silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.324 2017/01/28 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その21) 前回までで一通り、唯名論アンソロジー本に収録されたウィルフリド・セ ラーズの「経験論と心の哲学」の一節は終了しましたが、少しそうした議 論が出てきた背景などがわかりづらかったような気もします。今回はその あたりについて、おおまかにまとめをしておきたいと思います。もともと は長めの論文だったセラーズのこの文章は邦訳も出ています。それを参照 してみたいと思います。浜野研三訳『経験論と心の哲学』(岩波書店、 2006)です。これが興味深いのは、やはりアメリカの哲学者であるロバ ート・ブランダムによる読解の手引きが併載されていることです。これは 結構参考になりますので、今回はそれをもとに、簡単にですがセラーズの 議論の位置づけを見ておきましょう。 まず大筋の流れにおいてセラーズが問うているのは、トークンとタイプ (個別と種・類)の認識の問題にほかならないといいます。従来のイギリ ス経験論(ロック、バークリ、ヒューム)は、人間が「確定された(確定 済みの)種・類を意識する生得的な能力をもっている」ことを前提として しまっているといいます。つまりそこでは、個別的なトークンを意識でき ると仮定した上で、ではいかにして反復可能なタイプまでをも意識できる のか、という問題が問われないままなのですね。セラーズはここに、「心 理的唯名論」なるものをひっさげて切り込んでいく、というわけなので す。 その心理的唯名論とはどういうものかというと、「反復可能なものの意識 のすべては言語的事象」(p.180)であるという立場だといいます。ブラ ンダムはこれを、意識の言語的な社会的理論だとまとめています(同)。 ここでの「意識」とは知的理解のことを述べており、「何かを何かとして 意識するという、分類をなす意識」(p.181)なのだとされています。そ うした分類的(あるいは弁別的)知性は、もとより言語的なものに立脚し ている、ということのようです。 従来の多くの哲学では、前言語的意識(つまり言語獲得以前の意識)を仮 定し、そこに推論の働きを措定するのが一般的なのでした。セラーズはこ れに対して、推論もまた言語的事象としての意識に置かれると考えます。 言語的な意識での概念内容を分節・分類するのは、ほかならぬその推論の 機能だというのです。言語的な意識は広く適用可能となっているわけです ね。あらかじめ意識の対象物があって、それを言語的シンボルに結びつけ るというのではなく、セラーズにとっては、そもそも言語的に分節される ことを通じて、そうした意識の対象物が浮かび上がるのではなくてはなら ないのです。 トークンとタイプの話に戻るなら、そうした意識の対象が浮かび上がるの は、トークンからタイプへの移行の必要条件ではありますが、十分条件で はないとされます。意識の対象が浮かび上がっても、それは依然トークン のままでしかなく、いくらトークンが寄せ集められても、それだけではタ イプを成すには至らないのではないか、というわけです。何が足りないの でしょうか。タイプはある意味、集積された知識(観察的知識)をなすわ けですが、そのためには、それが知識であることを裏付けるなんらかの信 任が必要だとセラーズは考えているようなのです。 「それは赤い」という文(知識を表す文)が発せられる場合、同時にその 文が「赤いもの」のトークンを産み出す傾向の表出になっていなければ、 観察的知識を表現していることにはならない、とセラーズは見なします。 そう表現できるためには、そうした傾向の表出への信任(つまり、これこ そが赤いものだということを自分が承認し、またそう承認できているとき ちんと信じているということ)と、なんらかの権威付け(自分が信じてい ることが、根拠のあるものだと考えられてゆるがないこと)が必要にな る、というのですね。「それは赤い」という文自体は、いわば非推論的に (中世的な言い方なら直観的に)引き出されるわけですが、セラーズは、 それを発する本人が、自分は赤いものについて信頼できる報告者であると いうことを推論的に指摘し、正当化できなくてはならない、と考えている のです。 さしたあり、そうした信任・権威付けがどう取得されるのかは明確ではあ りませんが、いずれにしてもこのようなスタンスに立つならば、確かに言 語的事象以外にはなにも基礎付けは必要とされないことになります。セラ ーズは、従来型の非言語的な概念形成プロセス(の仮説)や、それを適用 する意識というものを、所詮後づけとして見いだされるものにすぎないと し、それらを前提としない説明の可能性を探っているのですね。ここから セラーズは、人間はいかにして内的な出来事(エピソード)の観念をもつ ことができるのか、という問題へと進んでいきます。こうして、これまで 見てきたアンソロジー本の収録箇所へとつながっていくわけなのです。 * 以上、必ずしも詳細に踏み込んで検討したわけではありませんが、中世後 期から近世を経て現代(の端緒)にいたるまでの唯名論の流れを、ざっと ですがかいつまんで見てみました。とくに現代のものは、旧来の唯名論か ら大きく様変わりしているのがわかりますが、それでも良かれ悪しかれ、 イギリスを中心とする経験論の系譜が色濃く関与している点が大きな特徴 をなしています。一方の大陸側にもそれを受容する素地はあって、それら が相互に関係し影響し合いながら、唯名論の系譜は大きなうねりのように なって進んでいった……そんな風景が垣間見えた気がします。もちろん、 唯名論を報じているのはここで取り上げた論者たちばかりではありませ ん。