は、多くの普遍的な命題について見られるケースです。「君はすべ ての星を見ることができる」は真であるけれども、「君はすべての星を見 る」は不可能だという例です。前半は推論によるものですが、確かにすべ ての星を見ることはいつか達成できるかもしれません。可能性は開かれて いるので、この命題そのものは真だということになりそうです。ですが後 半はそうはいきません。現実には、今地上から見える範囲でしか星を見る わけにはいかないので、すべての星を一度に見ることは不可能です。です から命題は偽となります。ただしこれがより限定的な「君はこの星を見 る」という命題であるなら話は別です。この命題なら真になります。全体 についての可能文が真であることは、その任意の個別の具体例が不可能で はないことの十分条件になる、とビュリダンは指摘しています。 次に今度は、主語と述語が相反するような命題を取り上げています。「若 者は老人でありうる」「白は黒でありうる」は真ですが、「若者は老人で ある」「白は黒である」はありえず、偽となります。実在に帰されるがゆ えに偽となるこうした文の場合、述語によって否定される主語の共示的な 意味を、取り除くことで真とすることができます。これはたとえば主語を 指示代名詞で置き換え、複文化する操作などで行えます。つまり「白は黒 でありうる」が真であるなら、「その白についてなら、それは黒である (その限定された白は、なんらかの意味で黒である)」は不可能ではあり ません。 時制が絡む例も挙げられています。「彼は走ることができる」が真である なら、「彼は未来において走ることができる」も真になる、というわけな のですが、これは、現在時制で走ることが可能であるなら、他の時制でも 可能であるからだとされます。なぜならあらゆる運動は時間の中でしかな されないからです。この場合も、「彼は未来において走る」と実在に帰す ことは不可能です。未来の時制はまだ具体的に存在してはいないからです ね。このように、可能であるとされた命題から、現実態としての命題が可 能であるとされるのは、実はかなり限定された条件のもとにおいてである ことがわかります。 こうした議論からここでの問題に戻ると、「物体はすべての部分において 分割できる」「物体は無限に分割できる」は真であっても、「物体がすべ ての部分において分割されることは可能である」は真とは言えません。 「物体がすべてにおいて分割される」が実在、つまり現実態を扱う文であ り、しかもその現実文は「すべて」を含んでいて、厳密には個別事例を扱 っていない(十分に限定されていない)以上、これは真にはなりません。 デモクリトスの議論から導かれる、論理上の可能性と不可能性の間の齟齬 は、可能文をそのように複文化して現実態を反映させた結果生じている、 とビュリダンは結論づけているようです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------