silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.333 2017/06/10 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 中世思想研究の政治性(その9) ケーニヒ=プラロン著『哲学的中世研究と近代の理性』(2016)から、 ドイツ神秘主義の系譜を追った第三章を見ています。前回もちらっと触れ ましたが、中世の神秘主義の再評価では、ヨハネス・スコトゥス・エリウ ゲナ(9世紀)からマイスター・エックハルト(14世紀)までが取り上げ られることになりました。これらはいずれも、民衆、それも「北欧の血 族」の精神の表れとして解釈されていたといいます。これぞゲルマン民 族、もしくはインド・ゲルマン語族の精神性だ、というわけですね。 まずエリウゲナについては、1823年にデンマークのペーデル・ヨルト (Peder Hjort)という哲学者が小著を刊行します。ヨルトは、1818年 から20年にかけて、ミュンヘンでシェリングの講義に出ていたといいま す。自著では、ドイツ観念論の影響のもと、ドイツの神秘主義の系譜を復 元しようとし、そこでエリウゲナが出発点に据えらました。シュレーゲル に倣って、ヨルトはドイツのキリスト教、つまりは中世哲学が、ギリシア 哲学よりも優れていると主張しました。ヨルトにとってのエリウゲナは、 「この上ない思弁でもって、キリスト教と哲学とを結びつけた初の思想 家」だったといいます。 ヨルトはほかにどんな思想家を取り上げているのでしょうか。プラロンが 挙げているのは、12世紀のサン=ヴィクトル学派や聖ベルナール(このあ たりはフランスですね)、13世紀のボナヴェントゥラなどです。とはい えヨルトは、やはり最も純粋な神秘主義(スコラ学や教会制度に「汚染」 されていないもの)はドイツのものにほかならない、と強調します。14 世紀のヨハネス・タウラー、15世紀のトマス・ア・ケンピス、そしてや はり14世紀のヤン・ファン・ルイスブロークなどです。これに宗教改革 の要人たちと、後のドイツ観念論(ヘーゲルとシェリンク)が続いていき ます。面白いことに、まだマイスター・エックハルト(14世紀)は取り 上げられていません。 ヨルトに次の代にも、同じように重要な人物が登場しています。ハインリ ッヒ・シュミットという人で、神秘主義の黎明について研究を進めまし た。この人もまた、エリウゲナとサン=ヴィクトルのリリシャールを主に 取り上げているようです。シュミットの場合も、神秘主義はスコラ学に対 峙する武器であるという、一種の対立史観が顕著だといい、聖ベルナール などがそれに該当すると主張しているようです。シュミットにおいてもま た、エックハルトは取り上げられていないのだとか。 ヨルトやシュミットは西欧での神秘主義の系譜をまとめていったわけです が、ほかにもいろいろな人が神秘主義を取り上げるようになっていきま す。たとえばオリエント学者のアウグスト・トルクは東方の神秘主義を扱 いました。また作家のヨーゼフ・フォン・ゲレスは、別様のキリスト教的 精神性、あるいは異端についての研究を進めていきます。トルクはプロテ スタント系の神学者で、西欧の神秘思想との比較を目的に、1825年にイ スラム神秘思想のアンソロジー本を出します。 ゲレスは1840年前後に著書を刊行します。この人物の「功績」は、ロー マ・カトリックの神秘主義の内実を、厳密に哲学的なものから、聖人やス ピリチュアルなものへと移しかえた点にあるとされます。つまり、それ以 後、魔術、殉教、預言、修道生活などがテーマとして再評価されていくよ うになります。とはいえ刊行当時、ゲレスの著書の評判はさほど良くなか ったようです。 さて、こうして見ると、エックハルトの再評価がいつ、どのようにして始 まったのかが気になってきます。今でこそ、中世後期の重要な神学者と評 価されるマイスター・エックハルトですが、当初はあまり大きく扱われて はいませんでした。プラロンによれば、変化の兆しは1830年代にありま した。ドイツの哲学史家たちが、自国の神秘主義的遺産に、いっそうの関 心を抱くようになったのです。その例として挙げられているのが、アルザ ス出身のシャルル・シュミットです。この人物の博士論文は、14世紀の ドイツの神秘主義を一種独自のものとして取り上げます。そこで主に扱わ れているのが、上記のエックハルト、タウラー、そしてアンリ・スーソ (エックハルト思想を広めた人物)だったのですね。以後、これらの神秘 思想家が、いわば神秘主義の御三家として扱われるようになります。 というわけで、いよいよ話はエックハルトに差し掛かりましたが、その後 の展開については次回に持ち越しです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その22) 14世紀の哲学者・神学者、ジャン・ビュリダンによるアリストテレスへ の注釈書『生成消滅論の諸問題』第二巻を見ています。第二巻では元素に ついての問題が主に扱われています。前回の問題5では、それぞれの元素 に特徴的な第一性質があるという話が語られていました。では各々の元素 がもつ第一性質同士は、元素が違っても同じものなのでしょうか。続く問 題6で取り上げられているのはまさにその話です。「空気がもつ熱の性質 は、火がもつ熱の性質と、原理的に、あるいは様相的に同一であり、強 さ・弱さのみが異なっているのか」「空気がもつ湿の性質と、水がもつ湿 の性質は、原理的に、あるいは様相的に同一なのか」というのがその表題 です。 