中世からこのかた、現代に至るまで、実に多くの論者が様々な議論を 提起しているわけで、それらの全体を俯瞰するというのは、到底一筋縄で はいきそうにありません。 また、こうして見ると、逆に実在論の系譜というのも気になってきます。 そちらもまた、議論の緻密化など多大な変化を経て現代にまで至っている ようなのですが、そのうちまた形を変えて追ってみたいところではありま す。将来的な課題としておきたいと思います。さしあたり参考文献を読む この「文献探訪シリーズ」では、次回から新たに、中世思想研究がいわば 勃興した近代の、その研究史自体を取り上げてみたいと思います。どうぞ お楽しみに。 ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その13) 『生成消滅論の諸問題』から、成長・増大のテーマに関する議論を見てい ます。問題15では、「増大(成長)は形相的部分によるのであって、質 料的部分によるのではないかどうか」が問われています。言葉を変えて言 えば、質料形相論の枠の中で、成長・増大はどう捉えるべきか、というこ とになります。 この問題はその前の問題14「成長するものは任意の部分で成長するか」 に関連しています。そちらの命題は否定されています。任意の部分で成長 すると考えるなら、成長しない部分もあることになりますが、通常におい ては生物は全体的に成長していくからです。また、食物によって生物が成 長する場合、それは食物が身体に貫入するからではなくて(任意の部分で 成長すると考えるならそうであることが導かれるとされます)、成長する 箇所で生成・消滅が起きるからだとも指摘されています。 問題15の命題については、アリストテレスが「増大は形相的部分による ものであり、質料的部分によるものではない」と明示しているといい、ビ ュリダンも当然その立場を取っています。とはいうものの、アリストテレ スのこの文言にはいろいろな解釈があったようで、なにやら錯綜していま す。たとえば「形相的部分」を実体的形相の量的部分、「質料的部分」を その質的部分と解する者もいたといいますし、「形相的部分」を異質な各 部(手や足、指など)、「質料的部分」を同質的な部分と解釈する者もい たようです。もちろんそれらは正しくない解釈として斥けられています。 アヴェロエス以前に、アリストテレスの優れた「注釈者」と称されてい た、アフロディシアスのアレクサンドロスの解釈も紹介されています。ア レクサンドロスは、体幹の湿度の高い部分が親の種子に由来し、それとは 別に食物で育まれる部分があると考えていたといいます(このあたり、未 確認です)。前者は熱を保持する形で死ぬまでそのままにとどまり、一方 の後者は食物の流入・流出を繰り返しているというのですね。アレクサン ドロスは、生物が成長するという場合には前者の保持部分が成長するのだ とし、それがアリストテレスの言う「形相的部分」に相当すると考えてい たといいます。食物の流入・流出が成長と関係していないところが面白い 見解ですが、ビュリダンは、体幹部分が保持されるという考え方を否定し ます。生物は実際には各部に熱を蓄えているし、多発的に成長しているで はないか、というわけです。さらにこのアレクサンドロス説では、問題 14で否定された貫入の考え方が導かれてしまう、とも指摘しています。 さらにまた別の解釈も紹介されています。「形相的部分」を感覚が働く部 分、「質料的部分」を無感覚な部分とする解釈です。これもアリストテレ スに典拠をもつとされ、そこに矛盾はない、などとされているのだといい ますが、問題含みではあります。このように様々な解釈がありうるのは (アレクサンドロスを脇に置いておくと)、一つにはフランシスコ会派の 神学思想の伝統にあって、「形相的」「質料的」という言葉がかなり広い 意味で用いられていた事実があるからだろうと考えられます。ボナヴェン トゥラ以降、そうした二分法はアナロジカルに拡張されていました。もち ろんそれを当のアリストテレスの文言にまで再適用するのは、行き過ぎで しかありません。ビュリダンはそのあたりを戒めようとしているのかもし れません。 ビュリダンは基本的に、成長が伴わないことをもって生物の身体は同一だ と見なすのではなく、成長が伴いつつも生物の身体は同一であると見なす べきだと主張します。生物の物質的(質料的)な面にのみ注目すれば、前 回触れたように、ストア派的な流入・流出で絶えず動いていると考えられ るわけですが、一方で形相の面に注目すれば、それは種として同一であり 続けることになる、というわけです。アリストテレスの文言の意図は、生 物はそのものとして全体的に同一にとどまることはできないが、種的 (specifica)な同一性にもとづく形で、成長・増大という属性を与える ことはできる、というものだったとビュリダンは考えています。アリスト テレスはしばしば種を形相と、また個を質料と呼んでいる、とも指摘して います。 またこのことから、問題14で言われていた、「成長は空間への貫入を伴 わず、また任意の部分で起こるのではない」ことの説明も可能になるとさ れています。上にも記したように、任意の部分で成長が起きるわけではな いのは、一方でなんらかの部分がそのまま維持されるわけではないからで す。生物は、その意味において任意の部分で成長するのではなく、種的な 同一性にもとづいて、成長することが属性として与えられるがゆえに成長 する、というわけです。 成長・増大をめぐってはもう一つ、それが局部的な運動や変質、実体的生 成とは異なる、固有の運動なのかどうかという問題も掲げられています。 それが問題16ですが、これについてはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月11日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------