silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.319 2016/11/05 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その16) ヒュームの『人間本性論』からの抜粋を見ています。前回は、抽象的な理 念でさえ、個的なものの感覚像を完全には排しているわけではないとい う、ヒュームの興味深い立場についてまとめました。そして一般的な名称 で名指されるときですら、具体的な対象が潜在的にしか浮かび上がらず、 むしろ名付けの慣習そのものが浮かび上がる場合もあるということを指摘 していたのでした。今回はそれに続く箇所です。 ヒュームが次に注目するのは、この「慣習」の構造です。感覚像の一元論 的な理解に加え、ヒュームは慣習についても一元論的なスタンスを取りま す。すべてが慣習に帰されるからこそ、同じ理念を複数の異なる名称に結 びつけ、異なる推論において誤ることなく使うことができるようになるの だ、というわけです。たとえば等辺三角形の理念がその名称で名指される と、直線、均整の取れた任意の図形、三角形一般、各種の等辺三角形など の図形について語る際にも、それを用いることができます。それらの図形 が同じ一つの理念(「等辺三角形」)に関連づけられるからです。と同時 に、その際には、付随する別の慣習(名指し)も想起され、通常の理念の 理解に矛盾しないよう調整を図りつつ、その理念を用いたなんらかの推論 が結論づけられることになります。 つまり人間の精神はじっとしてはおらず、想起された慣習が一義的に完成 する前に、精神は単一の個物の理念を形成するのでは満足せず、複数の個 物を思惟しようとする、というわけです。それによって精神は、みずから が与える意味に納得し、また一般的名称で表そうとする収集(コレクショ ン)の広がりを推し量ろうとするのだ、というのですね。たとえば「図 形」という言葉の意味を定めるために、精神は円や方形、平行四辺形な ど、様々な形象を次々に思い浮かべます。まさにそういう喧騒状態にある のが、抽象的理念だとヒュームは考えています。なんとも動的な抽象概念 のビジョンです。ここから、「一部の理念は本質において個的だけれど も、表象においては一般的だ」という逆説も説明できる、とヒュームは言 います。 そうした理念の想起に際しての複数的な動きがなぜ起こるのかについて は、アナロジーによって説明されるだけです。ヒュームは、精神の働きの 究極の原因を説明づけることは不可能だ、と考えています。経験とアナロ ジーで説明が引き出せるなら、それで満足としなければならないのだ、と いうのです。精神の根本的なところは一種のブラックボックスになってい て、ただそこから生じる具体的な動きの痕跡のみを手がかりに、説明を加 えるしかない、というわけです。 その一例として、千というような大きな数を考える場合をヒュームは取り 上げています。精神は一般にそうした数そのものの適切な理念をもたない ものの(1とか2なら、具体物を一個、二本というように想起できます が、大きな数になると、そういう想起は不可能です)、それを理解するた めに、たとえば桁の仕組みなどについての適切な理念を用いて、そのよう な数の理念を産出するのだとしています。しかしながら、そういう人間の 理念における不完全性は、ひとたびその理念が抱かれ推論において用いら れる際には、じかに感じられることはないとも指摘しています。普遍概念 についても同様なのだとヒュームは述べています。 ヒュームは、みずからが述べているその説が、従来の哲学での議論と大き く違っていることをきちんと認識しています。一般概念(理念)につい て、従来の哲学は説明付けることができない、とヒュームは考えていま す。その説明のためには新しい体系が必要であり、それは自分が提唱する もの以外にはないのだ、と。理念というものがもともと個別のものでしか なく、また有限でしかないとするなら、ただ慣習のみが、そのような概念 を表象において一般的なものにし、そこに無限の数の他の理念が含まれる ようにできる、とヒュームは述べています。 収録テキストの末尾では、たとえば運動と動体、形象と描かれた対象など の区別が理性による区別であることを、以上の観点から考察しています。 色と形状の区別もそうです。ある色をもった大理石があったとして、その 色と形状を別々の理念として区別・分離するには、いくつかの他の色つき 大理石などを比較し、その類似性(色同士、形状同士)を抽出しなくては なりません。そうした実践があってはじめて、理性による区別は可能にな る、とヒュームは言います。そのような省察が加えられることによって、 通常の慣習では気づくことのない理念が浮上し、区別がつけられるように なる、というわけです。雑多な個的理念がひしめき合う精神の中にあっ て、そうした特徴的な理念が浮かび上がるようになるのもまた、個物をベ ースとした精神の作用にほかならない、というわけです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その8) 『生成消滅論の諸問題』を見ています。今回は第六問題を見ていきましょ う。表題は「何かが端的に生成するということは可能なのか」となってい ます。前の第五問題を受けての設問と思われます。