silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.337 2017/08/26 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その1) 夏休みはいかがお過ごしでしたでしょうか。本メルマガも休み明けという ことで、ボチボチと再開いたします。この「文献探索シリーズ」では、新 たに「ルネサンスと錬金術」と題して、ジャン=クロード・マルゴランと シルヴァン・マットン編の論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』 (Alchimie et Philosophie a la renaissance, eds. Jean-Claude Margorin et Sylvain Matton, Librairie philosophique J. Vrin, 1993) を見ていこうと思います。中世プロパーからはやや外れるかもしれません が、広義の中世ということでルネサンスに目配せするのも悪くないと考え ています。 この論集は500ページ近い本で、収録論文数も25編と多く、すべての論 考を取り上げるわけにはいきません。ここではいくぶん絞って、中世から ルネサンス期にかけての錬金術の「基本問題」を中心に見ていきたいと思 います。まず第一の基本問題は、最初の論考が取り上げている、諸学の分 類における錬金術の位置づけでしょう。学知論的にもこれは重要な点で す。というわけで、まずは同論集の最初の論考、ジャン=マルク・マンダ ジオ「ルネサンス期の学術・学芸の分類における錬金術」(pp.21-41) を眺めてみましょう。これは厳密な意味での中世からルネサンス期にかけ ての、錬金術受容史としても有益なまとめになっています。 さっそく中味を見ていきましょう。まず冒頭の前口上で、論文著者は錬金 術が歴史的に、定まった位置付けをもってこなかったことを指摘していま す。後代の百科全書家や書誌学者はもとより、錬金術に接近した当時の思 想家たちも、そうした定位置を見い出してはこなかったのではないかとい います。そしてそれは、一つには錬金術がもつ両義的な性格のせいだろう と述べています。それが用いる諸概念が通常のカテゴリーを乱すものであ ったり、多義的な文章を生成したりするからですね。けれどももう一つ、 ルネサンス期においては、思想家たちが採択していた哲学的立場・社会的 要因なども絡んでいるのではないか、という問題提起もしています。そし てこれこそが、この論考の主題となるわけです。 さて本論です。最初に、ルネサンス期の思想家は錬金術を、どのようなレ ベルの概念を有するものと見ていたかという点について論じています。錬 金術は操作的な技術として見なされていたのか、それとも理論的な学知と 見なされていたのか、という問題ですね。これについては、複合的である との解答が一般的です。つまり、理論的な面と実践的な面とが、多くの著 作で並存しているという捉え方です。大半の錬金術師たちは、自分たちの やっていることは完全な哲学の技法であると考え、理論と実践に加えて、 倫理、神学的なものまでそこに含まれていると主張していました。 そもそも12世紀にアラビア経由でラテン世界に錬金術が入ってきた当初 から、錬金術には実践的知と理論的知という二つの面が区別されていたと いいます。12世紀にドミニクス・グンディサリヌスが著した『哲学の区 分について』に、錬金術はすでに言及されていました。これはアル・ファ ーラービーの『学知についての書』(Kitab ihsa'al-ulm)のパラフレーズ なのだそうで、いずれにしてもグンディサリヌスは、哲学をまず理論と実 践に分割し、理論はさらに自然学・数学・形而上学に分けていました。彼 はそのうちの自然学を「自然の物体とその偶有性の理論を供する学問」と 定義し、これをさらに8つに下位区分しました(いわば普遍的な自然学に 対するそれぞれの個別科学です)。そしてそこに、錬金術を含めていたの ですね。ちなみに、ファーラービーのもとの書には、そうした下位区分は ないようです。 13世紀のヴァンサン・ド・ボーヴェになると、その著書『大いなる鑑』 で、錬金術は手工芸の一つに分類されます。この分類の枠組みは、前世紀 のサンヴィクトルのフーゴー(『ディダスカリコン』)、およびサンヴィ クトルのリカルドゥスによるものに準拠しているといいます。この両者 は、哲学を理論・実践・手工芸・論理学に分けました。