これもアリストテレスのもとのテキストからはやや離れた議論です。ビュ リダンはこれを肯定的に捉え、たとえば現実に熱を性質としてもつ元素に おいて、その現実態の熱は原理的に同一(eiusdem rationis)、様相的 に同一(eiusdem speciei)で、ただ強さ・弱さ、あるいは外的要因のみ が異なるのだと述べています。これはほかの冷・湿・乾の性質でも同様で す。現実態の火がもつ熱の性質は、水の冷の性質も、土の冷の性質も、と もに消滅させることができるので、性質同士の対立からすれば、熱の性質 は一様であり、冷の性質も一様なものと推論される、というわけです。 この箇所で面白いのは、ビュリダンがその擁護論として、感覚の問題を持 ち出していることです。視覚や味覚は、対象物の性質を様相的に見分ける ことができますが(色の微細な違い、味の違いなど)、触覚の場合、もと から区別はできません。その考え方からすると、たとえば土のもつ冷たさ と水の冷たさとを区別することはできません。ゆえにそうした同じ性質を さらに区別することには意味がなくなるという話のようなのですが、一方 では、土と水との冷たさの差が極端に大きい場合や、別の性質と合わさっ ている場合はさにあらず、とも記されています。元素が現実態として感覚 器官に示される際、熱さや冷たさといった性質は、実はケースバイケース で異なるのだ、という含みにも取れます。となると、逆にそうした違いを もたらす要因はいかなるものなのか、という疑問も出てきます。 考えてみると、四元素を構成するとされる第一性質が、いずれも触覚に関 係した性質であるというのは示唆的です。ちょうど今個人的に読んでい る、高村峰生『触れることのモダニティ』(以文社、2017)の序章に、 アリストテレスの触覚論について短いまとめがあります。少し脱線になり ますが、それを紹介しておくと、アリストテレスにとって視覚は事物の認 識だけでなく、「生産的、創造的に世界に関わるための重要な知覚様式だ った」(p.10)とされます。一方の触覚は、生物にとって「身体が存立 するための条件」(p.11)とされています。それは生命そのものに深く 結びついているというのです。 触覚は他の感覚をもつための前提でもあり、さらには、他の感覚がなんら かの媒体を通じて感覚するのに対し、触覚だけは、対象そのものに直接触 れることで成立します(とアリストテレスは指摘しています)。ですが、 著者の高村氏は、触覚は確かに最重要だけれども、高貴であることは別だ とし、アリストテレスの言う触覚が、どんな生物もア・プリオリにもって いるものに過ぎないとも解釈されうると指摘しています。つまり、触覚は 動物と人間を区別する特質にはならず、感覚のヒエラルキーとしては最も 下に位置づけられるのだ、と。この、最重要だけれど最下位であるという 二重性は、あたかも裏返しになって、元素の基本性質にも反映されている かのようです。 さて、話をもとに戻しましょう。現実態としての性質という言い方があり うるなら、潜在態としての性質という言い方もできます。ビュリダンはそ ういうものが元素にも内在していると考えます。その例として、胡椒やシ ョウガ、葡萄酒などに含まれる熱の性質が挙げられています。熱の性質が あるからこそ、それらの食品を摂取すると体が温まるけれども、物体とし てのそれらの食品は火のようなものではなく、熱の性質は表面には出ずに 潜在している、というのですね。そのような潜在態としての性質は、元素 のレベルで含まれていると考えられています。土や水といった元素が支配 的な物体(たとえば土が支配的な物体に鉄があります)でも、熱の性質に よって熱くなることはありえますが、その場合でも、土や水の元素が潜在 的に冷たさをもっているがゆえに、やがて冷たさのほうへと落ち着いてい くのだ、というわけです。 熱せられ沸騰した水がやがて再び冷えていく現象なども、そのようなかた ちで説明されています。潜在的な性質はまた、元素同士が混合する際にも 維持されると論じられています。現実態としての性質は、混合の際に消滅 するとされているのですが(これについては以前触れました)、潜在態と しての性質はそのまま温存されるというのです。そこから、潜在態として の性質は、元素を構成するおおもとの形相(現実態の基本性質の組み合わ せ)にはなりえないとされます。形相は混合の際に消滅するはずだと考え られるからです。 この潜在的な性質という考え方はある意味画期的で、うまい具合に元素の 諸問題をまとめ上げる働きをします。形相とは別筋で物体の諸性質を規定 でき、元素の混合の話ともなじみます。潜在的な性質を仮構することで、 本来一様と考えられる熱・冷・乾・湿の基本性質に、様々な強度の含みを もたせることができるようになります。たとえば油の湿の性質は、そこに 潜在的な熱の性質があるがゆえに、水における湿の性質とは異なり、表面 に浮かぶし、燃え上がることもある、というふうに説明がつくというので すね。また、潜在的な性質にももちろん対立する同士があり、たとえば獣 脂においては、それを構成する元素(土と空気)のうち、空気の湿の性質 が大きく、ゆえに土の乾の性質が斥けられるため、完全には固体にならな いとされます。またそれを油の状態にするには、湿の性質を取り除く必要 があると説明されるのです。アリストテレスの四元素説が支配的だった当 時、ビュリダンのこの説明方法にはなかなか面白いものがあります。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) 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