silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.321 2016/12/03 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その18) ウィルフリド・セラーズの代表作「経験論と心の哲学」の一部分を眺めて います。前回は、セラーズが、初歩的な言語(哲学者ギルバート・ライル を引き合いに、ライル的言語と称しています)をもつ人類の祖先の話とい う「神話がたり」(というか、いわば思考実験ですね)を始めようとする ところまでを見ました。その続きをさっそく見ていくことにします。セラ ーズはまず、解決すべき問いとして、次のような問題を提示します。「そ れらの祖先が互いに、思考し、観察し、感情や感覚をもつことを認め合う には、その初歩的な言語にどのようなリソースを付加すればよいのだろう か」「そのようなリソースの付加を合理的に解釈するにはどのようにすれ ばよいのか」。 まずその言語は、意味論的な言説(意味を担うことのできる言説)という 基本的なリソースが豊かにならなければならない、とセラーズは言いま す。カルナップなどは、そうしたリソースは形式論理の語彙から構築で き、したがってその言語にすでに含まれていると考えていましたが、セラ ーズはそれには批判的のようです(その反論は同書では具体的には示され ておらず、別の論文で反駁しているのでそちらを参照せよ、とされていま す)。意味論的に豊かな語彙は外部から構築されるリソースなのだという ことですね。 想定上の祖先が、意味をもった語(つまり何かを指し示す言葉)を使いこ なせるなら、彼らはそれによって、自分たちの言語行動を相互に特徴づけ ることができるようになるだろうと想定できます。すると、彼らは予測的 な言説のそれぞれを相互に因果関係で結んだり、しかじかの言説でもって 言語的な事象(誰かが言ったことなど)、あるいは非言語的な事象(外的 世界の事象)を指示することもできるようになるでしょう。また、そうし た言語的産出物が何を意味しているのか、それらは真偽のいずれである か、といったことも言葉にできるだろうと考えられます。 その際、言語的事象に関して意味論的な言表を発することができること を、その事象の因果関係を短縮した形で語ることができると解してはなら ない、とセラーズは述べています。そうした因果関係についての情報は 「含まれてはいる」とされます。たとえば「雨が降る」という言説は、ど んよりと雲がかかった状況にあれば発することが可能でしょう。ですが、 何語であっても、そうした言表の因果関係を定義として簡潔に述べている わけではない、とセラーズは述べます。雲がかかると雨がふる、といった 因果関係は含み持っていても、それを明示的に示すものではなく、雨とは 何かといった定義におけるような厳密な因果関係をもった言説と同じでは ないということでしょう。意味論的なリソースと言う場合、このようにど こかアバウトなものを含意しているわけですね。 意味論的な言説のリソースを備えることによって、その想定上の祖先の言 語は、「思考」についても私たちと同様に語ることができるようになる、 とセラーズは見なします。というのも、セラーズによれば、思考の特徴と はその「意志性・指向性」にあるからです。何かを指し示すという意味論 的な言説は、すでにして指向性をもっています。それは内的言語(内的な 思考)と同じ構造をもち、同じように思考を指示・参照することができる だろうというのです。 古典的な考え方では、意味論的に特徴づけられる表出的な言語的エピソー ド(出来事)のほかに、伝統的に「指向性」で表される内的なエピソード があるとされます。それがいわゆる内的言語ですね。すると、その表出的 な言語産出物は、内的なエピソード(出来事)のもつ指向性で分析される ことになります(相手が言いたいことは何か、というふうに)。そのよう に、表出的な言語行動と内的なエピソードとを同一視する古典的な考え方 がある一方で、より新しい考え方には、指向性のカテゴリー(内的言語の カテゴリー)は実は表出的な言語産出に帰属する意味論的なカテゴリーに ほかならないとする考え方があります(つまりこれは行動主義や言語論な どを指すのでしょう)。両者をどう和解させるかが喫緊の課題になる、と セラーズは言います。 そこでの「エピソード(出来事)」とはどのようなものになるのでしょう か。想定上の祖先は、どのようにしてそれを認識するようになるのでしょ うか。セラーズは、それは簡単なことで、「理論的」な言語と「観察的」 な言語とが区別されればそれでよい、と考えています。それらが区別さ れ、改めて相関関係に置かれることが、エピソードの認識を生み、またそ のエピソードの内実にもなる、というわけです。理論的な言説というの は、その理論によって掲げられる基本原則に則った、実体の領域を措定す ることとされます(集合論的な対応関係でしょうか)。そしてまた、そう した理論的な実体と、その理論にとって外部の対象もしくは状況を相関関 係に置くことでもあるとされます。つまりはそれが、そうした対象を「観 察対象」にするということです。 それらの間にできる相関関係は、観察的な言表と理論的な言表とを相互に 行き来させる一時的な架橋になる、とセラーズは言います。セラーズが例 として挙げているのは、気体の運動についてです(なんだかいきなりライ ル的言語から逸脱した感じですが(笑))。「いつ、どこそこに、しかじ かの量、圧力、温度の気体があった」という観察的な言説が、分子に関す るなんらかの統計的な理論の言表と相関関係に置かれたとします。する と、その気体に関するなんらかの推論による法則が、理論的言語の定理と 関係づけられます。