silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.322 2016/12/17 ============================== *お知らせ いつも本メルマガをご講読いただき、ありがとうございます。本メルマガ は原則として隔週の発行ですが、例年、年末年始はお休みをいただいてお ります。そんなわけで、今年も年内は本号で終了とし、次号は年明けの1 月14日の発行とさせていただきたいと思います。今年も誠にありがとう ございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様、良いお年をお迎 えください。 ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その19) セラーズの主要論文「経験論と心の哲学」の一部を見ています。前回の箇 所では、話はいったん学知論に及びました。理論的な言語と観察的な言語 が区別されさえすれば、またそれらが相関関係に置かれさえすれば、内 的・言語的なエピソード(出来事)というものが成立し、また認識され る、とセラーズは考えているのでした。外部世界の事象は、観察的言語を 通じて言語的事象となり、また理論的言語との相関関係によって経験的な 法則として、一つのエピソードになる、というわけなのでしょう。経験論 の形成はそのように説明づけられるのですね。 この理論的言語と観察的言語との関連づけというプロセスについて、セラ ーズは次の二点をとくに指摘しています。一つめは、理論の基本的前提は 普通、観察的言語と直接的に相関関係に置かれるような、解釈を伴わない (純粋な?)計算によって示されるわけではなく、むしろ一つのモデル、 つまり現象がいかに産出されるかを記述できるような、馴染みのある動き をなす馴染みある対象によって示される、ということです。つまりそれ は、モデルの領域に属する対象の動きこそが、理論構築の演算的イメージ の公準になるということです。どこまでいっても、そうした心的・内部的 な媒介項が介在するというわけなのでしょう。外部と直接結ばれるわけで はないのですね。 二つめは、理論構築の演算的イメージは、最も重要なこと、すなわち理論 的な説明の発出が、最初から装備の整った形で生じてくるのではないとい うことを隠してしまう、ということです。異なる要素をつなぐ演繹的な推 論、「仮説的推論」は、学術の最も進んだ段階に限定される、などと誤っ て考えられてしまうというのです。実際には、科学もまた一般常識と連続 する関係にあり、経験的な現象を説明づける科学の方法論は、一般人が用 いる方法を洗練したにすぎないのだ、とセラーズは言います。長い時間を かけて、素朴な推論が変化していきながら洗練されていくのだ、というこ とですね。 ここからまたセラーズは、再び「ライル的言語」を用いる祖先という神話 語りへと戻っていきます。理論的言語と観察的言語の関係性は、高次の学 術的なディスクールにのみ関係しているわけではなく、もっと日常語的・ 基本的な発話にも取り込まれているとセラーズは見ています。いわゆる 「内的エピソード」にも含まれている、というわけですね。その二種類の 言語の関係性もまた、ライル的言語に付加される二つめのリソースである というのです。もちろんそこで言う理論的言語の理論とは、大雑把な、ご く初歩的な「理論」であるわけなのですが。 こうして新しくなった基本言語(リソースが付加されたので、ネオ・ライ ル的言語と称されています)を駆使するようになった祖先の中に、次に今 度は「行動主義」的な先駆的才能をもった者が登場することを、セラーズ は想定しています。その行動主義なるものを、セラーズは「方法論的テー ゼ」としての行動主義だと述べています。哲学で言うような行動主義は、 表出する行動を通じて、心的な概念が分析できるという立場のことを言い ます。ですがセラーズが考えているのは、既存の心的概念を分析するとい うよりも、むしろ新しい概念を構築することに関連する行動主義のようで す。 その意味で、それは哲学的な行動主義ではなく、むしろ科学的な行動主義 だというのです。前者はいわゆる「内観」を許容し、その心的な概念が表 出的な行動の諸概念でもって分析できる、という立場を取ります。一方科 学的な行動主義は、人間の諸器官の観察可能な行動・動きについて、ゼロ からの概念構築をなしていくもの、その際の発見に役立つ形でのみ、あえ て心的・内的な言語を利用していくもの、とされます。創発的・発見的な アプローチとしての行動主義、ということのようです。 このセラーズ的な行動主義は、先に出てきた理論的言語と観察的言語の区 別をも取り込んでいきます。つまり、一般に行動主義では、観察対象とし ての行動に関係する語彙として、諸概念を導入していかなくてはなりませ ん。ですが、セラーズ的には、導入される一部の概念は理論的な概念であ ってもよい、とされます。この両者の要請は、相互に相容れるものとなり ます。