silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.320 2016/11/19 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その17) 前回までは、いわゆる近世の思想家、とりわけ経験論の系譜の思想家(ロ ック、コンディヤック、ヒューム)に見られる唯名論的な考え方を眺めて きました。ヒュームなどは、理念として名指されるものは、実はせめぎ合 う感覚像の中から前景に躍り出てきたものにすぎないという、ある意味と てもラディカルな考え方を示していました。ですがさらに時代が下り、 様々な学術が進展するにともない、そうした認識論的な図式もまた、各種 の修正を余儀なくされていきました。そのような流れの中に位置づけられ る思想家として取り上げられているのが、ウィルフリド・セラーズ (1912 - 1989)です。 セラーズは20世紀を代表するアメリカの哲学者です。本稿で見ているア ンソロジー本に再録されているのは、1956年の長編論文「経験論と心の 哲学」からの一部分です。これは有名な論文だといい、邦訳も2006年に 出ているようですが、そちらは未見です(神野慧一郎ほか訳、勁草書 房)。アンソロジー本の解説によれば、ウィトゲンシュタインの『哲学探 究』、クワインの「経験主義の二つのドグマ」などと合わせ、経験論や分 析哲学が1950年代に転回していく際の、鍵となるモーメントをなした著 作の一つだといいます。 そこでのセラーズの戦略は、二つの伝統に距離を置きながら、双方の良い ところ取りをするというものだったといいます。二つの伝統とは、まずは 思考を、直接体験にアクセス可能な内的体験として描くという伝統と、も う一つはそうした内的体験を否定し、ひたすら行動主義を貫いていくとい う動きを指しています。どちらもちょっと違うのではないか、というのが セラーズのスタンスということになります。では、双方の良いところ取り をするとはどういうことなのでしょうか。 解説によれば、セラーズは原初的な言語の発出から、それに対する意味の 付与への移行を果たすためには何が必要かを、思考的経験として、いわば 「神話」あるいは内的言語として記述しようとしているのだといいます。 つまり、もはや個人の精神における概念や理念の形成が問題なのではな く、いかに他者を(さらには自己をも)「思考する主体」として見ること ができるようになるのか、という点を問題にしているというのです。これ は一種、言語学的モデルをもとにしたアプローチと言えそうですが、そう 聞くだけでは何やらよくわからない感じですね。 というわけで、さっそくアンソロジー所収の本文を見ていきましょう。 「経験論と心の哲学」第一一章から一五章です。セラーズはまず、当時の 経験論が二つの軸のあいだで揺らいできたということを述べています。一 つめの軸は、思考というものをひたすら言語的な「挿話・挿句(エピソー ド)」と見なす立場です。もう一つは、思考(挿話)というものは知的活 動のいっさいが含まれる、いわば範疇と仮言のハイブリッドであるという 立場です。セラーズによれば、哲学の古典的な伝統は、言語的行動ではな い「挿話」の存在、つまりは言語的像の存在を認めてきたといいます。し かしながら、それは感覚や感情と思考を同一視するという誤りをおかして いて、それを受け容れる者も拒絶する者も、もし「挿話」が存在するとし たら、それは直接的な体験に違いないと思い込んでいる点で混乱をきたし ている、と一蹴しています。 ならば、とセラーズは考えます。そうした古典的な伝統から、そのような 混乱を追放すればどうでしょうか。すると、挿話とは、各人が流れを維持 でき、しかもその挿話は直接的な経験ではなく、それでいて私たちが特権 的にそれらにアクセスできるようなもの、ということになります。そうし た挿話は言語行動によって「表明」されなくてもかまいません。表明され なくとも産出はされており、それを通じて私たちは「考えている自分自身 を聞く」ことができるようになるのだといいます。これはいわゆる内的言 語のようなものと考えることができます。 このように修正された古典的分析をこそ、セラーズは擁護したいのだと述 べています。ここでセラーズは、そのような直接的体験ではない「挿話」 がどのようなものであるのかといった疑問に応答すべく、一つの「神話」 あるいは「SF」を練り上げてみたい、ともちかけます。それはどんなも のでしょうか。まず基本設定ですが、先史時代の人類が、時空内に存在す る公的な対象物を記述する語彙しかない言語を用いているとします。一方 でその言語は、基本的な論理操作など、表現力という点では、私たちが日 常的に行う推論などが一通りできるものとします(仮定法なども駆使でき ます)。では、この神話的な先祖が、そうした言語を用いて、自分たちが 「考えている」「観察している」「感じている」などの自己認識にいたる には、その言語にどのようなリソースが付加されればよいのでしょうか。 セラーズが考えるのはまさにその点です。 ……と、こう書き出してみると、まとめであっても長くなりそうなので、 その具体的なリソースについては、次回以降に詳しく見ていくことにしま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その9) 『生成消滅論の諸問題』から、第六問題を見ているところでした。「何か が端的に生成することは可能なのか」というのがその問題で、ビュリダン はこれを肯定する立場を取ります。否定的立場からの異論がいくつか立て られていますが、その中心的なものが、「端的な生成は瞬時に起こるもの と考えられるが、それは瞬間を切り出せない以上ありえない」という議論 でした。