手工芸(ars mechanica)とは、いわば製作術一般を扱う学問です。そこには医学も 含まれていました。ヴァンサン・ド・ボーヴェは、そうした学問区分を再 び取り上げ、医学の代わりに錬金術を置くという重大な変更を加えたので した。医学はそれ自身で理論的な部分を含み、必ずしも操作的な技芸にと どまらないものだったからです。 他方、錬金術のほうは、他の学問に奉仕する補助的なものでしかないと見 なされていたのでした。一つには、錬金術が原因と結果の関係を論じよう としないからです。同時代のドミニコ会士ロバート・キルウォードビーな ども、手工芸の下位区分について論じる中で錬金術を取り上げていました が、錬金術は思弁的学問としての自然学に従属するものという扱いでし た。トマス・アクィナスなども同様です。13世紀のドミニコ会士たちは 一般に、錬金術をそのような「経験的ノウハウ」として捉えていたようで す。 一方で、そうではないと考える人々もいました。たとえば13世紀のフラ ンシスコ会士ロジャー・ベーコンは、錬金術に哲学を基礎付ける役割を与 えていました。思弁的学問の「論議」と、操作的学問の「自然で不完全な 経験」とが反目している状況を乗り越える、「実験的学問」にもとづく新 しい哲学として、錬金術に注目していた、というのですね。そこでの錬金 術は、実践的な面と理論的な面とを併せ持ち、魂のない事物、さらには元 素にもとづく事物の生成についての学知をもたらすと見なされていまし た。ロジャー・ベーコンはある意味、キルウォードビーが述べていたよう な従属関係を逆転させてしまったのでした。実験に根付いた実践的な学知 こそが、最も理論的な学知(思弁的な錬金術、自然学、医学)を実証し有 効とする、というわけです。 ……この話、続いて今度は14世紀以降をめぐるのですが、それはまた次 回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その1) 今回からはニコラウス・クザーヌスの初期の作品、『推論について(De coniecturis)』を取り上げたいと思います。クザーヌス(1401〜64) はドイツの15世紀の神学者で、モーゼル河畔の港町クース出身であるこ とから、クースのニコラウスという意味でクザーヌスと呼ばれています。 数学的思考と、神の無限についての論考、さらには知ある無知などの概念 で知られている人物です。その経歴については、いくつか参考書が出てい ます。たとえば比較的新しいものとして、K. フラッシュ『ニコラウス・ クザーヌスとその時代』(矢内義顕訳、知泉書館、2014)があります。 全体像はそちらをご参照いただくことにして、ここでは思想内容の絡みで ときおり言及するにとどめたいと思います。 著書の一つ『推論について』は、初期の主著である『知ある無知』に続く 三作目で、1442年から43年頃に書かれたものとされています。クザーヌ ス40代の充実した頃の著作ですが、上のフラッシュの著書によれば、 『知ある無知』と比べると「より錯綜し、難解になった」とされていま す。「人間の知の限界(中略)と、人間の認識がすべてを把握することと を、ともに概念的に言い表すこと」(p.59)がその目的とされ、「強調 点は、無力さにあるというより、あらゆることへの到達可能性にある。決 定的なことは、いまや、無限なものの無規定性ではなく、認識可能性と認 識不可能性の合致だった」(p.60)と記されています。 なにやら難しそうですが、早速中味を見ていくことにしましょう。ここで は、ドイツのマイナー社から出ている羅独対訳本(Nikolaus von Kues, "Mutmassungen", Felix Meiner Verlag, 2002)を底本とし、近年にフ ランスで刊行された仏訳本("Les Conjectures", trad. Jocelyne Sfez, Beauchesne, 2011)を参考にして眺めていくことにします。全部を詳 細に見ていくことはできませんので、全体の内容把握をまずは目標とし、 その上で要所要所で立ち止まって詳しく見ていくようなかたちで、緩急取 り混ぜての読み進めとしたいと思います。 『推論について』は全体がプロローグと17の章に分かれています。プロ ローグでは前作にあたる『知ある無知』に触れて、人間は真理の厳密さ (praecisio veritatis)にはアクセスできないことを改めて示し、「結果 的に人間の肯定的(実定的)主張はすべて推論である」(consequens est omnem humanam veri positivam assertionem esse coniecturam)と断じています。