例によって、まずは否 定的な見解が挙げられています。一つめは、端的に生成するとなるとそれ は無からの生成になってしまい、あらゆる哲学者がそれに異を唱えるとの 議論です。二つめは、実体的形相がなければ端的な生成はありえないが、 もとの基体に形相がない(基体が存在しないのだから)以上、それはあり えず、ただ偶発的な生成でしかない、というものです。 三つめは、端的な生成は瞬時に起こると考えられるが(実体が即生成する のだから漸進的になされるということはありえない)、いかなる生成も瞬 時には起こりえないので、端的な生成はない、という議論です。時間の分 割も直線の分割と同じで、直線上には分割不可能な点というものはないよ うに、時間軸上に分割不可能な瞬間というものもないとされ、その意味で は、瞬間に生成が起きることはそもそもないというわけですね。四つめ は、たとえ端的な生成がありえたとしても、それは明確な形では論証でき ないという議論です。 これに対して、今度は異論(つまり端的な生成を肯定する議論)がアリス トテレスを論拠として練り上げられます。ビュリダンはまず、生成は非在 から存在への変化だと指摘し、さらに生成を、端的なもの(generatio simpliciter)と、何らかの原因によるもの(generatio secudum quid) とに分けています。前者は実体による生成、後者は偶然による生成でもあ ります。その上で、アリストテレスが『トピカ』において、端的であると は付加物がないということ、原因によるものとは付加物があることだと述 べている点を取り上げ、これを生成にも当てはめます。空気や水、石など のように、実体が端的に(つまり付加物なしで)生じる場合には、人は 「それは作られた」と言い、偶発的に(付加物をともなって)生じる場合 には、人はたとえば「それは白く作られた」のように、その付加物に言及 する、とされています。 アリストテレスはそのようにして、実体的形相による存在が偶有による存 在から区別されることを述べているのだ、とビュリダンは語ります。ま た、実体的な変容と偶発的な変容との区別も設けていると指摘していま す。「これは何か」という問いへの答えが変わるならば、それは実体的な 変容であり、答えが変わらないならば(その上で、その量や質の変化が問 われるならば)、それは偶発的な変容というわけです。 これらをもとに、ビュリダンはまず上の否定的見解の三つめの議論に対し て答えようとします。つまり、端的な生成は瞬時になされるのか、という 問題です。時間の軸上において、分割不可能な瞬間ないという議論に関連 して、ビュリダンは、運動や存在などの始まりや終わりもまた分割可能な 時間の持続の中にあり、それらを分割不可能な瞬間に位置づけるべきでは ないと述べています。存在し始めたものは現に時間の中で存在し、また存 在の停止もまた時間の中にあり、運動もまたそのようにある、というので す。これはどういうことなのでしょうか。 ビュリダンは、「瞬間」なるものは「点」と同じく、欠如性 (privativa)を表すものとして捉えるべきだと考えます。つまり「瞬 間」という名辞は、時間的な持続の欠如的否定を意味するのだというので すね。「点」も、延長の欠如的否定を意味する、と解されます。さらに、 そうした欠如的否定(negatio privativa)には二重の意味がありうるこ とを指摘しています。一つは、(瞬間のほうの例で言うと)それが時間の 分割可能性の否定を意味する場合です。すると瞬間はそもそも無であり、 瞬間には何もないことになります。 もう一つは、それが「全体」という名称によって割り当てられた(限定的 な)時間での分割可能性の否定を意味する場合です。瞬間という言葉で表 されるのは、一定の(つまり限定的な)時間の中にあるものなのですが、 それはその限定された時間の全体ではない、ということになります。ある 運動が「瞬間において始まる」とは、ある時間の持続の中で始まるもの の、その時間の全体で始まっているのではないということが含意できるよ うになります。その時間がたとえば半分に分割される場合、その運動は、 分割された時間の後半部分で始まっているわけではありません。限定され た時間とともに、運動は始まっていると考えられます。このように、その 限定時間の全体のうちに始まりを位置づけられるわけではないのですが、 いずれにしても、その限定時間以前には運動は始まっていないわけで、そ の限定時間に始まっていることは確かです。その時間がどれほど分割され ようとも、そのことは変わりません。ということは、そこでは分割そのも のが意味を失っています。これが欠如的否定ということの意味なのでしょ う。 さしあたりこのように考えれば、瞬時の変化ということも問題なく言うこ とができるようになる、とビュリダンは主張しているわけです。このあた りは、一種のビュリダン・マジックといいますか、お得意の分析的思考の 巧みさと言えそうです。こうして少なくとも、時間分割の観点から生成は 瞬間になされることができないとする議論は斥けられました。ですがまだ ほかの議論にも、ビュリダンは対応しなくてはなりません。そのあたりは 次回に見ていくことにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------