silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.323 2017/01/14 ============================== *遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろ しくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その20) 唯名論的議論の現代的展開ということで、セラーズの「経験論と心の哲 学」から一部を読んでいるところでした。底本としている仏訳アンソロジ ー本への収録部分の末尾では、セラーズが思考実験的に語っていた、意味 論的に言語を使いこなせるようになった人類の祖先という話にもう一度戻 り、彼らが用いる「ライル的言語」について再度考察しています。 これまでのところで、ライル的言語には「行動主義的な」理論的言語がリ ソースとして加えられたのでした。これで、相手の行動(つまり言語行 為)を通じて、その内的な発話を推測することができるようになるわけで すね。そこからさらに一歩進むには、そうした言語行為がはっきりと表出 しない場合でも、相手の内的な動きを推察できるようになる必要がありま す。いわば表出する言語行為が最終形であるような、一連の内的発話のプ ロセスを、相手に対して想定できるようになる、という段階です。 これについてセラーズは、ジョーンズという架空の人物がそうした理論 (推論)を練り上げているとの仮定で考えていきます。習慣的でない知的 行動の原因は「内的発話」にある、というのがジョーンズの理論の大筋に なります。たとえばある飢えた人が「これは食べ物だ」と発言して食べよ うとする場合、その行動の理論上の真の原因は(食べたいという欲望がま ずはあるわけですが)、表出した発話にではなく、それが内的に発話され ることにあったと見なされる、というわけなのです。 セラーズはそうしたジョーンズの理論が成立する条件を考えます。内的発 話は理論上、しっかりとした言語構造をもっているかのように見えます。 ですが私たちが日常的に体験するように、内的発話は厳密には発話以前と いいますか、必ずしもしっかりと言語的に構造化されているものではない ようにも思えます。もっと直観的で、不明瞭なもやもやしたもの、という 印象が一般にあるのではないでしょうか。このジョーンズの理論などは、 まだ言語的に未発達の祖先の話として語られているだけになおさらです。 セラーズも、それは様々な方向に多様な発展が可能な、理論の萌芽にすぎ ない、と言います。それはまだ、外的世界と内的世界がはっきりと分かれ た、ソクラテス的あるいはデカルト的な内的対話ではまだないのだ、と。 もちろんそれは、すでにして高度な、複合的なプロセスではあるのでしょ うけれど。 また一方で、内的発話は理論的なものであるという意味で、経験論的なも のではないかもしれません。それは観察対象にならない、観察において定 義されないものだとセラーズは説明します。いわば心理的実体としての地 位すら与えられないものなのですが、たとえそうであっても、後の方法論 的に彫琢された段階においては、内的発話はそうした心理的実体に等しい ものとされることも可能になっていくだろうとセラーズは見ています。 観察可能ではないのなら、その内的発話とは何でしょうか。セラーズはこ こで核心的なことへと踏み込みます。内的発話とは、表出言語の獲得プロ セスを通じて、いわば翻って獲得・見いだされるものだということです。 この、表出される言語行為のほうが先だという点は重要です。表出言語が いわばモデルとなり、言語使用者が用いる理論(推論)によってその内的 な発話が導かれるのだということを、セラーズは重ねて強調しています。 また、これも同じく強調されている点ですが、そうした内的発話・理論的 発話は、直接経験として導かれるものではないとされます。内的発話は、 直接経験のあくまでサブセットをなしているにすぎない、とセラーズは言 います。直接経験にあくまで限定的・理論的に適用されるのが、その内的 発話と称されるものなのだということです。 こうして、ジョーンズという架空の祖先は、言語行為が内的発話(思考) の最終的な表明であるという理論を考案し、他人の行為の解釈にその理論 を適用することを仲間に教えていくことになるわけです。そこから、自己 の記述にその内的発話を適用するまでにはほんの一歩にすぎません。セラ ーズはこんなふうに語ります。ある人、たとえばトムが、別の人、ディッ クの行動を見て、「ディックはPと考えている」(Pは任意の命題です) と推論したとします。すると同じ行動の証言を用いて、ディックが「私は Pと考えている」と推論することも可能になります。仮に行動の表出を観 察していなくても、理論的な言語(内的発話)を用いることで、ディック はそう推論することができ、そしてジョーンズもまた、「ディックはPと 考えている」という観察にもとづく所見から、ディックが語る「私はPと 考えている」という発話に同意することができます。こうしてこれら架空 の祖先たちは、おのおのが自身の思考について特権的にアクセスできるこ とを認識していく、というのですね。 ここからセラーズは、思考というのはこのように、もともと「間主観的」 なもの(主体が相互に反照しあう関係)なのだと結論づけます。言語とい うものがもともと間主観的であり、それは間主観的な文脈の中で学ばれて いくのだ、と。そしてまた、私たちが「内面」というときも、それは他者 のアクセスができないような絶対的内面ではない、とセラーズは結論づけ ています。