silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.332 2017/05/27 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 中世思想研究の政治性(その8) プラロンの著書を見ています。そこでは、ドイツでの神秘主義の再評価に 大きく貢献した人物として、まずテンネマンが挙げられていました。それ に続く重要な人物たちがシュレーゲル兄弟です。アウグスト・ヴィルヘル ム・シュレーゲルは文学者で、1791年にダンテについてのエッセイを刊 行します。同書には『神曲』などいくつかの詩作品の翻訳も合わせて掲載 されていました。プラロンによれば、アウグストはダンテの作品に関わる ことで、スコラ学とはまた別の、世俗語で語られる生き生きとした「騎士 道的」な哲学思想を見いだすことになった、といいます。 こうしてイエナ・サークルにおいては、ダンテというイタリアの詩人が、 スコラ学に対するオルタナティブとして、中世ドイツ文化を肯定するため 一要素として受容されたのだというのです。なんだか「敵の敵は味方」み たいな話です。 ダンテそのものはもちろん神秘主義ではありません。ですが、世俗語の価 値づけという点にアウグストはてこ入れし、それがやがてシュレーゲル兄 弟に神秘主義の理解を促すきっかけになった、とプラロンは記していま す。アウグストの学問体系はスコラ学的ラテン語と世俗語との対立を基礎 としており、世俗語の文芸の起源を、フランス南部のトルバドゥールもし くはトルヴェール(吟遊詩人)の技芸に見ているといいます。そうした技 芸は、生を謳歌するものであるという点で、修道院の隠棲的な生とは対照 的です。しかもそれは、英国やドイツなどを含む欧州全域に広まっていま した。 もともとキリスト教を共有する欧州各国にあって、宗教は自国の文化を特 徴づけるものにはなりえません。そこで弁別的な特徴をなしたのは、各国 の世俗語でした。ダンテを読み進めることで、アウグストは、世俗語によ る生き生きとした哲学と、そればかりか中世の民族主義的な哲学文化の要 請をも読み取ったのだろう、とプラロンは述べています。こうして、パリ を中心としたスコラ学に対する対抗軸が、徐々に出来上がっていったとい う次第です。 アウグストの弟、フリードリヒ・シュレーゲルは思想家で、ケルンの大学 での講義(1804〜06)において、同じようにダンテの肖像を描いてみせ たといいます。ダンテの哲学思想は、同時代のスコラ哲学によって育まれ ながらも、詩によって刷新され、生命の躍動感を得ているとされ、ゆえに ある種の理想として掲げられていたのですね。そうした躍動感こそが観念 論的な哲学では重視され、また神秘思想の構成要素でもあったわけです。 ダンテは、いわばスコラ哲学と神秘主義の中間に位置づけられたのだとい います。 フリードリヒはこうして、中世哲学の内部にも一つの対立を持ち込んだの でした。一方には、フランスのものであると同定されたスコラ哲学、もう 一方には神秘主義が対置されました。前者は極端に形式化された人工的な ものであり、しかもアラビア思想に「汚染」されていると解されました。 このあたり、西欧におけるイスラム嫌いの根っこの部分のようでもあり、 しかもそれが独仏の民族主義的な対立の中から沸き上がってきているとこ ろが、なかなか興味深い点です。一方で後者は、生命の躍動感を表すもの とされていました。先行世代(ブルッカーやティーデマン)には評判の悪 かった神秘主義ですが、フリードリヒはそこに、新たな解釈を加えてみせ たのでした。 それまでは神秘主義と言うと、マルシリオ・フィチーノやアグリッパ、ジ ョルダーノ・ブルーノ、そしてヤコプ・ベーメなど、ルネサンス期の思想 家が挙げられるのが常でした。プラトン主義、内的観想、観念主義などが その選出基準だったのですね。これがフリードリヒ以後、さらなる拡張を 施されることになります。プラロンによれば、ちょうどそれは、美術史に おいて、ゴシック建築がフランスの古典様式(ギリシアの模倣)に対置さ れ、ドイツ精神に重ねられたのと軌を一にしているといいます。実はゴシ ック美術の再評価にも、フリードリヒは一枚噛んでいるのですね。 このようなフランスとの政治的対立の影響下にあって、中世の神秘主義は いよいよ復権を遂げていきます。1810年以降、ドイツの歴史家たちは、 9世紀のアイルランドの神学者ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナから14 世紀のマイスター・エックハルトにいたる、中世の神秘主義の系譜を取り 上げるようになっていきます。プラロンの著書は、エリウゲナとエックハ ルトの再評価についてページを割き、少し詳しく述べています。次回はそ のあたりを概観します。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その21) 『生成消滅論の諸問題』第二巻では、もとのアリストテレスのテキストと 同様、主に元素についての話が展開していきます。前回も見ましたが、ア リストテレスは第一性質(四つの基本性質)の組み合わせで元素ができて いるとし、それの性質の変化によって一つの元素から他の元素への変化が ありうると考えていました。このあたりを後代の人々は、質料形相論的に 解釈しようとするようになります。ビュリダンの場合はどうでしょうか。 問題4の末尾を見ていきましょう。 