ビュリダンはこれに、瞬間という名辞が時間的持続の欠如的否定 を言うとし、より厳密にはそれが「一定の幅の時間の全体」を否定する名 辞である、と考えたのでした。そうすることで、瞬時に起こるという文言 は、その任意の一定幅の時間の前には生じていないという意味を表すと考 えられ、時間の無限の分割可能性とも矛盾しないことになります。ゆえに 瞬時に起こるというのはありうる、というわけです。 とはいえ、これはあくまで論理的な次元での議論です。現実においては、 生成は部分ごとの継続的な作用として生じることを、ビュリダンも認めて います。これは先の問題でも取り上げられていた、論理的な次元での可能 的記述と、実際の世界における現実態の記述との齟齬に相当しますね。一 方で、たとえば知的霊魂のような不可分の実体の場合には、生成・創造は 「現実的に」瞬時になされると言ってもよいだろうとしています。 この「瞬時」にまつわる議論は、四つあった否定的立場の異論の三番目の ものでした。残りについてもビュリダンは順次対応していきます。次に取 り上げられるのは四番目のものです。それは、「端的な生成は明証的には (evidentia)論証できない」という反論でした。これについてもビュリ ダンは、そのevidentiaという語の意味論を展開して反論します。明証性 と一言で言われるものは、実は誰にとっての明証性かで大きく下位区分さ れます。神や天使にとっての明証性ももちろんあります。さしあたりここ で問題になっているのは人間に関して言う「明証性」です。ビュリダンは これを、その人間が類としてもつ完全な明証性を示す場合と、あるいはそ の人間が抱く概念に即して誤り得ないものを言う場合を、明証的であると 定義しています。 たとえば「これは石である」ということが、自分にとって明証的ではない という場合もありえます。なんらかの超自然な作用によって、自分がそれ を石だと思い込んでいる場合もありうるからです。ですがそういうことで もない限り、「これは石である」ということは自分にとって間違えようが ないということも言えます。そのような場合をビュリダンは自然的な明証 性と称しています。自然学的な学知にとってはそれで十分だ、とビュリダ ンは言います。これは少し前の箇所で示された学知論にも関係する話です ね。生成が端的に与えられているということも、人間にとってはこの二つ めの意味での明証性、自然的な明証性であると考えられる、というわけで す。 一番目と二番目の異論についても、末尾でビュリダンは応答しています。 一番目というのは、「端的な生成は無からの生成であるはずなので、それ は原理的にありえない」というものでした。ビュリダンはこれに対して も、例によって使われている用語の意味を考えることでアプローチしま す。ビュリダンはまず、端的な生成(generatio simpliciter)と言う場 合、それは非・存在者から端的に(ex non ente simpliciter)生成する 場合と、そうでない場合があると区別します。ここで、「端的に」を「普 遍的に」の意味に取るなら、いかなる生成も非・存在者から端的に生じる ことはないことになってしまい、否定的議論が優勢となります。ですが、 別様の解釈もありうるとして、ビュリダンは次のような議論を示してみせ ます。その非・存在者を、「この」という指示詞で指すことのできるよう な現実態の存在者ではないものと取るなら、「現実態の存在者ではないも のから実体的な生成が生じうる」というふうに解釈することができます。 そしてそれは真となります。なぜなら生成のもとになる質料は本来、純粋 に可能態でしかないからです。当時の考え方からすれば、質料からの生成 はごく普通のことでした。 二番目の異論は、「端的な生成と言う場合、もとの基体に実体的形相がな いのでは?」というものでした。ビュリダンはこれに対して、そもそも実 体的形相は複数ある、と反論しています。「基体に実体がない」というの は、基体そのものが「この」という指示詞で示されるような実体としてあ り(つまりそれ自体としてすでにあって)、別の基体に含まれているので はないことを表すか(その場合、実体的形相は確かにあることになりま す)、あるいはまた、その基体がなんらかの現実態としてあり、偶有的に 別の基体の中にあることを表しているのだ、とビュリダンは解釈します。 後者の場合、実体的形相は純粋な可能態の状態で基体に含まれているとい うことになる、というのですね。実体的形相の複数性や、基体がなんらか の現実態としてあるといった話は、フランシスコ会系の神学的伝統に見ら れるものです。ビュリダンは当然、そのあたりを踏襲しているわけです ね。 さらに「偶有」に関する解釈が続きます。「偶有とは付加的に生ずる (adsum)ことを言う」という定義から、基体はもともと(実体を構成 する以前から)現実態として本質的に存在していることになる、とビュリ ダンは解釈します。そこに偶有が付加されるというわけです。またもう一 つの解釈として、「偶有的」という言葉を、偶有的項もしくは偶有的述語 と取るという解釈をも示しています。つまり任意の基体について、ある述 語が付加されてそれが真となることが流動的であるのならば、その述語は 偶有的な述語ということになります(本質的な述語なら、もともとその基 体について常に真であるはずです)。この場合も基体そのものは、付加が なされる以前のまま存続することになり、つまりは実体としてなければな りません。こうして、もとの基体に実体的形相がないという議論は、二重 三重に否定されることになります。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月03日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------