次回はこのセラーズの議論全体をまとめて、唯名論をめぐる全 体の総括としていきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その12) 『生成消滅論の諸問題』の冒頭部分の問題についていくつか読んでみまし たが、今回からは大きくテーマごとにまとめていきたいと思います。まず 一つめの大局的テーマとなっているのが、「増加・増大・成長」という現 象です。これは同書の問題11から問題17までで扱われています。早速概 要を見ていくことにしましょう。 まず問われるのは、質的変化と量的変化についてです。具体的には問題 11で扱われています。表題は「希薄化(稀少化)は厳密には増加である か」(utrum rarefactio sit proprie augmentatio)というもので、要 は空気などの密度が減じる場合に、それがすなわち容積などの増大を意味 するかどうかという問題を検証しています。ビュリダンは、稀少化におい ては「大きさ」が生成されるのだとし、容器などで大きさが定まっている せいで圧縮・希薄が阻害される事例を、おそらくはなんらかの具体的な実 験をもとに示しています。 希薄化は質料の部分同士の距離を増大させ、そうした距離は大きさを意味 します。ゆえに希薄化は大きさとイコールであり、「少ない」質料に対し て大きさが複数ありうることを共示的に意味している(connotare)、 とビュリダンは述べています。したがって希少性や密度は、必ずしも数量 的な範疇をなしていると考える必要はない、というのです。そこには質的 変化(alteratio)の面もある、とビュリダンは考えます。希薄化は質料の 密集具合が間延びするということなので(真空は当然ながら認められてい ませんので、粒子論的な考え方ではありません)、大きさに注目するなら ばそれは数量的な変化とも言えるわけですが、密集具合に着目すればそれ は質的な範疇とも考えられることになるわけですね。 そんなわけで、質的変化と考えられるがゆえに、希薄化はアリストテレス (や注釈者アヴェロエス)においても運動とは称されていない、とビュリ ダンは指摘します。それは別の動因による付随的な様態の変化として生じ るものだというわけです。あくまで偶有的な運動、第一動因から別の運動 のために派生した付随的な運動にすぎない、というのです。増加・増大と はそうした付随的な運動を指す、とビュリダンは見ています。 仮にそれが質的変化ということになるなら、ではその変化の前後で、基体 そのものは変化すると考えられるのでしょうか。ビュリダンの同書では、 問題13がその点を考察しています。表題は「増大するものは、その前後 で端的に同一であり続けるのか」(utrum id quod augetur manet simpliciter idem ante et post)となっています。上では基体と言いまし たが、要するに実体そのもののことで、問題13ではとくに生物体を念頭 に置いているようです。当然というべきか、実体的な意味での種としては 増大の前後で基体は同一であり続け(人間が成長しても、やはり人間であ ることに変わりはありません)、また形状のスペキエスとしても同一であ り続ける、というのがビュリダンの解答になっています。 とはいえ、第二の結論としてビュリダンは、たとえば今日のソクラテスを 厳密になしているものは、昨日のソクラテスを厳密になしていたものとは 完全に同一ではない、とも答えています。それを構成していたある部分は 流出してしまい、また別のある部分は新たに外部から生じているため、全 体は部分的に入れ替わっており、その前後で完全に同一であるとは言えな いというのです。なかなか近代的な考え方ですが、この流動的な身体とい う見方を、ビュリダンは主にセネカの見解だとして紹介しています。つま りストア派の考え方です。 また第三の結論として、人間はその最も高貴かつ原理的な部分、すなわち 知的魂において、恒久的に完全に同一である、とも述べています。人間と いう呼称はそうした最も原理的な部分に与えられたものであり、それは最 後まで同一である、というわけですね。これはキリスト教の救済の教義に も沿うものであるとされています。救われて永劫に存在するのはそうした 高貴なる魂の部分なのだ、ということです。たとえば馬や犬は、生まれた 際にもとからあった部分に、生後様々な部分が加えられ、厳密には同一で はなくなっているとされます。実体的な形相(心臓や脳の形相など)が増 えるからです。にもかかわらずそれらの動物が同一であるというのは、ご く少数の変わらない部分をもってそう言えるのだというのです。 かくしてセネカ流に言えば、馬は流れの中にあるということになり、その 数の上での(個体としての)同一性を担保するのは、古い部分の退出と新 たな部分の到来という、途切れることのない継承そのものにある、とされ ています。ビュリダンがこのストア派の見識に対してある種のシンパシー を感じているかのように思えることは興味深い点です。一方で人間だけ は、その上に知的魂をもって別格とされています(知的魂が別格扱いとな っているわけです)。ストア派の思想は古来からキリスト教とは相容れな いとされていたわけですが、ビュリダンはもちろんキリスト教の教義を離 れることはしないまでも、こうして間接的に異教的見識に開かれた姿勢を 取ろうとしている感じがします。それを折衷案的に処理する巧みさは、ビ ュリダンの得意とするところなのかもしれません。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月28日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ 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