元素の実体的形相は相互に対立するか(contraria)という問題につい て、ビュリダンはまず、実体的形相が相互に対立するという議論を展開し た嚆矢として、アヴェロエス以前の著名なアリストテレス注解者、アフロ ディシアスのアレクサンドロスを挙げています。アレクサンドロスは、元 素の形相は同一の基体、同一の質料(第一質料のことでしょうか)のもと に生まれるのであり、同時に同じ基体を受け取るわけではないので、相互 に対立するのは明らかだと考えていた、とされます。また、形相同士の対 立は原因同士の対立のことでもあるとしています。たとえば火の形相と水 の形相は、形相を構成する性質同士が対立しているので、相互に対立して いることになります。ちなみに、ここでの形相とは、前に出てきたよう に、第一性質(熱・冷・乾・湿)の組み合わせのことを言っているものと 思われます。 一方でこれに対する異論として、ビュリダンはアヴェロエスを挙げていま す。アヴェロエスは、実体である限り、いかなるものであれ(相互に排他 的であるのだから)対立はしない、としているというのですね。そしてビ ュリダンは、両者が実は一致していることを説きます。アレクサンドロス とアヴェロエスの見解は、対立(contraria)を本来の意味に(proprie) とるか、通俗的な意味に(communiter)とるかの違いだけなのだ、とい うのです。本来の意味での対立には、対立するとされるもの同士が(1) いずれも可能であり、(2)同一の基体上に同時には存在できず、(3) 同一の基体上に継起的にも存在しえず、(4)質的に最大限の違いがあ り、(5)類としては同一ながら種としては異なる、などの条件が課され ます。 この定義に従うなら、火の実体的形相と水の実体的形相は、たとえば上の (4)から、質的に最大限違うというわけではないので(基本性質の一部 が違うだけです)、本来的な意味で対立してはいないと言うことができま す。というか、本来的な意味での対立は同一基体上にはありえないので、 どの元素同士も厳密には対立していないということになります。ですが一 方で通俗的な意味では、アレクサンドロスの言う対立は有効とも考えられ ます。上のすべての条件が満たされるわけではないにせよ、一部の対立の 条件は満たされるからです。というわけでビュリダンは、本来的な意味で はなく通俗的な意味においてなら、元素は相互に対立していると結論づけ られるとしています。 このあたりの議論、アレクサンドロスやアヴェロエスのテキストを参照し て確認したいところではありますが、ここでは時間的に難しいので、今回 は省略します、ただ、注目しておきたいことは、ビュリダンの場合、質料 形相論的に元素を扱うという観点が思いのほか希薄で、そこでの形相は、 あくまで第一性質の組み合わせとして捉えられているように思われること です。前に取り上げた混成の問題で、中間的な形相が生じる可能性を論じ ていたことなどからも、そうした考え方が推測されるように思われます。 ビュリダンにとって形相とは、つねにどこか相対的なもの、アナロジカル なものなのかもしれません。 さて、続く問題5になると、今度は元素の性質についての規定が問題にな ってきます。たとえば水は第一に冷であるか、ほかの元素にもそうした第 一の固有の性質があるかどうか(土は第一に乾、空気は第一に湿、火は第 一に熱であるか)が問われるわけですね。これはアリストテレスのテキス トでは、特徴的な性質(シュンボロン)と称されているものです。この問 題にビュリダンは肯定的に答えます。 第一の物体である四つの元素はそれぞれ、生成と消滅をもたらすいずれか の第一性質の組み合わせをもっています。元素は、固有の形相をもってい なくてはなりませんから、その組み合わせこそが形相をなすと考えてよい でしょう。一方でこの同じ元素は、おのれに固有の特徴、現実態としての 生成消滅を司る最重要の性質を備えているのでなくてはなりません。それ は他の元素からおのれを区別する性質のことです。そして当然ながらそれ は、その形相に合致するもの(primo conveniens)ではなくてはなりま せん。 また、元素が第一の物体である限りにおいて、それぞれの元素を特徴づけ る性質も単一の性質でなければならないと考えられます。たとえば火の場 合を考えてみると、それは熱と乾の組み合わせによるものなので、熱か乾 かが第一の性質になると推測されます。ですがここで、性質には序列(問 題2で取り上げられた能動・受動など)があるので、熱をさしおいて乾が 主要な性質となることは考えられません。かくして、火においては熱こそ が、現実態としての主要な性質になります。 同じように元素にも序列があります。性質の側から見てみると、熱は空気 を構成する要素でもありますが(空気は熱・湿の組み合わせです)、一般 に火のほうが序列的に上であるとされることから、火を差し置いて空気が 熱を主要な性質とすることはできません。したがって火は熱を、空気は湿 を主要な性質とする、ということになると説明されます。同じようにし て、水は冷、土は乾を主要な性質とする、とされるのですね。このよう に、性質と元素本体の序列の関係から、主要な性質の割り当てが決められ ています。当然ながらビュリダンに限ったことではありませんが、こうし た説明からも、きわめて序列的な世界観が横たわっていることが再度確認 できるように思われます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------