行動主義と理論的概念との絡みについてまだ話が続きますが、それ はまた次回ということにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その11) 『生成消滅論の諸問題』から第八問題を見ています。「生き物には魂のほ かに実体的形相があるか」という問題です。ビュリダンはこれについて、 否定的な見解に与しています。実体的形相は魂のみであり、たとえば身体 の各部など、ほかの部分の形相は複数ありえるものの、それらはあくまで 偶有的なものにすぎない、というスタンスでした。この立場から、実体的 形相は複数あるという異論に対して反論を加えていきます。 異論の最初の二つはアヴェロエスにもとづくとされるものでした。そこで は、魂は身体とは別の現実態をなしているという議論、さらに、動かされ るもの(身体)と動かすもの(魂)はそれぞれ別個の現実態をなしている という議論がなされていました。ビュリダンは第一点として、注釈者(ア ヴェロエス)が述べているのは、実体的な現実態についてではなく、偶有 的な現実態についてであるとしています。注釈者によれば、魂は実体的な 現実態としての基体をもってはいないとされます。ですが、その場合で も、身体の移動に際して魂がたとえば抵抗を示したりすることからして、 単純な身体とは別の偶有的な現実態をもっているとは言えるだろう、とい うのです。 アリストテレス(ならびに注釈者)は『自然学』第八巻で、動物にみずか ら動く潜在性があるのは、動物に運動の原因と、抵抗する運動体があるか らだ、と述べているといいます。ですが、動因となる形相、もしくはその 形相に可動の性質がなければならない、身体を構成する四元素にはそのよ うな運動への性向、偶有性も、運動への抵抗力もないのですから、そのよ うな動因、抵抗は外部からもたらされる以外にない、とビュリダンは論じ ます。加えてビュリダンは、身体そのものは魂の基体であり、したがって 実体的にも偶有的にも現実態にはなっておらず、魂による動きに抵抗する 潜在的な現実態などではなおさらないと主張します。 三つめの異論は、形相の混成という議論ですが、ビュリダンはその「混 成」「構成」「凝縮」といった言葉が、実体的な述語でも偶有的・共示的 な述語でもないと述べています。混成は実体的形相にもとづいてなされる のではなく、あくまで性質上でなされるのであって、その混成的な性質が 形相の混成を意味するわけでない、ということでしょう。混成は様々にな されるわけですが、実体としては同一のままです。生き物であれば、死ぬ まで魂、つまり産出原理による実体的な種は変わらず、その一方で各種の 混成・複合化によって細部は大いに変化し続けるとされます。現在の 「君」はしっかりとした骨格をもっているが、胎児の頃には軟骨のような ものしかなったではないか、けれども、それでもなお、実体的形相が別だ ったとは言えないではないか、とビュリダンは語りかけています。 続く四つめの異論も、骨や肉などの各部にそれぞれの実体的形相が必要で はないかという議論ですが、これについては、前回も触れたように、ビュ リダンはそれら各部の名称は実体的な範疇に属するのではなく、偶有的・ 共示的なものにすぎないと反論します。一般に「これは何か」という質問 に対する答えとなりうるものは実体的なものであるとされますが、骨や肉 も答えになりうるという議論に対しては、「これは何か」というときの 「これ」とは実体の全体を言うのであって、部分を指すのではない、とビ ュリダンは反論しています。ただしそれは生き物の場合であって、遺骸な どについてはまた別になります。 たとえば馬を殺害した場合、それによって実際上、複数の実体的形相が生 成され、同時に霊的な部分が消滅するという異論もあります。かくして生 き物だった馬はモノ然となってしまい、四肢の各部による複合体となって しまうのだ、と。これは五つめの異論ですが、これについてもビュリダン は、実体的な形相を生成する原因は普遍的な原因であり、そうした馬の遺 骸の四肢に適用されるものではない、と述べています。遺骸に生じるハエ やウジはそうした普遍的な原因によるものだとされているのが、少し面白 い点です。それらの小動物は当時、自然発生的なものとして捉えられてい たわけですね。 * ほかにもいくつかの論点はありますが、さしあたりここでは割愛します。 今回出てきた「混成」(mixtum)の話は、それ自体で大きなテーマの一 つとしてビュリダンの同書の中で扱われています。さしあたりビュリダン の論述の特徴にも一通り慣れてきたように思いますので、年明けとなる次 回からは、各番号の諸問題を横断する形で、そうしたもう少し大きなテー マの括りでビュリダンのこの書の全体をまとめていきたいと思います。一 つは「増加・増大・成長」の問題、さらにはこの「混成」の問題、そして 「元素」をめぐる問題です。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は01月14日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------