つまり、神のもつ最高位の学知からす ると、人間の学知など取るに足らず、真理の純粋さからはかけ離れてい て、人間の脆弱な理解というものは、これこれが真理であるとの推論にほ かならない、というわけです。なにやらいきなり、身も蓋もない話のよう にも思えますね。 人間の推論についてクザーヌスは、「到達できない真理の統一性は、推論 の他性によって認識され、その他性の推論は、真理の最も端的な統一性に おいて認識される」と述べています。推論は真理そのものにとっての他性 であるとは、実のところ、推論を行う者の数だけ、そこには無限に差異が 生じうることになる、ということにほかなりません。だとすると、誰も他 者の思考を誤らずに理解することはできない、ということになります。あ る種の相対主義と言ってもよさそうです。クザーヌスはこれを、自分の著 書についても当てはめます。自分がこの『推論について』という書で示す のは、自分個人における推論にほかならず、それはあくまで(他者の)精 神にとってのささやかな糧であり、若い人たちにとっての導きになること を願ったものだと述べています。教育的な意図から、その推論の他性を実 地に示そうというわけですね。もっとも、このあたりの文言は、当時の文 献における序文の定型句でもあるわけですが……。 第一章は「推論の起源」と題されています。推論は人間の思考から生じる わけですが、それは神の思考から現実世界が生じるのと同様だとされま す。神の思考は現実世界を豊かに作り出すことができるのに対し、人間の 思考は、神の思考に類似するかたちで、イメージ(像)として、現実世界 の諸存在の類似物を豊かに産み出すことができる、というわけです。だか らこそ「人間の思考は世界の<推論的な>形相である」と言われるのです ね。そしてまた、人間の思考の高まりとは、そうした神の無限の理性との 合一にいっそう近づくことだとされます。その接近へのあこがれは、すな わち学知を完全なものにしようとする自然な欲望だとされます。このあた り、まさにプラトン主義的なスタンスですね。 そこでクザーヌスは一つ注意を与えています。あらゆる事物のほか人間の 精神をももたらす第一原理は、多様・不均一・分割という三つの要素から 成る統一の原理であり、一性から多様性が、均一から不均一が、結合から 分割が生じる原理をもなしているというのですね。ゆえに、その似姿であ る人間の思考も、みずからの理性による産物(つまり理性的概念)につい て、三要素から成る統一原理をなしている、とされます。かくして、理性 こそが多様性・大きさ・構成の拠り所(基準)となるというのです。 無限の実体が否定されれば、あらゆる事物の実体も否定されてしまいま す。同じように、思考の統一性がなければ、多様性も、均一性も、構成も 生じません。この意味で、人間の精神は統一性のうちにあらゆる多様性 を、また均一性のうちにあらゆる不均一を、結合のうちにあらゆる分割を 含み持っている(Quapropter unitas mentis in se omnem complicat multitudinem eiusque aequalitas omnem magnitudinem, sicut et conexio compositionem)と言うことができるのですね。その思考はま ず、その潜在的な統一性から多様性を生じさせます。次いでその多様性 は、不均一や大きさのばらつきを生じさせることになります。ゆえに思考 はその原初的な多様性において、様々な大きさ、あるいは多様性・不均一 の純然たる完成を獲得しようと努めることになり(Quapropter in ipsa primordiali multitudine (...), magnitudines seu perfectiones integritatum varias et inequales venatur)、そうして得られた多様性 と大きさから、思考は構成(結合と分割による世界像の)へと進んでいく ことになる、とクザーヌスは言います。ゆえに人間の思考は、区別し、比 較し、構成する原理なのだ、と……。 ……とまあ、これからこんな感じで各章をめぐっていきたいと思います。 当分のあいだ、お付き合いいただければ幸いです。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------