すると、別の誤った経験的一般化があった場合でも、 そちらとは関係づけられることがなくなります。こうして正しい理論、私 たちが正しいと思う理論は、経験的な法則を「説明づける」ことになる、 というのです。話はいきなり科学的な言語の話になってきました。唯名論 的な射程も気になるところです。そのあたりはまた次回。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その10) 『生成消滅論の諸問題』から、前回は第六問題を見てみました。続く第七 問題は、生成と消滅は対になっているかという問いなのですが、ビュリダ ンは否定的で、問題設定自体にもそれほど興味深い点はありません。そこ で今回は一つ飛ばして、第八問題を見ていこうと思います。そちらは「生 き物には魂のほかに実体的形相があるか」という問題を扱っています。魂 との関連問題は、生成消滅論のハイライトの一つでもあります。 さっそく中味を見ていきましょう。まず最初に、ほかの実体的形相がある とする立場の議論が提示されます。(1)最初はアヴェロエスの見解で す。魂は基体の中に現実態として存在する形相であり、それは四元素の端 的な形相とは別ものである、とアヴェロエスは述べているというのです ね。(2)同じくアヴェロエスから、生き物はそれを動かすもの(魂)と 動かされるもの(肉体)に分かれ、後者もまた現実態としてあり、そこに も形相がなくてはならない、という議論が示されます。 さらにそうした立場からは、(3)魂の到来よりも前に肉体の混成がなさ れることや、(4)肉体の各部分、たとえば骨や肉や神経なども実体とし てあるためには、それぞれなんらかの実体的形相が必要であるという議論 (アリストテレスのもの)、(5)形相が一つだけなら、生物の部分的な 損傷は新たな形相を生成することになるはずだが、そうはなっていないと いう議論などが続いています(一部割愛)。 一方、魂のほかに実体的形相はないとする立場からの反論も挙げられてい ます。これも割愛しますが、ビュリダンはこの、反論する立場のほうに加 担し、その上で独自の議論を展開しています。まずビュリダンは次の点を 取り上げます。もし複数の実体的形相があるのであれば、その一つが現実 態にあり、他は可能態の状態にあるのでなくてはなりません。さもない と、複数の形相からは(それが競合したりするので)そのままでは単一の 現実態がもたらされなくなってしまう、というのです。そのような場合で も単一の現実態がもたらされるには、それら複数の形相が累積するか、あ るいは一つが現実態になり、ほかの形相は可能態にとどまるか、のいずれ かだとビュリダンは主張します。 ですがたとえば生物の場合、そのような状況で現実態がもたらされそうに はありません。まず累積するということは端的に不可能だと思われます。 一方、現実態と可能態による説明も問題があります。骨格や神経がそれぞ れの実体的形相をもつとすると、魂もまた実体的形相である以上、魂がそ うした骨格などに対して現実態としてあるのか、それとも逆に骨格に対し て可能態としてあるのかということが問われることになります。骨格のほ うが現実態だとすると、それはつまり、骨格の形相のほうが魂の形相より もいっそう完全であるということになり(現実態であるのは完全さによっ てそうなる、とされるからです)、不都合が生じます。逆に魂のほうが現 実態だとされると、それもまた別の不都合を生じさせます。その場合、魂 は実体的に生成し、骨格の形成よりも先に、胚の段階から生物を生かすの でなければならないのですが、実際には先に骨格が形成されるので、事実 と矛盾します。よってこの現実態・可能態での説明も成立しない、という ことになります。 第二点としてビュリダンが取り上げるのは、上で言う骨格の形相は偶有的 な形相なのではないかということです。生き物の実体的形相が魂であるこ とは誰もが認めるとし、その上で複数の実体的形相があるとするならば、 それらは魂の後から生じる偶有的形相だということになる、というわけで す。骨格や神経、手などの各部位がそれぞれの各部位としてあるためのも の(形相)は、胚の中に魂が宿った後に生じることになり、したがってそ れらは偶有的なものだということになります。上の矛盾が生じなくなるわ けですね。 第三点として、一般に自然に複数のものを置くのは無意味であるという議 論が示されています。より少ない形で全体が救われるならば、そちらのほ うが効率的によいというわけですね。これはある種の「オッカムの剃刀」 です。実際、一つの代示には一つの実体的形相があれば(生物か否かにか かわらず)それで事足りるのですから、複数のものをそこに据える意味は ないことになります。前々回の箇所で見たように、形相の複数性を認める ビュリダンではありますが、事物の統一性をもたらす実体的形相について は、それは一つあればよく、それ以外は後から生じる偶有的形相なのだ、 と考えていることがわかります。ある意味、全体と部分の関係性が実体的 形相と偶有的な形相という形で表されている、というふうに見なすことも できます。ここで詳しく取り上げることはしませんが、実はこのような考 え方は、新プラトン主義の伝統にも存在し(プロクロスなど)、長い命脈 を保ってきているものなのですね。 いずれにしても、こうしたスタンスを掲げて、ビュリダンは逆の立場の議 論に反駁を加えていきます。次回はその詳細を見てみます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月17日の予定です。 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